totoroの小道

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わら靴の中の神様③

2008-09-28 10:19:33 | 5年 国語

平野先生が、先日の話し合いを受けて指導案を書き直して見せてくださいました。

前回は「大工さんは、なぜわらぐつを買ったのだろう」という問題を「ふうん。よし、もらっとこう。いくらだね。」から解いていく指導案でした。

子ども達から出る答えの予想としては
①おみつさんと仲良くなりたいから
②わらぐつが気に入ったから
と考えていました。

指導案を見ると、平野先生の解釈は「②わらぐつが気に入ったから」で通されていました。

私はそれに対して、この文から考えると確かにそうなると思う。よい話し合いになるけれど、どうも子供の考えが深まらないと思う。もう一つ前の部分で「大工さんはなぜむしろの前に立ったのか」を話し合うと、
①おみつさんが気になったから
②わらぐつが気になったたから
と2つの対立が出て、意見が拮抗してどの子も本気にならざるを得ないと思う。だからもう少し考えた方がよいと伝えました。


だって、おみつさんの開いているお店は、わらぐつのお店ではなく野菜やさんです。野菜を買ってくれた人が「あると」(条件)、「どうですね。」とすすめて「みる」(試み)のです。なのに、野菜を買ったという条件がないし、勧めたという試みもないのに、自分の方から足を止めたのです。これはおかしな事です。

二人で話し合った結果
「ふうん。よし、もらっとこう。いくらだね。」を話し合うと、「心を込めて作った者には神様がいる」というもう少し後の場面に子ども達の目がいくことが分かりました。逆に「大工さんはなぜむしろの前に立ったのか」を話し合うと、その前の部分でのおみつさんが徐々に自信や希望を失っていく部分を扱う話し合いになることが分かりました。

平野先生には、どちらの話し合いも大事だけど、まず私たちがこれしかないと決めつけないようにしよう。固定された考えを持つと、私たちも縛られて大事な言葉を素通りしてしまう。だからもう少し考えを固定せず、わざと反対の解釈から読んでみるなどして、見えないところを見つけていこうと話し、話し合いを終わりました。

その前回の話し合いの後、私は、大工さんとおみつさんの会話のちぐはぐな部分は無いだろうかとずっと考えていました。「あねちゃ、見せてくんない。」という言葉に対して、お店を出しているおみつさんの「あんまり、みっともよくねえ...。」は答えになっていないし、売る側の人間としておかしな言葉だと感じていました。
また「うまくできねかったけど...。」というおみつさんの言葉に対して「ふうん。よし、もらっておこう。」という大工さんの言葉もかみ合っていません。「うまくできていない」に対して「ふうん。」は分かります。でも、「ふうん。じゃあやめよう。」となるのが普通だと思ったのです。

前回の話し合いの後、平野先生は、主人公は「おみつさん」なのに、大工さんの気持ちや視点で授業を組み立てるのはおかしいと考えていました。おみつさんの視点から考えてみたい。しかも、おみつさんが市でだんだん自信を失い、がっかりした悲しみを深く掘り下げたい。そうすると、そのどん底にあえいでいたときに、曇り空から日が差しておみつさんの心の氷を溶かすように、当初おみつさんが思っていた生産する者にとって一番大事な使う者の気持ちという原点に立ち戻してくれた大工さんに視点が当たるだろう。また「おがみたい」気持ちがよりはっきり理解できるだろう。それがないと、主題が、ただ「気持ちを込めて作った物には神様がいる」程度の浅い物になるだろう。と考えていました。


今回の指導案は
「おみつさんは、わらぐつが売れると思っていたのだろうか」が問題になり、「おみつさんはがっかりして、不細工なわらぐつを見つめました。」を展開の核ととらえています。
問題の答えとしては
①売れると思っていた。
②売れると思っていない。
という分かりやすい対立問題になっています。

この中で、平野先生がこだわっている言葉は
「おみつさんは/がっかりして、/不細工な/わらぐつを/見つめました。」
の中の「がっかり」に焦点をあてて考えていました。

