ニューヨークタイムズは、毎日第2面で2段組の訂正記事を書いている、と何度か書きました。その発想の源といえるような内容が「米国プレスの自由調査委員会」(ハッチンス委員長)がまとめたレポート「自由で責任あるメディア~マスメディア(新聞・ラジオ・映画・雑誌・書籍)に関する一般報告書」(日本語訳・論創社)に書かれているのを発見した。なるほど~と頷かされてしまった。
頷いたのは、上記レポートの補論の8(日本語訳136頁)部分に書かれた「自由の権利には過誤の権利が含まれる」というタイトルの短い論述だ。ここには、次のように書いてある。
【自由には実験的な側面があるし、実験というものには必ず試行錯誤というものがある。間違った意見でも、その時点では正しいと考える人たちがそれらの意見を正々堂々と提案できなければ、議論というものは成立しない。そうした社会的目的があるから、表現の自由権の最前線では、他人の間違いがわかっている、あるいはわかっていると考えている人たちにいわゆる「寛容」を求めている。だが、ここで求められるのは単なる寛容ではなく、さらに積極的なもの、つまり権利主義的に上から当たる矯正によらない自己修正のプロセスの尊重ということである。
この点に関しては、間違いをおかした人は真実に到達しようと実際に努力するものだと考えられるし、そうした努力がその人が自由を主張するための根源になければならない。逆にいえば、意識的あるいは無責任に誤りをおかす権利は、道義的な権利の範疇には入らないということである】
表現の自由を保障するためには、間違える自由も保障しなければならない、ということをこれだけストレートに書いたものに出会ったことがないような気がする(物覚えが悪いので忘れただけかもしれないが…)。
そもそも、マスメディアが記事を書く際、常にパーフェクトを求めることはできない。間違いは必ずつきまとう。その際に、それを訂正して正しい情報を流そうとする努力があることによってはじめて、そのメディアは次の表現行為をなしうる資格を有するということだ。これをニューヨークタイムズは実践しているのだ。
それでもマスメディアに間違いは許されない…そう思う人もいるだろう。表現の自由はマスメディアの特権ではない。クラスでの討論や会社での会議、家族内の会話などについて、意見を述べたら間違えていたことが分かり、徹底的に糾弾される場面を思い起こしてほしい。
意見を述べた人は、もう二度と意見を言えない、そう思うかもしれない。特に少数派の人は、そのような立場に追い込まれることが多い。これをマスメディア用語でいえば、「チリングイフェクト(Chilling Effect)」(萎縮効果)ということになる。
民主主義社会では、意見を述べない方が悪い。叩かれたって意見を言うべきであり、叩かれたら意見を言えないからって文句をいう権利はない…そう反論するかもしれない。
しかし、よく考えてほしい。ある意見というのは、その発言者のみに役立つことだろうか。
たとえば、光市事件で弁護団がバッシングを受けた。このときには、バッシングの源になった橋下弁護士の見解こそが間違っていると声を上げるとその人までバッシングされかねない勢いだった。
「バッシングする側こそ間違っている」という意見は、弁護団に関係のない人が発する場合、自分のためにするわけではない。社会が間違った方向に流れるのを防ごうとして警告を発しているに過ぎない。
こういう場合に、「橋下弁護士への批判を述べないのは、自分の弱さのせいだ」っていう批判があてはまらないのは、お分かりだと思う。
つまり、意見っていうのは、自分のためだけに述べられるのではなく、社会全体のために発言されることもあるってことだ。
同様に、仮に自分のためだけに述べたとしても、結果的に社会全体のためになるってこともある。
そう、少数意見、発言力のない人の発言、属する集団では目立たない人の発言、差別されている側の意見、こういう意見の中に、社会全体のためになる内容が含まれていることもある。
そういう意見を圧殺しないように、「間違える自由」を意識的に保障しなければならないと考える。そうすることが社会全体にとって利益があることだから。少しだけ、世の中全体が賢くなるかもしれないから。
過誤の権利はマスメディアだけの権利でなく、市民みんなの権利なのだ。
しかし、その裏には、発言した側も間違えたら自ら訂正する真摯な態度が必要となる。その真摯さがなければ、発言者の意見は間違いをおかすたびに徐々に支持されなくなっていく。そして、もう間違えないようにルールを決めよう、などということになりかねない…。
ぜひ、家庭、地域社会、職場、学校などでもこの間違える権利とその真摯な行使を実践するよう心がけてほしい。っていっても、なかなか、できないことだけどね。
このレポートかなり読み応えあり。ぜひ、お読みください。
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★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
