南部吟遊詩人の写真館

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達谷窟(たっこくのいわや)・天下の奇観

2012年05月07日 04時24分12秒 | 平泉など県南地方
達谷窟(「たっこくのいわや」と読みます)はとても歴史の古いお寺で、坂上田村麻呂公のころにその縁起がさかのぼれるようです。
断崖のくりぬかれた中に足場となる柱を無数に立て、建物を築くそのやり方は京都の清水寺に一風通じるところがあります。

パンフと伽藍案内図です。


縁起を知るのにとてもいい子供向けパンフもありますので、アップしておきましょう。


↑だいぶ絵が素人まるだしですな…。

さて、達谷窟は平泉の中心部から5キロほどはなれたところにあります。

いきなり、巨石があるので、ビビります。

これが、先ほどの縁起にあった「鬘石」というやつです。

なにも、こんな大きな石に髪を置くことはないと思うのですが…

おそらくは伝説のことだから、こじつけなのでしょうね…単に目印になればいい的な…。

裏にある石碑群です。

裏には、もうひとつの巨石が。

厳美渓という地が近くにあることを考えると、地質的に火山活動やらなんやらで、巨石を産出しやすいのでしょう。

しかし、岩の上に木が生えたその光景は異様です。


そして、次にあるのが、この「姫待滝」。

ロマンチックな名称とは裏腹に、悪人に待ち伏せされた場所なんですね…。かわいそうに。

残念ながら、ゴミが大量に滝壺に浮いていて、掃除がいきとどいていないようですが…。

ゴミが映らないように撮りました(笑)

「姫待滝」にある石碑群です。



達谷窟につきました。

入場料は大人300円です。(まあまあ?)

壮大な門を二つくぐります。

これが、達谷窟の毘沙門堂です。

縁起です。字が細かくて、読めませんね。すいません。


それで、多分、私見なんですが、ここにいたのは、「悪路王」なんて名前だけど、多分、悪者じゃないのかな~~と
思います。

確かに、平安時代、ここ東北には大和朝廷に「まつろわぬもの」たちがいて、坂上田村麻呂はじめ、「征夷大将軍」たちと
死闘を演じていたわけだけど、アテルイにせよ、安倍貞任にせよ、こっちでは英雄扱いされているのに、この「悪路王」だけは悪者扱いって、なんか変だと思うのです。
多分、ここに寺院を作ろうと思った人たち(もちろん、中央出身の者たち)が、それらしき縁起を作ろうと思ってでっちあげた話じゃないかな~と。日本書紀やなんかの古文書、つまり坂上田村麻呂のリアルタイムの歴史書にはこのお堂のことは載っていなくて、鎌倉時代の『吾妻鏡』から載っているハナシなので、田村信仰が決定的になってからのハナシだから、それを利用してこのお堂の縁起を後から作ったんじゃないかと。多分、源頼義あたりじゃないかと…。
しかも、この「作り話」をさも史実のように伝え、地元の信もそのように置かせてしまうあたり、タダものでない権力(ちから)を感じます。
私見ですが…。


断崖と柱の様子です。


こういう建築をよく考えつくもんです。



ちなみに、建物の中は、毘沙門堂で、数十体の毘沙門天がいらっしゃいます。
撮影禁止とあったので、撮っていません。

ちなみに、これは磨崖仏(まがいぶつ)です。

仏の顔が彫られています。


この説明で出てくるように、「源氏」が絡む辺り、臭いんですよね~~。


こちらは不動様のお堂。



中にはりっぱな不動明王が。


こちらは閼伽堂。

水芭蕉が季節感を出しますね。



鐘楼に…。


杉のご神木。

奉行杉というそうです。

実に、高くて、立派。

毘沙門堂の前には池が。

池とくれば、弁天さま。


「蝦蟇池」なんて、変な名前。


歴史がどうであれ、達谷窟が、天下の奇観であることは疑いがありません。

このような場所に、なぜ、このような不思議な堂宇が生まれたのか、ともかく不思議でなりません。

【撮影日:2012/4/22】
↓達谷窟の場所はこちら!

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