徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

母・井手久美子~母の葬儀~

2019-10-24 05:00:00 | 日記
7月1日午前7時半母は亡くなったが、当時はとても熱く家には遺体を置いておけず、葬儀社の安置所に運んでもらい、通夜も出来なかった。

7月4日、母の火葬が決まり北海道から弟の嫁も来てくれた。
安置所で東京キララ社の方達と7名程で最後の別れをして火葬場へ行くため霊柩車に乗せ焼き場へ向かった。
国道16号線の途中で突然母の遺体を乗せた霊柩車が止まった。
霊柩車には弟が私の代わりに喪主として乗っていた。
なんと霊柩車がパンク・・・・・

まるで母が”まだ焼かないで!!”と言っている様だった。
弟の嫁も”お母さまらしいわ!”と言っていた。
『おてんば姫』の最後はこれで終わらなかった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

母・井手久美子~母の旅立ち④~

2019-10-23 05:00:00 | 日記
翌朝、弟と息子の3人で交代で母の具合を見ていた。
朝6時、私がティッシュで唇を濡らしてあげるとほんの少し口を動かした。
それが最後だった。

3人で泣いた・・”よく頑張ったね”と言って私は母の頭を何度もなでた。
涙が止まらなかった・・・・・・・・

皆、暫くは無言でいた。
7時頃いつもの訪問診療の先生に連絡を取り来ていただき死亡を確認してもらった。
診断書を書いて頂き、すぐに葬儀社に電話をした。

こうしていまブログを書いていると当時のことが思い出されて、手が止まってしまう。
ただその頃、西日本では大きな災害で多くの方々が苦しみながら亡くなっていた。
亡くなった方々とご家族の方には心よりご冥福をお祈りいたします。
母は、自宅で身内に見守られながら行けたのは幸せだったんだと自分に何度も言い聞かせた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

母・井手久美子~母の旅立ち③~

2019-10-22 05:00:25 | 日記
病院では点滴をしていたが、体調の具合も、年のせいもあり殆ど体内には吸収されず、先生はその辺を見て寿命が分かったのだと私は理解した。

自宅につくと”よかった、嬉しいわ!”と何度も何度も言っていた。
意識もしっかりしていたが、水も飲ませられない状況なので恐ろしく不安であった。
この年、異常に熱く連日36~38度あった。
家にはクーラーが無くきつかったが、母は昔から暑さには強かった。

翌日、東京キララ社の中村社長とアエラ編集部(昔、女学生の頃、高輪の井手医院でアルバイトをしていた。)の方々が見舞いに来てくれた。
母はもう、あまり声も出なかったが、嬉しそうに笑顔で答えていたが、見ているのも辛かった。

3時間おきにティッシュに水を含ませて唇を湿らせていた。
その都度口をとがらせてほしがった・・・・・   

徳川おてんば姫(東京キララ社)

母・井手久美子~母の旅立ち②~

2019-10-21 05:00:00 | 日記
本が出来上がったことで、興奮と共に緊張の糸が切れ体調を崩した気がする。

約3週間入院となった。
毎日会いに行ったが、熱も下がり元気になってきたのだが、入院2週間ぐらいたった頃より誤嚥性肺炎の疑いが出て来た。
退院する三日ほど前に主治医より恐らく週末は越せないかもしれないと突然言われ、息子と相談し金曜日に慌てて退院させた。

当日息子が”おばあちゃん、家に帰れるよ。”と言うと、顔をしわくちゃにして息子の手を掴み”嬉しい!”と大喜びしていた。
息子と母は介護タクシーに乗った。後で聞くとタクシーの中で”病院の天井に虫がいたの!”とさかんに言っていたようだった。
それが幻覚だったのかは分からないが、しっかりとした会話だったそうだ。
母は昔よりとにかく虫と蛾が大嫌いであった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)



母・井手久美子~母の旅立ち①~

2019-10-18 05:00:00 | 日記
2018年(平成30年)6月6日に長年の夢であった自叙伝が出来上がり、東京キララ社の中村社長が自宅に届けてくれた。
その際デイリースポーツの記者も同席してくれて、インタビューを受けた。

当時の記事

母は本を手にして”夢のようだわ!嬉しい。”と、なにか子供のように本当に喜んでいた。
インタビューにもキチンと答え元気だったのだが・・・

翌7日、朝から何となく母の動作が緩慢なので、おかしいなと思い、おでこに手を当ててみると結構熱があった。
すぐ測ってみると40度もあったのですぐ訪問診療の先生に来てもらい診てもらう。
先生はすぐ入院と判断されたので救急で病院に入った。

徳川おてんば姫(東京キララ社)