阿弥陀寺の前の長椅子で休ませてもらいました。
寺内を見ると、梅の花が美しかったので中に入ります。
本堂です。鞆の大仏と称される「丈六阿弥陀如来坐像」がおられます。
この寺は、1565年に創建されました。
さきほどの山門は立派で、鞆の浦では随一だそうです。
梅の花が綺麗です。季節を感じます。
この梵鐘は、江戸時代からのもので、鞆の浦では明圓寺とここだけだそうです。
緑青の色がわかりますか?⋯⋯⋯。写真の写りが悪いかも。
歴史を感じますね。
寺の外へ出て、次は、「医王寺」に向かいます。
黄色の線に沿って番号順に歩きます。
少し歩いて、右に曲がります。
わりと急な坂道を上がりました。
さらに、どんどん登っていきます。
「医王寺」は、後山(うしろやま)の中腹にあります。
途中にある「明圓寺」です。
鞆の浦で最大の檀家数を持つ寺だそうで、墓の数も膨大に見えました。真宗大谷派。
例の、織田信長と戦った石山合戦で、当時の住職は毛利軍とともに信長と戦ったそうです。
ここから、まだまだどんどん上がります。
真っ直ぐ、医王寺まで100mの表示がありました。
ようやく医王寺についたようです。このすぐ上のようでした。
医王寺の寺内に入りました。
御影堂。
ここは、鞆の浦で二番目に古い寺で、826年に弘法大師によって開基されました。
高台にあるため眺めは最高です。
鞆港の全景が見れました。
1826年に、オランダ商館の医師シーボルトもここにやってきました。(私と同じように登ってきたと考えると不思議な気持ちになります。)
ツツジや松の観察のため小径を登ったのでした。
本堂です。本尊は「木造薬師如来立像」、6年に一度の開帳。(オリンピックよりも見れませんね。苦笑。)
愛宕大権現。
四国八十八ケ所 第十二番焼山寺 本尊 虚空蔵菩薩。
ここに、大伴旅人の「鞆の浦亡妻挽歌」の三首のうちの三首目がありました。
「磯の上にしっかり根を張って、立つむろの木よ。太宰府へ下る時、妻や息子と一緒にお前を見たのだ。⋯⋯⋯⋯。」
730年、太宰府から都に帰る途中、亡き妻を思い、「鞆の浦のむろの木」を詠った三首の歌を残しました。
ここから、今度は急な下り坂を降ります。医王寺の参道になります。
実は、恥ずかしながらこの坂道で、すってんころりと転んでしまいました。
思わず、カメラが大丈夫か心配しましたが、自分の右膝を打撲していました。
この時は、まだその自覚をしていませんので、元気です。
さらにどんどん下ったところに、「平賀源内 生祠」がありました。
源内は、高松藩薬用方出身で蘭学者。本草学者、科学者、戯作者、25歳で長崎に遊学。
諸国を渡り歩き、鞆の溝川家に寄寓したことがありました。
ここの陶土を見つけ、源内焼きの製法を伝えました。オランダの釉薬を使ったようです。
土の神、かまどの神、平賀源内大明神を三宝荒神として祀るように言ってここを後にしたようです。
それがこの「平賀源内 生祠」。1764年に溝川家が祀りました。
源内では、「土用の丑の日」の鰻の話が面白いですね。
ここからさらに下って、やっと下に降りることができました。
歴史を感じるような建物がポツンと街中にありました。鞆の浦ですね⋯⋯⋯。
ここから海岸沿いに、「淀媛神社」を目指します。
約5分ぐらいで神社に着きました。
また、石段を登ります。今日は朝から石段ばかりです。
やっと、丘の頂上に拝殿がありました。
ここで、お参りしてから、少し休憩します。
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