先日「生ましめんかな」のお話しをいたしましたところ、
たくさんのコメントを頂きまして、ありがとうございました。
「戦争」「核」、どちらも日常生活の中では隣にあるものではないがゆえ、
ついついよそごとのように思いがちですが、
日々の暮らしが、それひとつで根底から覆ることもあるのだということ、
いつも忘れずにいたいものだと思います。
ところで、今朝の新聞で、偶然「生ましめんかな」の文字をみつけました。
読売新聞の一面「編集手帳」ですが、あのお産婆さんの命と引き換えに
生まれでた赤ちゃんは女の子で「和子」さんといいます。
私は詩を初めて読んだころは、せっかく生まれた命であっても、
そんな状態ではもしかしたら…と長く生存を知らずにいました。
生きていたと知って、本当に人間の力というものはすごいものだと思い、
取り上げたお産婆さんの、命をかけた仕事はムダにはならなかったのだ、と
そんな風に思ったことでした。
新聞によれば「和子さん」は、広島でお店を開いておられるそうで、
高校生になるまで、詩の赤ちゃんが自分のことだとは知らなかったそうです。
それもお母様が被爆体験を語らなかった…ということで、そのことで私は
お母様もまた助かったのだと、二重に安堵しました。
「世間の偏見から守るために、胎内被爆した娘であるということを隠していた、
親心であろう」と語られたそうですが、それなんですよね。
被爆体験はその人にはなんの罪もない、それなのにやはり放射能汚染ということ、
みにくいケロイド、そういったことで、人々からうとまれたり恐れられたり…。
ただ体に被害を受けたというだけでなく、そういう苦しみもあったわけです。
サリン事件あたりからでしょうか、PTSDと言う言葉が
よく使われるようになりました。心的外傷、でしたか。
ひどい体験をすると、それが心の傷となって残る…。
先日もあの福知山線の事故の生存者が、未だに電車がこわい…とか、
時々悪夢で飛び起きるとか、そういったお話をしていました。
それから考えてみると、被爆体験をした人たちは、そのケガはもちろんのこと、
目の前で家族が息絶えたり、体が粉々に吹き飛んだり、
自分自身もおそろしいやけどを負ったり、あとあと病気の恐怖におびえたり。
原爆はどれだけのPTSD患者を生みだしたことか…。
当時はそういうことまで、まだ医学の進歩は追いついていなかったでしょうし、
たとえわかっても、そういうことまで手を差し伸べる余裕はなかったと思います。
私の伯父は、すでに故人ですが、元々職業軍人で水兵さん、
戦争が始まったころは、村でもたいへんな人気モノだったそうです。
ところが終戦を迎え、何年かたってやっとの思いで復員した伯父は、
抜け殻のようであった、と母がいっていました。
「あれはなんだったんだ」という思いだったのかもしれません。
結局、伯父は完全に立ち直ることはなく、職業にはついたものの、
気弱でかいしょナシのオトコになりさがった、とこれは伯母の言葉。
ずっと伯母に怒鳴りつけられながら、小さくなって暮らしていました。
私がいくと、穏やかな笑顔で「遠いとこようきたなぁ、おおきなったなぁ」と
いつもやさしく迎えてくれましたが、伯母に「アンタなにしとんねん、
はよシゴトいかんか!」と怒鳴られては、こそこそとでかけてゆく、
そんな姿を覚えています。単なるカカァ天下だと思っていましたが、
伯父夫婦のあれもまた「PTSD」のひとつではなかったか…と思います。
戦後60年を経て、戦争体験や被爆体験を語る人が増えてきています。
なぜ今頃…と思うのは単純ですが、自分自身が「思い出したくない」こと、
だったわけです。哀しいつらいなどという程度ではありませんから。
それこそがPTSDであったことでしょう。
それが年をとり、老い先を考え、今の世の中を見るにつけ、
「これは残さねばならん」と思い至り、語り伝えよう、書き残そう、と
努力をしてくださっているわけです。
昨夜は硫黄島の生存者が、凄惨な戦友たちの最期を語っていました。
こうやって話すことが、今彼らにしてやれること…と泣きながら。
以前にも書きましたが、私の舅も、シベリアから復員してきたひとで、
三回の召集で、最後は4年の抑留生活を生き延びて生還しました。
今の世なら「ラッキーだったねぇ」と喜び、
「これから今までの分、楽しまなくちゃ」かもしれません。
しかし、舅は故国を思いながら凍土の土となった戦友を思い、
質素に、静かに自分に厳しく生きて暮らしたひとでした。
戦争と言うのは、やっている間だけでなく、終わってなお、
長い長い時間、人を苦しめ人をいじめるものです。
たった一度の人生を、恐ろしい色にぬられてしまう恐怖と怒りは、
それを体験していなくても、それをさけようという努力はしなければなりません。
新聞の記事、最後はこうありました。
「地下室の産声はいつまでも、声なき語り部でありつづけるだろう」
その言葉に、真剣に耳をかたむけなければ…。
かの方たち「領収証は1円から」「いやそれでは」なんぞと、
次元の低いハナシをしている場合ではないと、気がついてください。
たくさんのコメントを頂きまして、ありがとうございました。
「戦争」「核」、どちらも日常生活の中では隣にあるものではないがゆえ、
ついついよそごとのように思いがちですが、
日々の暮らしが、それひとつで根底から覆ることもあるのだということ、
いつも忘れずにいたいものだと思います。
ところで、今朝の新聞で、偶然「生ましめんかな」の文字をみつけました。
