徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑥~

2019-10-08 05:00:00 | 報道・掲載
昭和53年8月12日より3か月間、米国カルフォルニアの航空博物館に展示されていた零式戦闘機52型が、多数の方々の努力で日本の上空にそのかつての勇姿を現した。

この戦闘機はまさに261空「 虎 」の戦闘機であった。

零式戦闘機は周知のごとく、当時太平洋戦に確たる戦果をあげた、世界的に優秀な戦闘機であった。

その華麗さと言える完璧な姿で、敵の心胆をさむからしめた零戦も、残念ながらサイパン戦も最後の頃には、アスリート飛行場付近の樹木の間に、迷彩網によって隠蔽されるのみで飛行することなく、アスリート占領と同時に米軍の捕獲することになり、米本国において充分に研究され、その優秀性は当時の米搭乗員が、恐るべきライバル機としてみとめ、それに対する新しい作戦に頭を悩ませたと聞いている。

この零戦が私の隊、261空のものであったと知ったとき、私と同じ運命で米本土に送られたのだなと思い、万感胸に迫るものがあった。

今回の慰霊祭にも上空から参加し、戦没者のご冥福をともに祈ったであろうと信じている。

零戦に乗って散った若人たちの霊は、この零戦と共に永遠に人々の胸に生き続けることであろう・・・・・


                      完

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)



父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦⑤~

2019-10-07 05:00:00 | 日記
ちょうど私どもがサイパンを訪れる3ヶ月前に、私がいた洞窟より、さらに北のマッピ岬のウロト渓谷では、50数柱の日本軍の遺骨が発見され、厚生省の遺骨収集団が現地の人の協力で、丁重に内地に運んだそうである。

私どもは現地の人の案内で、深さ50メートルくらいのウロト渓谷を訪れた。

崖の上から見下ろすと、はるか底には海水が入り込み、なんとも形容しがたい碧さに透き通り、その周囲は、大小の岩が折り重なって底まで崖をなしている。

私たちは収集団の使った綱とクサリにつかまりながら、岩づたいに降りた。

底に着くと、まさに静寂そのもので、当時はここに退避した戦友たちは周囲の岩棚に身を寄せ合い、飢えと渇きに苦しみつつ、友軍の救援の手を待ち焦がれながら、絶望と無念の思いの中で死んで行ったのであろう。

見回すと、岩のあちこちに、名前が刻まれていたのが、いっそう痛ましく、胸の締め付けられる思いであった。

今はただサイパン島で亡くなられた陸海軍、および民間の方々の霊よ永遠に安かれと祈るのみである。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦④~

2019-10-04 05:00:00 | 日記
私にとっては、総攻撃の二日前、北の洞窟より一キロほど離れたこの戦闘指揮所に連絡に行った思い出の場所であり、当時のことを思い出し、まさに感慨無量であった。

最後の総攻撃の地点や、タナバク水上基地付近は、もう当時の跡形すらなく、ガラパンの街には現地の人の粗末な家屋が立ち並び、南洋興発会社跡には、製糖工場の煙突と、当時のサトウキビ運搬用の蒸気機関車、および同会社創立者の松江春治氏の銅像がそのまま残り、日本の委任統治地であった頃の面影を僅かに残している。

バンザイクリフの下から見上げると、100メートルもある切り立った崖には、米軍の艦砲射撃による弾痕が生々しく残っている。

米軍上陸地点のチャランカノアの海岸には、日本軍の砲撃で破壊された米軍の水陸両用戦車の残骸がその砲塔を紺碧の海上に現していたが、その付近を、当時のことを何も知らぬ若い男女が楽しそうに泳いでいた。

また最後の5日間、陸海軍の残存部隊や負傷者と共に過ごした北部の洞窟は、サイパン陥落後、米軍がブルトーザーで入口を塞ぎ、今は全く銀ネムノジャングルの中にあり、現地の人ですら踏み入ることのできないような場所になっていた。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも⑰・私の零戦③~

2019-10-03 05:00:00 | 日記
最後に私事であるが、終戦後、毎年6、7月になると、サイパン島内の戦闘や玉砕当時のことが想い出され、一度はサイパン島を訪れて、戦死された方々への霊を慰めに行きたいと考えていたが、昭和44年8月、25年ぶりにその機会をえて妻・井手久美子と二人でサイパン島を訪れた。

幸い当時、日本軍の二等兵として奮戦された、ビセンテ・サブラン市長とサイパン島で警察官として日本陸海軍に協力され、現在は実業家であるゲレロ氏の好意により、島内の261空のたどった道をすべて案内していただいた。

アスリート飛行場、261空戦時治療所付近、高射砲陣地跡、防空トーチカおよびラウラウ湾の要塞砲台跡などを訪れ、さらにタポーチョ山を越え、上田猛虎261空司令が玉砕直前まで戦闘指揮をとられていた、コンクリートで固めた洞窟の戦闘指揮所も訪ねた。

この戦闘指揮所の跡には、現在、その周辺部に島内より集められた、当時の日本軍の野砲、山砲、機銃、戦車などの兵器が多数配置、展示され、激烈なる戦闘と悲壮なる玉砕を物語るものとして、サイパン島を訪れる人々の必ず訪ねる戦跡記念地区となっている。

(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)

徳川おてんば姫(東京キララ社)