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支流からの眺め

世の動きは力が決める(1)力の素描

 時代は常に先が読めない。歴史の流れを規定する原理を求めるのは魅力的だが、それらは全て捨象された幻影だろう。それでも、その時々の世の動きだけに注目して微分すれば、結局は力関係が方向を決めているように見える。各時点での力関係で決まった動きが次から次へと間断なく続き、歴史が刻まれていくのである。人間の行動や社会の変化の動静の多くは、その時の力を分析することで説明できる。また、特定の方向に力をかけることで、人間や社会を変えることができる。

 人の一生で力が最大なのは乳児期で、泣声だけで大人を支配できる。長ずれば、躾という力で行動を変えさせられる。学校で級友との力関係の調整を誤れば、イジメを受ける。反抗期に己の力を過信し社会を変えようとすれば、既存勢力に潰される。周囲との力関係を安定させるようになれば、大人になったと言われる。それでも、地位を得て付与された力を己の力と勘違いすれば、逸脱して失墜する。死を前にして、ようやく己が真に非力であったことに思い至る。

 社会の力関係はどうか。国内では、暦年の慣習を土台とする倫理と法律の力が秩序を保つ。倫理に悖れば、社会的な制裁を受ける。法律を犯せば、最悪には死刑が待っている。力の構造は多層的で、最終的には法で暴走が抑制されている。例えば、社員は上司に従うものとされ、社則もそのように規定する。上司が倫理的な逸脱を行えば、上司の力は損なわれる。会社の違法行為が露見すれば、社長が断罪される。この秩序体系を律する力の根源は、統治者の持つ政治権力にある。

 統治者の権力を支える構造には、大きく独裁制と民主制がある。独裁制では、独裁者が絶対的に正しいとして力が付与される。しかし、独裁者が人間である限り必ず過つ。それを曲げるために、国民に独裁者の神聖性を盲信させ、服従を強い、暴力的な強権を発動し続けなければならない(全体主義)。一方、国民は独裁者の絶対的な正しさを信じたがる(その方が楽)。これは、国民の蒙昧か批判精神の怠慢の故であり、国民は独裁者が犯した過失の代償を払う因果となる。

 民主制では、多数決による判断が正しいという仮説の下に、大衆の支持を得た者に力が付与される。為政者は、多勢の支持を得るため様々な要求に配慮し、全体の合意を得るために迷走し続けなくてはならない。国民は、要求は出せても遂げられない不満をかこち、何が正しいかを判断する義務を負いつつ、不安定な国政を甘受しなくてはならない。国民の忍耐とある程度の一体感が必要とされる。この必要条件が満たされれば、民主制の方が国力を強く保てるだろう。

 国際社会には、国内統治のような法体系や多層的な権力構造はない。また、歴史の厚みも不十分である。各国民が知り合い、言葉の壁を越えて語り合い、文化や伝統を理解し合い、血縁関係を深め合うには時間がかかる。今の状況では、他国との衝突は、軍事力、経済力、誹謗中傷合戦などによる生々しい力関係で決まる。ここに国際機関は無力である。この様相は、わが国の戦国時代の戦乱の世に近い。国際関係を扱う外交官には、力が露骨に対峙する場での身をもった喧嘩の体験も必要であろう。

 国内社会の秩序体系でも、倫理や法律からこぼれる残渣はある。例えば、家族を殺された者は、犯人が死刑に処されれば怒りは収まるのか。もし審判が死刑でなければ、社会秩序の美名に圧殺された己の復讐の念をどう収めるのか。これらの原始的で野蛮な情念は、危険物として、非現実の虚構の世界の中に押し込められてきた。しかし、国際社会の力関係の場では、このマグマが現実の世界に露出している。それ故に、国際社会での衝突は人々を強い興奮に引き込む

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