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時の関守

わたしの中のだめな自分 (3)

今、このブログを書いているときに、イスラエルがガザ地区に進攻しようとしている、というニュースが流れています。
テロが許されることではありませんが、巨大な軍事力が、おもちゃのような武器をもった人々に襲いかかろうとしている…。

私にとって、ガザ地区のこれからと、ルワンダの悲劇が、二重写しのように映っています。
(もちろん、歴史的背景、細かな事情はまったく違います。
ただ、人間の心の闇が積もって、重大な結果をおこしている。そのように思いました。)

人類史上、最大の虐殺をうけた民族が、今度は自分たちがそれを行おうとしている。
私にはそう映ります。
言い分は双方(そうほう)にあります。
ただ、深いうらみを残せば、自分たちの子孫がそのうらみを受けることになります。

わたしは子供のころ、信仰に目覚め、信仰大好き人間となりましたが、そうはいっても、だんだんと、今度は信仰することが苦しいものとなりました。
なにも、戒律(かいりつ)などありませんでしたが、信仰というものはなぜか、否定することからはじまるからです。

欲の心は捨てなければならない。
うらみの心も捨てなければならない。
戒律がなくても、人間にある自然な感情、怒り、欲が否定されるのは、若いときにはとても不自由なものでした。
まだ、人間の心の闇が、この世界にどれほどの不幸をもたらすか、何もわかっていませんでした。




コメント一覧

aoisora725
@tokinosekimori-kitaiwahara さんへ
初めまして でした。
驚かせてしまってごめんなさい、、
いつも拝読させて頂いています。
また改めて見させていただきますね。
理想のおじ様。理想に近づけるようにするのは大切な事ですね。
でも自分は自分ですよね。
自分らしさの中に理想とするおじ様を味付けしていけたらいいですね^ ^
私もいろいろあった人生を送って来ました。
これからも宜しくお付き合い下さい。
いつもリアクションありがとうございます😊
tokinosekimori-kitaiwahara
@aoisora725 さんへ
確かはじめて、コメントをいただくのだと思います。ちょっと驚きました。どなただったかなぁ、ブログとブログ名がなかなか一致
しなくて。
元々自由に生きたいと思っていましたが、生きてるうちに、いつの間にか自由でなくなって…
自分をよく見せたい、高い評価がほしい、でも、それは本当の自分ではなくて、つまらない自分でした。若いときのおじから、「お前はふまじめだ。」と言われました。
そのおじが実は、私の理想に近くて、とても自由な人でした。
ちょうど、そのおじとの交流を「私のなかのもう一人の自分」というテーマ、たましいについて書いています。だいぶ先(1ヶ月後ぐらい)になりますが、よかったら読んでください。
自由ということこそ、私たちの人生のとても大事なテーマなのかもしれませんね。
たましいである私たちは、自由を知りたくて、人生のなかに不自由という要素をあえて設定した、そう考えると(私は)少し納得できました。
aoisora725
こんにちは。
プロフィールに
『もう何かに縛られるのはやめた。自由であろう』
とありますね。
私も、縛られていた というより、自分で自分を縛って縛って苦しんでいました。
けど、やめました。縛るのを。
死に直面させないとこいつはわからない 
(という事だったと捉えています)と
何か大きな力(神?仏?)がそうさせてくれて、やっとそう思えるようになりました。
ある意味『自己中心』で物事を考え、
自己犠牲をする事なく、自分の気持ちに正直になる事。
それを実践中です。
嫌な思い出は頭から消える事はないけど、
時はみんな同じようにすぎて行って、過去に起きた事は自分にとって何をもたらせてくれる為に起きたのか?を悔やむばかりでなく
今後に生かすような捉え方が出来たら
生きてる、生かされている意味がなんとなくわかってきた気がしています。
私個人的な思いですが。
縛られた物を少しずつ解放してやって
自由であろう。そうしましょう^ ^
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