読売新聞の一面「編集手帳」ですが、あのお産婆さんの命と引き換えに
生まれでた赤ちゃんは女の子で「和子」さんといいます。
私は詩を初めて読んだころは、せっかく生まれた命であっても、
そんな状態ではもしかしたら…と長く生存を知らずにいました。
生きていたと知って、本当に人間の力というものはすごいものだと思い、
取り上げたお産婆さんの、命をかけた仕事はムダにはならなかったのだ、と
そんな風に思ったことでした。
新聞によれば「和子さん」は、広島でお店を開いておられるそうで、
高校生になるまで、詩の赤ちゃんが自分のことだとは知らなかったそうです。
それもお母様が被爆体験を語らなかった…ということで、そのことで私は
お母様もまた助かったのだと、二重に安堵しました。
「世間の偏見から守るために、胎内被爆した娘であるということを隠していた、
親心であろう」と語られたそうですが、それなんですよね。
被爆体験はその人にはなんの罪もない、それなのにやはり放射能汚染ということ、
みにくいケロイド、そういったことで、人々からうとまれたり恐れられたり…。
ただ体に被害を受けたというだけでなく、そういう苦しみもあったわけです。
サリン事件あたりからでしょうか、PTSDと言う言葉が
よく使われるようになりました。心的外傷、でしたか。
ひどい体験をすると、それが心の傷となって残る…。
先日もあの福知山線の事故の生存者が、未だに電車がこわい…とか、
時々悪夢で飛び起きるとか、そういったお話をしていました。
それから考えてみると、被爆体験をした人たちは、そのケガはもちろんのこと、
目の前で家族が息絶えたり、体が粉々に吹き飛んだり、
自分自身もおそろしいやけどを負ったり、あとあと病気の恐怖におびえたり。
原爆はどれだけのPTSD患者を生みだしたことか…。
当時はそういうことまで、まだ医学の進歩は追いついていなかったでしょうし、
たとえわかっても、そういうことまで手を差し伸べる余裕はなかったと思います。
私の伯父は、すでに故人ですが、元々職業軍人で水兵さん、
戦争が始まったころは、村でもたいへんな人気モノだったそうです。
ところが終戦を迎え、何年かたってやっとの思いで復員した伯父は、
抜け殻のようであった、と母がいっていました。
「あれはなんだったんだ」という思いだったのかもしれません。
結局、伯父は完全に立ち直ることはなく、職業にはついたものの、
気弱でかいしょナシのオトコになりさがった、とこれは伯母の言葉。
ずっと伯母に怒鳴りつけられながら、小さくなって暮らしていました。
私がいくと、穏やかな笑顔で「遠いとこようきたなぁ、おおきなったなぁ」と
いつもやさしく迎えてくれましたが、伯母に「アンタなにしとんねん、
はよシゴトいかんか!」と怒鳴られては、こそこそとでかけてゆく、
そんな姿を覚えています。単なるカカァ天下だと思っていましたが、
伯父夫婦のあれもまた「PTSD」のひとつではなかったか…と思います。
戦後60年を経て、戦争体験や被爆体験を語る人が増えてきています。
なぜ今頃…と思うのは単純ですが、自分自身が「思い出したくない」こと、
だったわけです。哀しいつらいなどという程度ではありませんから。
それこそがPTSDであったことでしょう。
それが年をとり、老い先を考え、今の世の中を見るにつけ、
「これは残さねばならん」と思い至り、語り伝えよう、書き残そう、と
努力をしてくださっているわけです。
昨夜は硫黄島の生存者が、凄惨な戦友たちの最期を語っていました。
こうやって話すことが、今彼らにしてやれること…と泣きながら。
以前にも書きましたが、私の舅も、シベリアから復員してきたひとで、
三回の召集で、最後は4年の抑留生活を生き延びて生還しました。
今の世なら「ラッキーだったねぇ」と喜び、
「これから今までの分、楽しまなくちゃ」かもしれません。
しかし、舅は故国を思いながら凍土の土となった戦友を思い、
質素に、静かに自分に厳しく生きて暮らしたひとでした。
戦争と言うのは、やっている間だけでなく、終わってなお、
長い長い時間、人を苦しめ人をいじめるものです。
たった一度の人生を、恐ろしい色にぬられてしまう恐怖と怒りは、
それを体験していなくても、それをさけようという努力はしなければなりません。
新聞の記事、最後はこうありました。
「地下室の産声はいつまでも、声なき語り部でありつづけるだろう」
その言葉に、真剣に耳をかたむけなければ…。
かの方たち「領収証は1円から」「いやそれでは」なんぞと、
次元の低いハナシをしている場合ではないと、気がついてください。
ご健在だったなんて嬉しい事です。
和子さんはきっと、平和を願って付けられたお名前
なんでしょうね。
私も知ったときにはほんとうに
ほっとしてうれしかったです。
私も「和子」さんと言う名前は、
平和を祈ってのものだろうなぁと思いました。
お母さんとお産婆さんの思いのこもった名前ですね。
親の育て方がどうだったから・・・とか、子供の非行を親のせいにすることが良くありますが、私がいつも思う事は「じゃ、戦災孤児で大人になった人たちはどうなるの?」「原爆や空襲で家族を失い一人ぼっちになった人たちはどうなのよ!と叫んでしまいます。
すっかりお返事忘れておりましてすみませんでした。
戦争は沢山の戦災孤児をも生み出しました。
家族という一番大切なものを失い、
子供の身で生き延びた人たち、
そういう人たちにも、
今、この時代に語ってもらいたいと思います。