鞆の津ミュージアムから出てきました。
地図の黄色の線に沿って番号順に歩きます。
次に「沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)」に行きます。
一の鳥居が見えてきました。
すぐ脇の町家の手すりにあたっていないかと思うほどに接近しています。
少し歩いて、二の鳥居にやってきました。
この鳥居は、笠木の両端に鳥衾がついていて、非常に珍しいそうです。日本でここだけかも?⋯⋯。
鳥衾とは、鳥のねどこだそうです。
向こうに見えるのは「随身門」です。
もうすぐ「拝殿」に着きます。
手前の立派な灯籠かな?⋯⋯⋯。
石段をたくさん上がって、拝殿までやってきました。
鞆の祇園さんと呼ばれています。
海上安全に効験のある「大綿津見命(おおわたつみのみこと)」を祀る渡守神社と、「須佐之男命(すさのおのみこと)」を祀って、無病息災を祈る祇園社が、明治時代に統合され沼名前神社になりました。
ここは、鞆の浦で行われる多くの祭りの舞台になります。
2月 新年の無病息災を祈る「お弓神事」、6月 日本最古の由緒をもつ「茅の輪くぐり」、7月 日本3大火祭りの「お手火神事」
拝殿に向かって左側に行きました。そこの風景です。
次は右側の方へ歩きます。
左から、八幡社、竃社、塞社、松尾神社、稲荷社。
やってきた石段と違う脇の道から下へ降りていくと、鞆の浦の能楽の石碑がありました。
石碑の近くに、秀吉遺愛の能舞台があります。
かっては京都伏見城にあったものを、福山城主水野勝成が、秀忠より拝領し、それをこの神社に寄進しました。
この能舞台は組み立て式です。移動が簡単だそうです。
ここから、下の方へ降りていき、二の鳥居をくぐって、道を右に折れ「小松寺」へ向かいます。
“ボケ封じにご加護がある”ということで、行ってみることにしました。
小松寺の山門だと思います。
本堂。
1175年に、平重盛が建立。
以降、この寺は幾度も歴史の表舞台に登場します。
南北朝の頃、「鞆合戦」では、足利尊氏と直義の兄弟の陣所が構えられたり、信長に追われた足利最後の将軍の義昭もここで再興を期しました。
珍しい有髪のお地蔵さんが、ボケ封じに⋯⋯⋯。
ここから沼名前神社の参道に戻り、寺町の通りに行きました。
鞆城を築いた福島正則が、寺町通りをつくり、各宗派の寺がほぼ一直線上に並ぶようにし、沼名前神社の参道につながっています。
少し歩くと、「顕政寺」があります。
日蓮宗の寺。1596から1614年の創建と伝えられています。
江戸時代を通して、「朝鮮通信使」の常宿になります。
前の山門は江戸時代のものがそのまま残っています。
寺町通りの風景。
少し歩くと、「妙蓮寺」がありました。
この寺筋でも、ひときわ大きく目立つ寺院です。
安土桃山時代晩期から江戸時代初期の創建だそうです。
福山藩主水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わっています。
勝俊は、福山二代藩主を襲封するまで、鞆城に居住し、「鞆殿」と言われました。
朝鮮通信使の常宿。
この辺りの寺はほとんどが朝鮮通信使の宿になりました。
この先に道が少しクランクに折れ曲がるところがあり、そこへやってきました。
手前に見えるのが「ささやき橋」という小さな橋です。
静観寺の前にある「山中鹿介の首塚」。
山中鹿介は、毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士のひとり。
静観寺です。
806年に最澄によりできる。
最も古い寺だそうです。鞆一番の古刹。
当時は七千坪もあり、大敷地、大伽藍が建ち並んでいたとのこと。五重塔も天をついていたとのこと。
相次ぐ戦乱や火災で多くの文化財が焼けてしまいます。
ここから少し歩くと、「法宣寺」。
西国法華経の拠点と言われます。
日蓮宗の高僧の大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのがこの寺の始まりだそうです。
寺町筋に、お好み焼きの店がありました。
2階のオロナインの看板が懐かしいですね。
広島は、お好み焼きが有名です。ここだと、牡蠣お好み焼きでしょうか?⋯⋯⋯。
ここからさらに少し歩くと、異国情緒漂う、浄土真宗本願寺派の「南禅坊」がありました。
山門は鐘楼門です。ステキな雰囲気ですね。
梵鐘は福山藩に供出してないそうです。
木部はべんがらが塗られていました。(赤く見えます)
なかの建物は、本堂だと思います。
ここから、また、少し行くと、「阿弥陀寺」があります。
寺の前に長椅子があり、「どうぞごえんりょうなくゆっくりお休みください」の文字があるので、それに甘えて、休ませてもらうことにしました。
少しくたびれました。
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