ウォーキングと旅行でのひとり言

下総の小京都 古河 散策 その2

鰻重を食べて満足し、「永井寺」に向かいました。





黄色の線に沿って番号順に歩きます。


携帯のナビを使いながら寺を探したのですが、あちらこちらにふりまわされました。

寺の裏の方へ案内されたりして。

ナビも使うのに経験がいりますね。


やっと寺に行き着きます。








寛永3年(1626)に、当時の古河藩主の永井直勝が開基しました。

江戸時代に、古河は、日光、奥州街道の要地として、代々小笠原、松平、奥平、永井、土井、堀田、本多などといった、徳川譜代の老中格の大名が城主となり栄えます。

そのうち大半の150年間は、土井利勝を始祖とする土井家が城主でした。


ここから「獅子ヶ崎土塁」を探しに行きます。

再び、ナビを使います。

この辺りは、地図において、あまり目印が少なく、苦戦します。


迷った道の途中に、「古河城舟渡門址」の石碑がありました。





しばらく歩いていると、突然、素敵な建物に行き着きます。





「家老屋敷の長屋門」です。現在も住まわれているようです。

その真向かいに、獅子ヶ崎土塁の貴重な遺構がありました。





この正面の向こうが、土塁のあった場所みたいです。

獅子ヶ崎は、古河城の戦略的要地としてひときわ重要視された場所です。

曲輪の突端に、尖った土塁が堀に突き出した形状だったようです。

極めて特徴的な構造で、周囲より高く築かれ、南に隣接する「御成門」と「御成道」、「桜門」のほか、古河城の全体を見通して、有事に備えることができる場所のようでした。

今は、古河城はあとかたもありません。

明治期に、渡良瀬川の治水のため、城地の半分が河川敷や堤防に転用されました。


ここから、「鷹見泉石記念館」を目指します。

再び、ナビを使いましたが、やはり、あちこちにふりまわされました。





「古河歴史博物館」のところに来たみたいです。





この奥が博物館です。

今回は、時間の関係で、中に入りませんでした。

見学していると、1時間はかかると思いました。


この先を行きます。





「鷹見泉石記念館」の前にやってきました。





中に入り、見学させてもらいます。














古河藩が藩士のために用意した武家屋敷のひとつです。

ここで、鷹見泉石が隠居後、もっぱら蘭学にいそしみ、最晩年を送った家でした。

泉石は、蘭学者で、古河藩の家老です。

海外地理研究や、多くの地図、地理書を収集しました。

地図は1000枚あったみたいです。「新訳和蘭(オランダ)全図」を著します。

ペリー来航にあたり、意見を建言したようです。





飾られていました。七五三の衣装のようです。














敷地な中に、「奥原晴湖画室」繍水草堂(しゅうすいそうどう)がありました。








明治時代を代表する女流南画家。

彼女の活動拠点であった建物は、最後に、ここに移築され、玄関と廊下が復元されました。


今日は、関東旅行の三日目になり、宿泊地まで遠いので、早めに宿に向かいます。

少し急いで、古河駅に戻りました。








途中の道です。


「古河文学館」がありました。





その先に、「古河第一小学校」。








駅前の近くまで戻り、最後に、「高札場」の石碑を見に行きました。






ここから駅に戻り、千葉県の市原まで行って、ホテルに泊まります。

コメント一覧

mamekichi
http://ogasawara.cocolog-nifty.com/ogasawara_blog/
こんばんは。

大晦日を迎えましたが、お元気でブログを続けておられ、何よりです。
関東の旅も楽しく拝読しています。
時々一緒に歩かせていただいているような気さえしてきます。

ところで、携帯のナビで迷わされたというお話しのところで、桑名でお目にかかったときのことを思い出しました。
きちんとナビゲーションしてくれないのは困りますが、あの時のような出会いを与えてくれたことには感謝しております。

どうぞ良いお年をお迎えください。
続きを楽しみにしております。
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