風の行方

   愛知県で霊能者をしています。

   豊幡香穂が視たこと、感じたことを自由に書いていま
   す。

大切な人

2012-07-10 | 独り言
  月日が流れるのは早い。
 香穂にはとても大切に想っていた人がいた。
 その人はすでにこの世の人ではない。

  生前何かをしてくれたわけではない。
 どちらかというと困難をくれた人。
 それでも、その人の生き方は香穂にとってチカラをくれた
 人だった。

  生きていてくれさえすればいいと想える人だった。
 言葉ではない形で色々な事を教えてくれた人。

  もう3年にもなるが、懐かしいという一言では方付けられない
 そんな人。
 今後もそのように想い続けていくことだろう。


  そして今、大切な人を守ろうとしている自分がいる。
 亡くなった友と言葉で交わした約束ではない約束。
 しかし、現状ちょっと守られている感が強い。
 申し訳なく思いつつ感謝している。

  人には大切だと思うものがそれぞれにあって、その思いが
 チカラをくれる事も多分にある。


 
  夏は魂が行き交う時期でもあるからふと思い出してしまします。



  なかなかブログも更新できず・・・・
 今後は時間を見つけてはあちらこちらへと出向きたいなぁと
 思っています。
 今後出かける先で何が視れるのか、何を感じられるのか、
 ちょっと楽しみでもあります。
 
  日々暑くなってきましたね。
 香穂は夏が苦手ですが、負けずに頑張らねばです。
 今年もしそジュースで乗り切らねば。

 
 

名古屋城

2012-07-08 | 心霊探索
  岐阜城に続き友人と行った名古屋城。

 名古屋城・・・・幼き頃写生会に訪れた時以来でした。
 この日は湿度が高くて、ちょっと歩くと汗が出ます。
 真っ昼間でなくてよかった~~、とふと思うほどでした。
 
 城内を友人と天守に向かって歩いていると、人の長蛇の列を発見。
 何かと思って見てみると、武将隊の方との記念撮影の順番待ちだった。
 ん~・・・・興味はないが、ここまで並んででも写真を撮りたい人が多いんだなぁ
 な~んて思ってしまいました。

 幼少の頃の記憶の中の名古屋城とはちょっと違って綺麗だなぁ・・・・なんて
 思いながら歩いておりました。


  現在は本丸御殿の復元工事中で、何だか落ち着かない感じもしましたが、
 今回見たかったのは天守の石垣だったので、ほぼスルーしておりました。
 

  伊勢音頭の中「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」
 こんな一節があるのですが、これはどのような意味があるのか。
 歌詞の意味としては「伊勢は津の港があるので沢山の参拝客が来、
 津の港は伊勢への参拝客でにぎわっている。
 尾張の名古屋は城が出来たので栄えている。」
 ということだが、これ以外の意味があるのか、 
 徳川家康の思惑は何処にあったのか。
 こんな事を考えながら石垣を視ていました。

  清洲からの移動(清洲越し)は家臣、町人はもとより、
 社寺3社110か寺、清須城小天守も移るという徹底的なものであった。
 これを考えると何かふくみがあるように感じる。


  友人とじっくりと石垣を視ていると気の流れが視えてくる。
 渦を巻くような気の流れ。
 渦は大きく広がっていく。
 

   

   


  謎は深まるが、宿題として持ち帰ることにして
 時間も迫ってきていたので出口に向かって歩いていると、警備員さんに
 声をかけらた。
 「ここから撮るといいよ~~」と。
 いや~~~、それは望んでいなかったのですが、一生懸命に勧められたので
 お付き合いで写真を撮っておきました(笑)




   

   


  出口の近くで、ゆるキャラのはち丸くんを遠目で発見。
 お客様との記念撮影も終わり、戻っていく後ろ姿。
 何とも哀愁が漂っていてたまりませんでした。
 ほんと、お疲れ様です~~~と、云ってあげたくなるほどです。

  名古屋城の締めははち丸くんと、何となく笑える感じでした。



  この後は、大好きな文具屋さんへ友人と向かい、テンションが上がりいくつか
 買ってしまいました(笑)

岐阜城

2012-07-06 | 心霊探索
  先日友人と岐阜城に行きました。
 曇り空で、時よりぱらぱらと小雨もありで、湿度が高かったのですが、
 時より吹く風がとても心地よかったです。

  本当ならば登山すべきなのでしょうが、そこまでの体力はなく、
 無難にロープウェイを使用しました。

  岐阜城と云えば、金華山(稲葉山)にある山城跡。
 織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、
 新たに造営したものが岐阜城である。
 織田信長の「楽市楽座」も有名です。
 古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで
 城と町の名を「岐阜」と改め、この頃から信長は、「天下布武」のもと
 本格的に天下統一を目指すようになった。

  信長の居館は、現在冠木門と虎口の土塁が復元されている。
 山麓の一段高くなった千畳敷には、かつてポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが
 紹介した楼閣(信長の住居)が建てられていました。
  
  ロープウェイから降りて天守に向かって歩いていると、何処からか
 笛の音が・・・・。
 途中の休憩場所で練習なのか、聴かせるためなのか、とても哀しげな
 曲をひたすらに吹いている方がいらっしゃいました。
 そんな曲を聴きながら天守へ向かいました。
 これだけ登ると、展望台からの眺めはよいものでした。
 ただ、天気が今ひとつでしたのでちょっと残念でしたけれど。

  この岐阜城、信長が天下統一を目指すことになったお城で、
 ある意味覚悟を決めた場所でもある。
 そんな城を後に家康は廃城とした。
 理由としては「険峻な岐阜城の再利用を恐れて」
 とあるが、本当にそれだけだったのだろうか。

  この山はある意味不自然なチカラを感じてならなかった。
 もしかして嫌われている?
 なんて思うほど。
 展望台に上がって、本当ならば景色も良く、吹く風に心地よさを
 感じるのであろうが、それもない・・・・

  人の策略が渦巻く山城ですからこうもなってしまうものなのかもしれませんね。