お袋は、次期は後に聞いたんだが、俺が2歳7か月の時から約1年入院していた。心臓病とだけ聞いていた。生きて病院から帰れないだろうと言われたそうだ。その1年の間、俺は親戚を転々とした。親父の兄。きつい人で子供にも愛想を見せられない人だった。自動車のおもちゃをテーブルの上で手でおして遊んでいたら、「テーブルに傷がつくからやめろ!」と怒鳴られた。畳の上を車を走らせたら「畳が傷むからやめろ!」ともの凄い剣幕で怒られたのをはっきりと覚えている。親父が仕事が終わると迎えに来るんだが、それが待ち遠しかった。
どれくらいの期間その叔父の家に預けられたかわからない。
その後、東京の親父の二人の姉の家に預けられた。一人の叔母は「食べ物は何が好きなんだい?」そう俺に聞いた。「カレーが好き!」そう答えたら、朝昼夜3食1週間カレーが続いた。それで俺はギブアップした。はっきり覚えている。
そして家に帰ってきた。親父が毎日俺を負ぶってバイクで勤めている製麺工場へ連れていった。その期間が一番長かったと思う。場所も覚えている。今はもうその工場は無いが、そこを通ると切ない気分になる。
事務のお姉さんが相手をしてくれた。木でできた車のおもちゃに太い紐をつけて工場の廊下や休憩所兼社員食堂を引きずって遊んだが怒られなかった。寛大な社長だたんだな。きっと。今ではあり得ない話だ。兄貴は小学生だったから、家に帰ると一人で過ごしていた。休みの日は、俺を負ぶって、兄貴は後部に乗っかって、親父が運転するバイクで病院へ行った。
地元の病院ではお手上げ状態で、前橋の群大病院にたびたび連れていったと親父が言っていた。医療費が莫大にかかり、俺と兄貴の晩御飯は、タイみそという缶詰(みそにタイのエキスが入ったもの)をご飯にかけて食べるか、きな粉に砂糖を入れそれをふりかけのようにご飯にかけて食べた。生鮮食料品を調理したものは何も無かった。親父の話では買えなかったそうだ。お金がなくて。
思い出したのは親父は酒なんか飲んでいなかった。俺と兄貴のご飯が最優先だった。
兄貴の話では、お袋が入院するまでは普通の家庭だったそうだ。俺は自分の家が普通だったことを経験していない。異常な生活しか経験していない。
親父の話では、タイみその缶詰ときな粉は栄養が豊富で安価だったので、
やむを得ずそんなものしか食べさせられなかった、と言っていた。
また、俺が親戚に預けられていたのは一か月程だったという。親父は末っ子だった。弟の子供とは言え、兄弟たちはそんなに長期間は面倒を見てくれなかったそうだ。
その日なぜか俺はお袋の病室に居た。何故だか覚えていない。雨が降っていた。午後3時ころだったと思う。小学1年生の兄貴がランドセルを背負ったまま病院に現れた。学校から病院までゆうに5キロはある。黄色いびしょ濡れの傘を持って長靴を履いて現れた。俺は「あんちゃんがきたぞ!」と階段を駆けあがりお袋に知らせた。「あんた、良くここまできたね!疲れたろう。何分かかった?」兄貴は「1時間とちょっと。」病室の他の入院している人が、「よくまあ遠くから歩いてきたねぇ。この雨の中を。」そういうと、兄貴と俺を売店に連れていってくれて、メロンの形をした容器に入ったメロンアイスを買ってくれた。高級品だったアイスだ。
そこで記憶は途切れている。
あんなに苦しい時も一緒だった兄貴と何で険悪な仲になってしまったんだろう。
お袋は奇跡的に回復し退院した。
直後に、当時俺の町にあった高島屋に連れていってくれた。(なぜかあったんだよ)「お母さんが入院している間良く我慢したから、好きなおもちゃを買ってあげるよ。」クルマのおもちゃを買ってもらった。
良かったのはそこまでだった。
記憶が少し飛ぶんだが、お袋は夜遊びに出かける様になってしまった。いや、昼間からずっと。家にいたことがなかった。
小学1年生の初めての先生の家庭訪問の日、うちに元気に帰るとおふくろは居なかった。もうすぐ先生がくる時間だ。どうしよう。どうにもならないことを悟り、ごろりと寝転んで玄関に背を向けていた。声は出なかったがしゃくり上げる泣き方で肩が震えていた。その当時の家は玄関を開けると部屋がもう丸見えだった。部屋は1部屋しかない。
背中で「こんにちは。〇〇小学校の▽▽です。」といいながら、玄関が少し開いた。先生から俺は丸見えなはずだ。俺は先生が声をかけてくれて慰めてくれるんじゃないかと泣きながら思った。」しかし、2~3度こんにちは、というと玄関は締められた。コツコツと先生の靴の音が聞こえた。その瞬間叫ぶように鳴き声を上げたが先生は戻ってこなかった。
翌日学校に行くと先生は「これで全部のお家を訪問しました。家庭訪問は終わりです。」そういった。小学1年生の俺は、大人とはこんなものか。誰も俺を助けてなんかくれない。慰めてなんかくれない。そうおもった。
そして、高校を卒業するまで登校拒否は続いた。
学校へ行かないので、お袋は色々な医者へ俺を連れていった。内科で検査を受け、医者を変え、最後の医者からは町の総合病院の精神科に紹介状を書かれた。そこへいっても事態は変わらない。原因が無くならないから。俺は心の中で「学校へ行かないのは、お袋のせいだよ。」と叫び続けた。
親父はすでに酒乱と化していた。親父の酒乱はお袋が家に居ないからだったんだな。
後は、酒と暴力と諍いと、置き去りと、借金のかたを子供がしりぬぐいするという事態にまで突っ走っていった。せめて親父がしっかりしていてくれたら、開き直って父子家庭だと割り切ってくれたら、結果は違っていたかもしれない。親父が兄貴と俺を支えていたら、兄貴が働き俺がそれに続き働いて、経済的にももっと良い状態になれたかも知れない。あんなことは起きなかったかもしれない。しかし、親父にそれを求めるのは酷だったかもしれない。やくざが家に金を取り立てに来て、お袋を拉致しようとされるなんて普通じゃない。お袋の作った莫大な借金を大部分を兄が負担し、自分は大学の学費に貯めたお金で片づけるなんて普通じゃない。親父が死んだときお袋が「父ちゃんもかわいそうな人生だったよな。」と言った。「あんたのせいでかわいそうだったんじゃねえか!」と喉元まで出かかった。
自分の病気の根源は、少年時代にあると考えている。そうとしか納得できない。
もう、自分の作った家族も形骸化してしまった。外からみたら普通かもしれないが、もう夫婦じゃない。
何もかも遅きに失したかもしれない。
もう、残された時間は少なくなった。
やり直しは効かない歳だ。
結局、親父と同じように、たぶん同じような気持ちで人生は終わるだろう。
この話も、締めがない。前向きな話でもないし、悲観した気持ちを書いた訳じゃない。あった事実を書いただけだから。