初任研の校内指導員の役を賜っている。
初々しい先生とともに、一年間研修をしていく。
さて、今日は彼の国語の授業を参観した。
「白い帽子」の2の場面に取り組んだ。
彼は、忙しい中、しっかり指導案を用意してあった。
根性がある。
目当ては
「登場人物・辺りの様子・松井さんの人柄を読み取る事ができる」
とあった。
白いぼうし あまんきみこ作
(2の場面)
⑤アクセルをふもうとしたとき、松井さんは、はっとしました。
「おや、車道のあんなすぐそぱに、小さなぼうしが落ちているぞ。風がもうひとふきすれぱ、車がひいてしまうわい。」
⑥緑がゆれているやなぎの下に、かわいい白いぼうしが、ちょこんと置いてあります。松井さんは車から出ました。
⑦そして、ぼうしをつまみ上げたとたん、ふわっと何かが飛ぴ出しました。
「あれっ。」
⑧もんしろちょうです。あわててぼうしをふり回しました。そんな松井さんの目の前を、ちょうはひらひら高くまい上がると、なみ木の緑の向こうに見えなくなってしまいました。
「ははあ、わざわざここに置いたんだな。」
⑨ぼうしのうらに、赤いししゅう糸で、小さくぬい取りがしてあります。
「たけやまようちえん
たけの たけお」
⑩小さなぼうしをつかんで、ため息をついている松井さんの横を、太ったおまわリさんが、じろじろ見ながら通リすぎました。
「せっかくのえものがいなくなっていたら、この子は、どんなにがっかりするだろう。」
⑪ちょっとの間、かたをすぼめてつっ立っていた松井さんは、何を思いついたのか、急いで車にもどりました。
⑫運転席から取り出したのは、あの夏みかんです。まるで、あたたかい日の光をそのままそめ付けたような、見事な色でした。すっぱい、いいにおいが、風で辺りに広がりました。
⑬松井さんは、その夏みかんに白いぼうしをかぷせると、飛ぱないように、石でつぱをおさえました。
2の場面は、さらっと読み、今まであまりじっくり考えたことがなかった。
今回、彼の授業を見ながら、あれこれ考えることができ楽しかった。
この授業で問題となったのは、
「どうして、おまわりさんは、松井さんをじろじろ見たのか?」
だった。
これに対して
①小さなぼうしをつかんで立っていた。
②ため息をついて立っていた。
③名前がついたぼうしを持っていた。
④やなぎの木の下で、ぼうしをもってつったっていた。
の4つの意見がでた。
それとともに、
⑤おまわりさんは、松井さんをあやしいと思ったからじろじろ見たのだ。
という意見も多く出た。
そうだね。
と言いながら授業は進んでいった。
しかし、ここで
①~④のどの理由が正しいのかと、
問うとよいと思った。
子どもたちが思考するには、一度立ち止まって
比較する必要がある。
そうしないと、「自動的な読み」で終わってしまう。
この場合、
おまわりさんは「たけのたけお」の
縫い取りは見ていないわけだから、
③はあきらかに個人的な思い込みの意見なので「×」
④のつっ立っていたと言う表現は、
じろじろ見た後の段落のことだから「×」
①か②が正しい候補と成る。
ところが、①も②も単独ではおかしい。
それは「つかん/で」の「で」があるからだ。
「で」=助動詞「だ」の連用形=でありながら、しかも。そして...
こんな勉強をすれば、「で」の学習ができる。
鼻をかんで、紙を捨てる。
走って、転んだ。
食べて、片付けた。
小さなぼうしをつかんで、しかもため息をついた。
となる。
一連の動作なのだ。
①と②はくっつけて考えなければいけないのだ。
この問の答えは、
小さなぼうしをつかんで、ため息をついていたから。となる。
では、⑤の 松井さんをあやしいと思ったからじろじろ見た。
は正しいのだろうか?
子どもたちは、どこから文中にない
「あやしい」という言葉を引っ張り出してきたのか?
そういうときは
「どこに、あやしいって書いてある?」と聞き返すといい。
子どもたちは「じろじろ」を見つけるだろう。
「じろじろ」= そこに居る人の素姓・身なり・持ち物や一挙一動を、
半ば好奇心から、半ば穿鑿好みから
無遠慮に眺め回すことを表わす。
この言葉から、本来失礼である大の大人を無遠慮に眺め回すことがゆるされるぐらい、松井さんの「小さなぼうしをつかんで、ため息をついていた。」姿が不審だったのだと分かる。
ため息=心配(失望)したり 自分の力ではとうてい
かなわないと思ったり する時などに大きくつく息。
また、それらの悲観が喜びに変わった時につく大きな息。
松井さんは、何が心配(失望)なのだろう?
帽子を拾ったことなのか、蝶を逃がしたことなのか?
公道上で、誰が見ても不審に思うぐらいの姿って、どんな姿なのだろう?
動作化をさせてみるとよい。
そんな不自然な姿は、松井さんの心情の表れであり、
松井さんの人となりの表れである。
では、松井さんは、そんなに失望したのは、どこからだろうか?
道に落ちていた帽子を拾ってあげたのは善意である。
蝶を逃がしたことも意図的ではない。
⑦には、「あれっ。」とあるから、まだ事の次第は分かっていないから心配はしていない。
⑧には、「ははあ、わざわざここに置いたんだな。」とある。
ははあ=思い当たった時、納得した時などに発する語。
わざわざ=あえてそうするほどの積極的な理由や
必然性が客観的には無いと判断されるのに、
好意で(無理に)そうすることを表わす。
だ=その事柄を△指定(断定)する主体の判断を表わす。
な=自分の主張・判断などを相手に納得させたり
自分で確認したりなどする気持を表わす。
このような言葉から、失望している様子はうかがえない。
すると、失望の気持ちが出てくるのは
⑨ぼうしのうらに、赤いししゅう糸で、小さくぬい取りがしてあります。
「たけやまようちえん
たけの たけお」
のどこかだ。
どこだろう?
