昭和30年代の頃から私どもの自宅によく来られ父といろいろ話されていた。
とても温和な方で、しかしながら命令とはいえ従わなければならなかった苦しみが父には感じられていた。
昭和50年代に東京・高輪の自宅が7階建てのマンションになってからは、リビングルームからの眺めを「井手八景」と名付け自筆の書を下さった。
当時はまだ高い建物も少なく、西には富士、南には新幹線、東京湾の船も見え、また夕暮れ時には泉岳寺の鐘の音も聞こえていた。
のちに海上自衛隊幹部学校にて統師学の講義もされていた。その関係もあり、私どもを江田島の元海軍兵学校に連れていってくださったり、また自衛艦や潜水艦”うずしお”にも載せていただけた。
詫間力平(旧姓猪口力平)氏の軍歴はウィキペディアに詳しく掲載されている。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
とても温和な方で、しかしながら命令とはいえ従わなければならなかった苦しみが父には感じられていた。
昭和50年代に東京・高輪の自宅が7階建てのマンションになってからは、リビングルームからの眺めを「井手八景」と名付け自筆の書を下さった。
当時はまだ高い建物も少なく、西には富士、南には新幹線、東京湾の船も見え、また夕暮れ時には泉岳寺の鐘の音も聞こえていた。
のちに海上自衛隊幹部学校にて統師学の講義もされていた。その関係もあり、私どもを江田島の元海軍兵学校に連れていってくださったり、また自衛艦や潜水艦”うずしお”にも載せていただけた。
詫間力平(旧姓猪口力平)氏の軍歴はウィキペディアに詳しく掲載されている。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
父は終戦後、高松宮邸にて殿下より詫間力平元海軍大佐に会わせて頂く。
詫間氏は戦時中、神風特別攻撃隊を命名され、零戦を主体とした世界で最強の航空隊を編成された。
神風の由来は詫間氏の郷里の鳥取市の武道、神風(しんぷう)流からきている。
終戦直前、敗戦の色濃くなったころ悲しくも神風特別攻撃隊の名は神風特攻隊に変わってしまった。
物資不足のなか、航空隊の若い戦闘員に片道のガソリンしか積ませず自爆の戦闘機を幾百機も苦痛の命令の中で送り出した。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
詫間氏は戦時中、神風特別攻撃隊を命名され、零戦を主体とした世界で最強の航空隊を編成された。
神風の由来は詫間氏の郷里の鳥取市の武道、神風(しんぷう)流からきている。
終戦直前、敗戦の色濃くなったころ悲しくも神風特別攻撃隊の名は神風特攻隊に変わってしまった。
物資不足のなか、航空隊の若い戦闘員に片道のガソリンしか積ませず自爆の戦闘機を幾百機も苦痛の命令の中で送り出した。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
今の時代、通信機器をはじめとして全てにおいて便利になったとはいえ、人として人間として本当に幸せなのか考えさせられてしまった。
また、毎年6,7,8月頃になると何となく両親とも感慨深げに当時の話していた。
母は、晩年戦記ものの番組をテレビでやっていると、辛い思いがよみがえるのか、そっとチャンネルをかえ時代劇か落語を見ていた。
父は母と一緒になってから、縁というか運命とも言うべき高松宮宣仁親王殿下と直接会うことになる。
殿下は終戦を迎えたときは海軍大佐であった。
大佐といっても、とにかく昭和天皇の弟君。
そんな方から終戦後直接自宅に招かれ、いち海軍軍医中尉としての現地での壮絶な戦いを事細かに問われたのである。
父は戸惑いながらも殿下のご質問にすべてを、お伝えした。
帰宅した父は、”これでサイパン島にて戦死された方々の事が少しでも殿下に伝わった!”と母に感慨深げに話していた。
第二次世界大戦前の日本軍は、ほとんどの戦いに勝っていた。家康公の遺訓にも”勝つことばかり知りて負くることを
知らざれば害その身に至る”と、まさしくであった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
また、毎年6,7,8月頃になると何となく両親とも感慨深げに当時の話していた。
母は、晩年戦記ものの番組をテレビでやっていると、辛い思いがよみがえるのか、そっとチャンネルをかえ時代劇か落語を見ていた。
父は母と一緒になってから、縁というか運命とも言うべき高松宮宣仁親王殿下と直接会うことになる。
殿下は終戦を迎えたときは海軍大佐であった。
大佐といっても、とにかく昭和天皇の弟君。
そんな方から終戦後直接自宅に招かれ、いち海軍軍医中尉としての現地での壮絶な戦いを事細かに問われたのである。
父は戸惑いながらも殿下のご質問にすべてを、お伝えした。
帰宅した父は、”これでサイパン島にて戦死された方々の事が少しでも殿下に伝わった!”と母に感慨深げに話していた。
第二次世界大戦前の日本軍は、ほとんどの戦いに勝っていた。家康公の遺訓にも”勝つことばかり知りて負くることを
知らざれば害その身に至る”と、まさしくであった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
私は、このブログを書き始めて、父の書き残した戦記を初めて真剣に何度も読み、記している間幾度も涙が止まらなかった。
今更ながら、戦争の過酷で悲惨な事実を肌で感じ、終戦後のあまりにも平和な生活に浸っていた自分が情けなく思えてならなかった。
しかし、当時の日本人の忠誠心(無理矢理押し付けられたとは言え)と、技術力の高さには改めて驚かされた。
こんな小国が、ギリギリまで超大国と戦い、負けたとはいえ今の日本が存在できていることに改めて感謝せざるを得ない。
そして二度とこの様な悲劇は繰り返してはならないと思うのだが・・・・・。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
今更ながら、戦争の過酷で悲惨な事実を肌で感じ、終戦後のあまりにも平和な生活に浸っていた自分が情けなく思えてならなかった。
しかし、当時の日本人の忠誠心(無理矢理押し付けられたとは言え)と、技術力の高さには改めて驚かされた。
こんな小国が、ギリギリまで超大国と戦い、負けたとはいえ今の日本が存在できていることに改めて感謝せざるを得ない。
そして二度とこの様な悲劇は繰り返してはならないと思うのだが・・・・・。
徳川おてんば姫(東京キララ社)