ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

炎暑の15日

2013-08-15 14:39:07 | つれづれ

 

毎年、当然のように「終戦の日」は、暑いさなかです。

そして、当時の思い出のお話には「あの日も暑い日でした。空がとてもきれいだった」と、

そんな言葉が聴かれます。母もそんなことを言ってました。

 

毎年「ヒロシマの日」には、あの原爆ドームが朝から何度もテレビに映ります。

私は広島に行ったことがないので、実物をこの眼で見たことがありません。

ドームは、原爆が炸裂した160メートルの位置にあったそうですが、爆裂がほぼ真上であったこと、

建物の部位による建築素材の違いや窓が多かったこと、さまざまな要因がこれを残したといわれています。

私が若かったころ、やはり毎年このドームの映像を見ましたが、一時期「保存するかどうか」で、

撤去されるかもしれない時期がありました。1960年代のことです。

危険であることや、維持保存にお金がかかることなどがその要因ですが、

もうひとつは「見るたびにあの日のこと、つらい記憶が呼び戻される。なくしてほしい」という

市民の声が高かったのだそうです。それはムリもないことだと思います。

 

先日書いた記事にもあるとおり、原爆から10年ほど経って、突然被爆者の中に「白血病」患者が増えました。

大人はもちろんのこと、おそらく新陳代謝のいい子供たちは、真っ先に症状が出始めたのだと思いますが、

被爆したときまだ赤ちゃんや子供だった人たちが、多数なくなりました。

その中の一人が「折鶴」の少女、もう一人が「日記」を書き残した少女です。

日記を書き残したのは16歳の楮山ヒロ子さんという方。

その日記に遺された

「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるのだろうか」

という一文が、保存運動のきっかけになったといわれています。

 

最近のニュースで、あの震災のときの残った建物や、陸地奥深くまで運ばれた船などを、

震災の遺物として残すかどうか…という問題が、あちこちで出いるということを報じていました。

そして、ドームと同じように「修復・保存・維持」には多額のお金がかかることと、

アンケートの結果、ある施設では市民の7割近くが

「そこで身内を亡くした。思い出すから壊してほしい。見たくない」と、そういう結果が出たと…。

結局、私の見たニュースでの施設も船も、解体撤去されることが決まりました。

 

まったくそういう被害にも遭っておらず、また家族を津波や震災でなくしたわけでもない私が、

そのことについてあれこれ言うのは、おこがましいとは思うのですが…。

楮山ヒロ子さんの「あれだけが後世に訴えてくれるものなのだろうか」という言葉が、

どうにも心のどこかにひっかかって離れません。

 

「原爆ドーム」を見るたびに、あの日の恐ろしさを思い出し、そのための不治の病に苦しみながらも、

「あれだけが恐ろしさを訴えるのだろうか」といった彼女は、自分の身の不幸よりも、

「これを忘れてくれるな」という思いが強かったのではないか…と、そんなふうに思うのです。

 

震災で子供を亡くした人が「あの前を通るたびに思い出すからいやだ」と言ったと。

その気持ちもわかるのです。その中で泥水に飲まれながら「おとうさん!おかあさん!」と

叫びながら逝ったであろうわが子を思えば、また泥水に浸かり、汚れ、

傷だらけになった親の遺骸と対面すれば…その建物の前をとおることさえ疎ましいと思います。

人の子の親になった今、親を先年送った今、それはとてもよくわかるのです。

だから遺してほしいと、簡単にはいえなのですが、以前の震災関係のリポートで、

高校生のグループが活動しているのを見ました。その中の一人が言ったのです。

「1000年先の子供たちに…」と。

 

震災後のさまざまなリポートで、ある場所に一つの石碑がありました。

それは先祖が何度も津波に襲われた結果建てた「ここから先に家を建ててはならぬ」と教える石碑でした。

先祖といったって、100年に一度というような津波を経験した人はすくなかったはずです。

それでも語り伝えてきたわけです。「とうちゃんは知らないけどな、ひいじいさまがオマエくらいのとき、

おっきな津波がきてな、この石碑から下の家はみんな流されたんだと」と。

「ニンゲンは自分が物体だからね、形のないものはなかなか信じられないのよ」といったのは、

私の人生の先輩である方です。「愛情とか友情とか、信頼とかね」と。

情けないことですが、ほんとにそうなんですよね。

だからこそ、何か形になるものを残して伝える…というのは、有効な手段ではないかと思うわけです。

 

原爆ドームの写真は数多くありますが、私はぜひ「周囲も含む写真」を、子供たちに見てもらいたいです。

こちらに遠景をとった写真があります。

そして、こちらのサイトでは、当時のドーム、そして町並みが見られます。原爆直後の写真も。

一つの建物が、恐ろしい壊され方をし、そして遺されてゆく…。

原爆ドームの周囲はきれいに整備され、近隣には近代的なビルが建ち並びます。

そこだけぽっかり古いまま…とんでもなく「異質」です。でも、この建物だって、当時は斬新で人の眼を集め、

穏やかな町の風景を見下ろしていたわけです。それが一発の爆弾で、ドームと外側だけを残し、

街そのものも消えてしまいました。ドームに心があったなら、どんな思いで、瓦礫の山を見つめていたでしょう。

やがて朽ち果ててゆくはずの「体」を補強され、平和への祈りをこめて、と、立ち続けることになりました。

ドームの思いはわかりませんが、もしかしたら「もう壊してくれ」とおもったかもしれません。

それでも、人の思いがわかるとしたら、今は「がんばって立ち続けるから、二度と街がなくなるようなことは、

しないでくれよ、頼むよ」と、言っていると思いたいのです。

 

遺物を残すというのは、経済的なこともあります。そこで実際の被害にあった人は、つらくて見たくもないでしょう。

それもよくわかるのですが、私たちは「残す」ことと「伝える」ことを、続けなければならないと思うのです。

「1000年先の子供たちに」といった、あの娘さんの言葉が、ずしりときます。

自分は悲しい、一生のうちでこんなつらいことはない、それでも、この先の人たちに…と思うことは、

大事ではないかと思うのです。施設や船を残せといっているわけではありません。

原爆ドームだって、アレだけ大きくなかったら、あれが台風や津波の被害だったら、

そして、今に近い時代だったら、とっくに取り壊されていたかもしれません。

「遺されることになった」のは、建物の運命なのかもしれません。

遺すということの重要性は、実は「未来の子供たち」のためだけではないと思うのです。

だって私たちは、がんばっても100年ほどしか生きられません。

私たちはみんな、次世代の人に、そのツギの代の人に、未来を「託す」ことしかできないのです。

いいことも悪いことも「頼んだよ」と、手渡すことしかできないのです。

そこに生きるのは、私たちの子や孫や曾孫です。

つらくても遺す、悲しくても伝える…原爆ドームは、そういっているように思うのです。

 

言ってる私は、ほんとに何もできない状況にあります。

だからせめて「忘れないように」、そして自分にできることは何かを考えることをやめないように、

そんな気持ちでいます。NHKの復興支援ソングの「花は咲く」…。

あれの「私は何を残しただろう」を聞くたびに、心がきゅっと引き締まる気がするのです。

 

そして、いつにもまして暑いこの夏の今日、今の幸せを感謝しつつ…黙祷。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ほんとにお盆休みさせていた... | トップ | 送り火 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

つれづれ」カテゴリの最新記事