ぼうしのうらに、/赤いししゅう糸で、/小さくぬい取りがしてあります。
/「たけやまようちえん/たけの たけお」
この中で探せば、「幼稚園」だろう。
それまでは、もっとワンパク坊主がこの帽子の持ち主だと思っていたけれど、あっ、しまった。小さな、3つか4つの子どもの帽子なのだ。とういうことは....きっと、生まれて初めてチョウチョを捕まえたんだ。きっとワクワクどきどきして、この帽子を使ってやっとの事で一人で捕まえたんだ....なのに....
傍目から見ておかしいぐらい落ち込んだのだ。
よほどのことがあったに違いない。
ということは、
それまで、気楽に考えていた松井さんが、ガラッと180°気持ちを変えるのだ。
この⑨の段落で、松井さんの脳裏には多くのことが浮かんだのだ。
そして、推測するのだ。
こうした、小さい子の気持ちが推測できるということは、きっと松井さんにも子どもがいて、子育ての経験があるのに違いない。
こんなに多くのことを学ぶことができる
この授業で問題となった、
「どうして、おまわりさんは、松井さんをじろじろ見たのか?」
という問は、とてもよい
「変だ」「おかしい」疑問なのだ。
この問題を見つけ出した、
この初任者の先生と、このクラスの子どもたちは
国語のセンスもあるし
学ぶ意欲も大きい。
そう感じた。
そこで
事後の授業研でそのような話をさせていただいた。
事後の授業研では、
子どもたちの「音読」の雑なことが、拠点校指導員さんから指摘があった。
拠点校指導員さんが「光明小は、国語の研修をしてきたけれど、あの読みをどう指導したらもっと気持ちのこもった読みになるのですか?」
と聞かれた。
そこで、上記のようなこの場面の解説をさせていただき
こうした内容の授業を行い
クラス全員で、読みを深める学習をすれば
自然と、始業直後の読みと、授業の終わりに行う読みは違ってきます。
例えば、事業の最後に読めば
ぼうしのうらに、赤いししゅう糸で、小さくぬい取りがしてあります。
「たけやまよう ち え ん......
た.....け......の た.........け...............お................................................」
と、ならざるを得ないですと話した。
また、こうした授業をすれば、本時の目標である
「登場人物・辺りの様子・松井さんの人柄を読み取る事ができる」は、
どれも、達成することができるはずである。
②の段落は、短いようで長い。
あれも、これも取り上げると、どれも浅くなる。
分かったようで、じつは表面上しか分かっていない。
どこか一カ所でいいから、
大事なところ
作者がそれとなく仕掛けをしてあるところ
を見つけ出し、
そこを丁寧に皆で読み解いていく。
すると、結果的に②の段落の大事なところがすとんと落ちていく。
という問は、とてもよい
「変だ」「おかしい」疑問なのだ。
この問題を見つけ出した、
この初任者の先生と、このクラスの子どもたちは
国語のセンスもあるし
学ぶ意欲も大きい。
・・・・。
子どもたちは「変だおかしい」を見つける力を備えている。こういう学習の視点は、一般的な授業ではあまりなされない。
一般的には「小さなぼうしをつかんで、ため息をついている松井さんはどんな様子でしょう?」とか「松井さんをじろじろ見たときのお巡りさんの気持ちはどうでしょう?」などの発問が多い。
「どうして、おまわりさんは、松井さんをじろじろ見たのか?」の発問は、子どもたちに文章に着目させる力がある。そして、複数の意見が出ることが多い。その複数の意見から証拠を上げる学習は、再び子どもたちが文章に注目する。また、証拠を明らかにするために、辞書が必要になる。また、どれが正しいのか選択する作業によって、全員参加の授業にもなる。こういう学習が成立できる。質の高い課題も大切であるが、初期の場合はこのような授業を継続することが必要に思われる。初任の先生も、このような授業を子どもの頃、してきたわけでないので、前述したような一般的な授業でよいと思っていることが多い。
私も拠点校指導教員の仕事してきたが、今反省すると、指導教員が、初任者に任せるだけでなく、きちんと指導し、徹底することが大切であったと後悔している。
それにしても酒井さんのこの文を読んで流石だと感心する。私たちが学んでいる「授業研究の会」でも、今回の「どうして、おまわりさんは、松井さんをじろじろ見たのか?」の問題はなかったように記憶する。新しい視点からの問題でよかった。また、酒井さんの解釈もとてもよく分かります。
いろいろ思いつくままに書きましたので、分かりにくいところがあると思います。感想です。
あ!もう一つ、これは朗読の場合ですが、1つは、酒井さんが書かれているように登場人物の様子や内容を読み取ったときの朗読はもちろんですが、以外に教師や子どもが忘れてしまうのは普段の音読や朗読です。これは常に子どもたちが書かれている言葉や文から内容を敏感に察知して、その様子が表れるように読むという力です。それには、いつも教師が気をつけていなければならないと思います。指導をせずに通り過ぎてしまうことがまずいのです。
さらに宮坂先生がよく指導される。息だけで読んでみようとか、息を使って声を出すという読みもする必要があると思います。いずれにしても、教師がいつも子どもの読みを診断し、そのときどきに必ず指導する必要がある。このような指導が継続されなされるときに、はじめて、どんなときにでも子どもの読みはよくなるものだと思います。