昔ある山の奥に、きれいな泉がありました。
だぁれもこないけれど、いつもきれいな水がこんこんと湧いていて、
それは小さな流れを作って、山の裾のほうへと流れていました。
ある日、一羽の鳥がやってきて、水を飲みました。
お礼のつもりか、小さな種を一粒、置いていきました。
やがて種から小さな芽が出ました。
何年か何十年か…それはやさしい木陰を作る樹に育ちました。
でも、相変わらず、だぁれもきません。
また静かな静かなとしつきが流れました。
いつの間にか、樹の根方に小さなシダが生えました。
それから小さな緑のはっぱが伸びてきました。
春になると、樹がかがみこんでやっと見えるほどの、小さな花も咲くようになりました。
樹のおなかのあたりには、リスが巣をつくり、肩より高いところには鳥もすむようになりました。
樹は一人ぼっちではなくなりました。
泉はあいかわらず、ただこんこんと湧き続け、シャラシャラキラキラとどこかへ流れていきます。
樹もシダも草花も…この小さな世界が大好きで、シアワセでした。
自分たちがポロリと落とした小さな実や種が、泉の流れに乗って、べつのところへ流れ着き、
やっぱり自分たちと同じように、仲間と一緒に暮らし始めていることを知りませんでした。
小さな泉から流れていく、その小川のほとりに、たくさんの小さな静かでやさしい仲間が増えていることを、
水の流れだけがしっていました。
何でも大量、何でも簡単、ボタンひとつ、キカイに話しかけてコトがすむ…
そんな今の暮らしは、本当に幸せなんだろうかと、ふと思います。
「満ち足りる」ということは、いつもたっぷりものがあったり、いつも好きなときに何でもできることだったり、
いやなことわずらわしいことに触れなくてよかったり、
顔や名前を出さずにヒトの悪口や傷をつけることが言えたり…そんなことではないはずです。
恐ろしい地震も、降り止まない雨も、すべてを破壊する津波も…自然の一面であることは確かです。
恐ろしい顔も持っている、でもそれは、最初からヒトを痛めつけようとしてやっているわけではない。
自然の摂理に則っているだけです。
だからこそ、ヒトは謙虚であらねばならぬ…と思います。
続けて災害に合った人たちが「ココロが折れる」といいながらも、またもう一度やり直そうとする、
あの恐ろしい津波に合った人たちが「それでもここでまた暮らしたい」という…
それは、ヒトは一人で生きているわけではない…とわかっているからだと思います。
樹とシダと草花とリスと鳥と、水の流れと…。
仲間や家族がいれば、また前に進める…だから、孤独死やいじめによる自殺…
そんな事件を知ると、言いようのない哀しさを感じてしまうのです。
人間は「言葉」と「文字」という最強の伝達手段を持っているのに、なぜそれをシアワセのために使わないのかと。
キャスト
樹…どうだんつつじさん
シダ…ずっと鉢のなかで「龍のひげくん」と、にぎやかにひしめきあってるシダさん
草…サボテンの横に「おじゃましまーす」とはえてきたネコジャラシさん
手間をかけることが無駄のように言われる昨今、
機械や道具を使って簡単にしたら、そこにかける「心」まで、
あちこち省略になったり、浅くなったり…。
なんだか薄い軽い…が当たり前のようで、ほんとにさびしいです。
NHKの復興支援の歌で「私は何を残しただろう」という一節を聞くと、
考えてしまいます。
すべて大人の世界では普通にあることで、
今にはじまったことではありません。
その大人が何を是とし何を非とするかの
判断が出来なくなってきているように
思えます。
俯瞰して事を考えることが出来なくなって、
自分よがりな解釈でいますから、
その任につきながらもことの重大さの判断が
つかないのには愕然とすること多しです。
一昨日までの暑さは昨日今日は一段落して
いっときの憩いを感じています。
<生き返る>心地です。
自然の営みも生命の営みも語らずとも
お互いに営みあっているのです。
なんでも考えなくても与えられてしまう
今の世の中は便利なのは進歩なのかも
知れませんが、その進歩のなかで
心が問う、思いやることの心が
失われていくのはとても辛いことです。
私自身も改めて考えるこの頃です。
とんぼさん作の物語、
そうありたい世界です。