最近の事例で、力関係の例を見てみよう。武漢コロナ感染症(WARS)では、ウイルスの伝染力と病原力に対し、ヒト生来の力(免疫能)、医学の力(診療技術、ワクチン、治療薬等)、防疫の力(マスク着用、三密回避、行動制限等)、社会支援の力(補助金、患者の法的保護等)が戦った。露国と烏国の戦役では、戦闘力(攻撃火力、防衛力、作戦、錬度、戦意、諜報等)、後方支援力(生産、供給、医療等)、宣伝力(自己正当性の訴え)などの戦いとなっている。
これら様々な力の対立関係を分析し、過去の例から類推すれば、事の推移は予想できそうである。例えば、WARSによる死は、ウイルスの特性と免疫・防疫の状態から危険度を推測できる。戦争の行方も、戦闘力の強弱から概ね分かる。ところが、世の動きはそれに従わない。社会心理学的作用で、異論を許さない、屁理屈が生まれる、一部の主張が通る、極論に走るなどの奇妙な現象が起こる。これらの現象も含めて説明しようとすると、世の動きを支配する恐怖の力が見えてくる。
WARSでは、疾病による病苦・死の恐怖が世界を覆った。恐怖を煽る言論は社会の混乱を招き、死亡率の低下がようやく恐怖を和らげ事態を鎮静化させた。烏国民は、戦闘や爆撃による死の危険、敗戦した場合の露国による報復を恐れる。人々はこれらの恐怖に脅え、恐怖を避けようとする反作用の力で世を動かす。この現象は、感染症や戦争という特殊な状況に限らない。通常の生活でも、恐怖の力に押されて私たちは行動している。そして、その行動が歴史を積み上げていく。
道徳や法規、宗教の教義も、「不道徳や違法は攻撃や処罰を受ける、不信心は地獄に転落する」などと人々を恐怖させる。独裁国家の国民は一糸乱れぬ行動をとるが、その顔には恐怖が滲み出ている。民主国家でも、多数者が賛同した考えに逆らうのは恐怖である。大勢の世論が不本意であれば、社会心理学的対応で、尤もらしい理屈で自分を納得させる。悪いことに、匿名性の高い大衆は単純な(誰かを悪魔化するような)主張を好む。それが熱狂的な支持を得れば、いっそう逆らえない。
個々人の心にまで踏み込めば、恐怖以外の動機もあろう。例えば、地位や財産、義憤や理想などである(この件は次回に考察)。しかし、恐怖以外の動機の力は、恐怖に比べて力が弱い。また、その動機の力の源泉を辿ると、しばしば恐怖に行き着く。更に、その目指す所が成就されると、次にそれを失う恐怖が待っている(だから、幸せは長続きしない)。得たものを失わないよう心を砕き、保守的になり、自分や他人に嘘をつき、違法・非道な行為で恐怖を利用するようになる。
上位に権威のない国際社会の平和は、恐怖の力が押し合い均衡している状態である。実戦の状況を様々に想定し、その恐怖から戦闘行為を控える。この条件で真の平和を得るには、恐怖を語る倫理や宗教では論理的に不可能である。無為のままの自然体が世界の調和につながるという世界観が必要である。この世界観は日本的な自然観に近い。それ故に、平和憲法信者が日本に根付くのであろう。言いかえれば、空想的世界観の弱点は、人間が抱く恐怖の力を無視していることにある。