日本人にとって、悟るということはとても、性(しょう)にあっているのだと思います。
どんなに素晴らしい答えであっても、人から押し付けられては、いまひとつ、しっくりいかないですよね。
それに比べて、自分が悟ったことであれば、それは心の深いところで納得していますから、実行力がちがいます。
そして、とても自由な気がします。
日本人が大好きで、とても衝撃をうけた言葉に、親鸞(しんらん)さんの悪人正機(あくにんしょうき)説があります。
私が解説しなくても、誰もが知っています
「善人でさえ、往生(おうじょう)するのだから、悪人などはなおさら往生するのだ。」といっています。
※往生┉極楽浄土に生まれ変わること
このことで、私がとくに感じたことを書いてみます。
阿弥陀(あみだ)さまは、人間というものが最後には、みんな極楽浄土に生まれ変わることを、本願(ほんがん)として存在しています。
私たちの感覚でいうと、もう、神様のような存在ですね。
その神様のような存在は、それはもう、そのお心からすれば、神様と一心同体といってもよいでしょう。
その阿弥陀さまが天から、この世界を見渡したとき、まず何から始めようとするかというと、悪人から救おうとするのが自然なのです。
私たちの身近(みじか)なことで考えますと、この世界の親子の関係に似(に)てると思います。
子供が何人かいたとします。
子供が何人もいれば、さまざまな子供がいます。
とても優秀で、精神も安定している長男(女)。おちゃめで機転(きてん)のきく次男(女)。おとなしくて甘えん坊だけど、真の強い末っ子…
でも、一番に心配して、いつも心にかけるのは、感受性がするどく、すぐ他人(ひと)とくらべてしまい、ひがみ根性が強く、すぐにけんかするような子供かもしれませんね。
他の子供は、少しぐらいほっておいても大丈夫(だいじょうぶ)と考えれば、その子が一番に心配になるでしょうね。もし、その子が悪の道に落ちてたりすればなおさらです。
天からすれば、悪人(一番心配している子)を救うことこそが、一番の天の役目なのだということになります。
救われるかどうかは別にして、阿弥陀さまはまず、悪人を先に救おうとするのですよ、といっています。
善人はその後になります。
ある夫婦が、子供を養子にすることを望み、養護施設をおとずれます。
その中に一人の女の子がいました。その子は、誰ともいっさい口をきこうとしませんでした。
その子の母親が、自殺した場面に居合(いあ)わせてしまったのです。
それ以来、彼女が口を開くことはありませんでした。
その夫婦は施設の園長に、こう告げます。
「その女の子を養子にしたいと思います。」
園長は驚いて、尋ねます。
「本当に、この子でいいんですか?もっと可愛い子が、他にもいますよ。」
夫婦は次のように答えたと言います。
「この子にとって、私たちが必要だと思うんです。」
悪人正機という考え方こそ、この世界に神、仏が存在するはずだということを証明しているのです。
なぜなら、残念ながら、悪人として、この世界に不幸をもたらす存在が、今もなお現実に存在しているからです。
悪人が存在している以上、神、仏は存在せざるえないのです。
善人は自分のたましいの光で、自己を救うことができますが、悪人こそが神仏の光を必要とするのでしょう。
悪人がいるということは、この世には神仏が存在する必要があるということです。存在せざるえないのです。
親鸞さんのさとり、悟りというには、すごいと思いませんか。