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時の関守

たましいの力 (4)

私が今ここで、書こうとしているのは、人間はじまりの神話に登場するたましいの話しです。
神話とは、神さまの話しなのだと思うのですが、実は、ここでのほんとうの主役は、たましいなのです。

私はあるとき、たましいはいったいどこにあるのかと、聞かれたことがあります。
正直、そのときは、よくわかりませんでした。
今、こうやって考えてみると、わからなかったのは当然です。
なぜなら、たましいとは、人間の存在そのものなのですから…

どこにあるもなにも、人間の本質そのもの、全(すべ)てなのだと思います。
身体(からだ)こそが、人間なのではないですか、と言う人もいるかと思いますが、身体は見かけであり、幻(まぼろし)のようなものです。
ただ、身体から派生(はせい)する自我(じが)と、あまりにも深く同化してしまい、その自我を切り離すなんて不可能と(私たちは)信じきってしまったのでしょう。

とくに現代は、見かけ(物質)万能の時代ですから、私たちは見誤ってしまったのでしょうか。
自我に、すべての悪を着せるつもりはありません。
しかし、自我が暴走する姿は、あたかも、アクセルとブレーキを踏み間違った車のようです。

どんなに悪意がなくても、アクセルを踏みまちがえれば、暴走してしまいます。
このままでは、人類は自分たちの自我と心中して、この地球を滅ぼしてしまうでしょう。
どんな自我であろうと、自分そのものなのだから、それを捨てることなどできないと思うのか。
それとも、自分の中のたましいに気づき、そして、自分以外の他人(ひと)の中にも、たましいがあることに気づくのか、どちらかなのです。

自分の中のたましいに、気づく手段はたくさんあります。
それを求めるか、求めないか、それだけです。
他人(ひと)の中に、たましいを見いだすかどうかは、(あなたに)見いだすつもりがあるのか、ないのか、それだけです。

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