確かにがっかりをあつかうと、「わらぐつが売れないこと」「雪下駄が買えないこと」「見た目で判断する世間」などが出てきますが、どれも「②売れると思っていない。」の根拠になる物の「①売れると思っていた。」の根拠が見えてきません。
これだと、対立した話し合いになりにくいのではないかと感じました。

だったら
「なぜがっかりしたか。」を話し合い
①わらぐつが売れないから
②雪下駄が買えないから
③世間は見た目で判断することが分かったから
あたりの対立にした方が、よさそうです。

もうひとつ平野先生がこだわっている言葉は「やっぱり」です。
「やはり」
①予想や予兆が事実とぴったり一致するという気持ちを表す。
㋐前もって予想したとおり。案の定。
㋑以前と変わらず。依然として。今なお。
㋒他と同じく。
㋓結局のところ。
ということは、売れないという予想はしていたのです。案の定売れなかったのです。だとすると「がっかり」することはおかしな事になります。

ここで平野先生と一緒にそれでは、「やはり」と「がっかり」はどっちがおかしいかを考えてみました。

「やっぱり」「かなあ」という言葉があるのですから、完全に売れるとは思っていなかった。でも「雪下駄が、ほんのちょっぴり手の届くところへ出てきた..」なのだから、30%ぐらいは売れる可能性もあると思っていた。

それが徐々に20%になり、10%になり、ほとんど0%に近くなったのが、「がっかり」という言葉なのでしょう。そう考えると、私は「がっかり」のほうが大事な言葉のように感じます。

「おみつさんはがっかりして、不細工なわら靴を見つめました。」とあります。
して=前句が後句の原因・理由となっている二句を結ぶ。
みつめる=②目をそらさないで物事をはっきりと見る。直視する。「現実を─」「自分を─・め直す」

つまり、がっかりすることが原因でわらぐつを改めて見つめてみるたのです。希望を持っていたときは、「①変な格好 しかし ②丈夫」という2つの側面のうちの「②丈夫」しか見えていなかったのですが、がっかりして改めてしっかり見ると「①変な格好」しか見えなくなり、自分で自分の作品を「不細工=細工がまずいこと。また、仕上がりの体裁が悪いこと」と見てしまいます。

そして、希望が0%になったのが、「あきらめて」となります。

じゃあその希望って何だろう?この辺りが一番大事なことかもしれません。

希望がなくなって、活気のある市場の中でそこだけが異様に暗い雰囲気があるから、大工さんは「おや」っと思って足を止めた。そうつながっていくように思います。


平野先生と私の今やっている作業は、昨年私たちが感じたことそのものです。最初「大問題」だと思っていたことを突き詰めて行くと、「もっと大事な本当の問題が見えてくる=主題にせまる」そんな作業だと思います。

人参もジャガイモも、カボチャも栄養がありますが、それだけでは食べられません。まず口に入りやすい大きさに切ってみる。そして、軟らかくなるように調理する。そして、最後に素材の食感や味を大事にしながら味をつけていく。おそらく、国語も同じなのです。

まず、良い素材を選ばなければなりません。(新鮮な素材=文学作品)
「わら靴の中に神様がいる」これは、人参です。
これをいかに「切る」(どの部分・どの文・どの言葉を扱う)か、
どう「調理する」(切った部分から周りに広げて総合していく)か、
そして、「素材の良さを生かしつつ味付けをする」(主題を読み取り感想を入れて文章にまとめ、自分の栄養とする)ことができるか。
そうすることが、国語の学習になるように思います。

 

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1 コメント

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飽くことを知らない教材解釈、ぜひ全校に広げてください (Mrヒデ)
2008-09-28 13:21:33
「最初『大問題』だと思っていたことを突き詰めて行くと、『もっと大事な本当の問題が見えてくる』」その通りだと思います。
 酒井さんや平野さんがしている教材解釈を読んでいると「教師としての個人の読み」「子どもの存在とその反応を考えた読み」「複数の教師との読み」という一連の作業を通して、再び「教師としての個人の読み」というように解釈が高められているようです。
 しばらくこのような仕事をしていない私など、何だか置いてきぼりをされたようです。とにかく凄いことだと思います。
 紹介された初任者指導の元校長先生のブログを読みました。びっくりしました。教育に対する観察力や洞察力などです。大変勉強になります。ありがとうございました。
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