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頷いたのは、上記レポートの補論の8(日本語訳136頁)部分に書かれた「自由の権利には過誤の権利が含まれる」というタイトルの短い論述だ。ここには、次のように書いてある。
【自由には実験的な側面があるし、実験というものには必ず試行錯誤というものがある。間違った意見でも、その時点では正しいと考える人たちがそれらの意見を正々堂々と提案できなければ、議論というものは成立しない。そうした社会的目的があるから、表現の自由権の最前線では、他人の間違いがわかっている、あるいはわかっていると考えている人たちにいわゆる「寛容」を求めている。だが、ここで求められるのは単なる寛容ではなく、さらに積極的なもの、つまり権利主義的に上から当たる矯正によらない自己修正のプロセスの尊重ということである。
この点に関しては、間違いをおかした人は真実に到達しようと実際に努力するものだと考えられるし、そうした努力がその人が自由を主張するための根源になければならない。逆にいえば、意識的あるいは無責任に誤りをおかす権利は、道義的な権利の範疇には入らないということである】
表現の自由を保障するためには、間違える自由も保障しなければならない、ということをこれだけストレートに書いたものに出会ったことがないような気がする(物覚えが悪いので忘れただけかもしれないが…)。
そもそも、マスメディアが記事を書く際、常にパーフェクトを求めることはできない。間違いは必ずつきまとう。その際に、それを訂正して正しい情報を流そうとする努力があることによってはじめて、そのメディアは次の表現行為をなしうる資格を有するということだ。これをニューヨークタイムズは実践しているのだ。
それでもマスメディアに間違いは許されない…そう思う人もいるだろう。表現の自由はマスメディアの特権ではない。クラスでの討論や会社での会議、家族内の会話などについて、意見を述べたら間違えていたことが分かり、徹底的に糾弾される場面を思い起こしてほしい。
意見を述べた人は、もう二度と意見を言えない、そう思うかもしれない。特に少数派の人は、そのような立場に追い込まれることが多い。これをマスメディア用語でいえば、「チリングイフェクト(Chilling Effect)」(萎縮効果)ということになる。
民主主義社会では、意見を述べない方が悪い。叩かれたって意見を言うべきであり、叩かれたら意見を言えないからって文句をいう権利はない…そう反論するかもしれない。
しかし、よく考えてほしい。ある意見というのは、その発言者のみに役立つことだろうか。
たとえば、光市事件で弁護団がバッシングを受けた。このときには、バッシングの源になった橋下弁護士の見解こそが間違っていると声を上げるとその人までバッシングされかねない勢いだった。
「バッシングする側こそ間違っている」という意見は、弁護団に関係のない人が発する場合、自分のためにするわけではない。社会が間違った方向に流れるのを防ごうとして警告を発しているに過ぎない。
こういう場合に、「橋下弁護士への批判を述べないのは、自分の弱さのせいだ」っていう批判があてはまらないのは、お分かりだと思う。
つまり、意見っていうのは、自分のためだけに述べられるのではなく、社会全体のために発言されることもあるってことだ。
同様に、仮に自分のためだけに述べたとしても、結果的に社会全体のためになるってこともある。
そう、少数意見、発言力のない人の発言、属する集団では目立たない人の発言、差別されている側の意見、こういう意見の中に、社会全体のためになる内容が含まれていることもある。
そういう意見を圧殺しないように、「間違える自由」を意識的に保障しなければならないと考える。そうすることが社会全体にとって利益があることだから。少しだけ、世の中全体が賢くなるかもしれないから。
過誤の権利はマスメディアだけの権利でなく、市民みんなの権利なのだ。
しかし、その裏には、発言した側も間違えたら自ら訂正する真摯な態度が必要となる。その真摯さがなければ、発言者の意見は間違いをおかすたびに徐々に支持されなくなっていく。そして、もう間違えないようにルールを決めよう、などということになりかねない…。
ぜひ、家庭、地域社会、職場、学校などでもこの間違える権利とその真摯な行使を実践するよう心がけてほしい。っていっても、なかなか、できないことだけどね。
このレポートかなり読み応えあり。ぜひ、お読みください。
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★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
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