イエスは、そのことをよく知っていた。
仏陀(ブッタ)の意図を知り、その結果、どのようなことが起きてきているのかも、よく知ったうえで、仏陀とは違うアプローチしようとした。
何度も言いますが、人は自分のなかにある霊性、神と言ってもいいのでしょう。
その霊性を開花させれば、あたりまえのように幸せになる。
仏陀もイエスもその点では、同じものを見ていたのだと思います。
イエスは、その人間のなかにある霊性というものの、その本質を見せようとしたのでしょう。
つまり、人間は死なない。
死は見かけであり、その意味では永遠に生きる。
それを実際に証明することは、とても困難なのですが、イエスはそれをやりきった。
(ここらへんは、日本人には馴染みがなく、違和感をかんじるところかもしれません。)
ただ、永遠の命が、たましいは死なないという意味であれば、そのことは輪廻転生(を意味しているのだ)ととらえることも可能でしょう。
(イエスの本質はとても東洋的であり、輪廻転生がキリスト教で否定されるのは、イエスの死後ずっと後になってからのことなのだといわれています。)
ちょっと、理屈ぽくなりましたね。
イエスは人間にある霊性を、ほら、ここにありますよ。と、まるで、手に取れるように示してくれた。
だから、(戒律がとても大切な、霊性を開花するための手段だとわかっていても)戒律にとらわれ、戒律を守ることが、いつのまにか目的となっているような宗教家にたいしては、毅然(きぜん)とした態度をとりました。
それは、現代でも同じですよね。
その意味で、宗教家といわれる人への不信感、違和感は、当然の感情なのです。
ただ、おもしろいことに、イエスのアプローチも、お釈迦様のアプローチにも、反動というものがあったようです。
お釈迦様は戒律によって、人はたすかると考えたのですが、日本ではその大事な戒律をすっとばして、戒律を守れない凡人でさえ救われるという考えが主流(大乗仏教)となります。
イエスは、人のなかにある霊性を信じましたが、その意味では、逆に厳しいものを(私たちに)つきつけているといえるのかもしれません。
だって、自分を害する人にも愛を持ちなさいとは、よっぽど人が(たましいの存在であることが)わかってないと言えませんよね。
これは厳しい。
「あなたが正しい行動をとることは、わかっています。
あなたのなかには、神の心が宿っているのですから。」
そう言われても、困ってしまうでしょう。
なぜなら、自分のなかにある、「ひと(他人)はどうなってもいい。自分とその家族さえ、しあわせでいてくれれば…」
そんな気持ち、誰にでもあるでしょ?
必ずあると考えたほうが、自然ですよね。
ですから、イエスの真意の反動として、人間は罪人である。
イエスは神の子であり、人間とイエスはまったく違う。
私たちは、ただ、イエスを信じることによってしか救われない、というような考えも、生まれてきたのかもしれません。
イエスの考えとは真逆です。
イエスは人間の霊性があることがわかって、それを讃えているのに、これほど人間存在を卑下しては、真逆(まぎゃく)でしょう。