私の誕生日のことです。
数多くの諸先輩や友人、知人から「おめでとう」との祝福を戴きました。が、
「否、もう歳を取るのは御免だ。」と思っていたところがあった。
そんな中、メールで祝福を送って下さった方がいた。
東大の数学科に進学された方で今や仏教の先生である。
(どうしてこの先生にお世話になる事になっただろうか?)
思えばあれは、そう・・・・・・昨年の秋、潮来市の昔、
十二橋のあった加藤洲からほど遠くないところに長善院と言う御寺がある。
北方の遠く澄み切った青空に向かって観音様がその峻厳なお姿を見せている。
私は「あのお金・・・注1」について今でも忘れられずにいた。
取り返す事ができるならそうしたいと思って居た。焦りがあった。
焦燥感でいっぱいだった。
観音様を見ていると何故か私の心を御存知の様に思われ、
何とか自分のこの満たされぬ思いを住職に知って戴こうと思い立ったのである。
境内の御堂の窓を見ると張り紙がしてあった。
真言宗の御寺であることが解った。母の実家が同じ宗派であったので馴染みがあった。
思わず、ドアの窓を叩いていた。
「こんにちは!」「御免下さい!」中から返事が有った。
何か不都合な事があったのか?と思ったのだろう。
住職は未だ名前も知らない自分なのに親切に応対してくれた。
「実はキリスト教の伝道者に金銭を持って行かれたのです。
呉れたお金ではないのですが、警察も弁護士も動いてくれません。」
「呉れたお金では無い?」「では貸したのですか?」
「借用書は?」「・・・それが、借用書は無いのです。」
「全知全能の神がその証人だと聖書に書いてありますので。
聖書を信じて貸してしまったのです。」
住職は段々、私の悩みが借用書も書かずに貸したお金の事だと解った。
私はもう既に法律的には時効を迎えて居る事も話をした。
・・・ ・・・ ・・・私は思って居た事を全部話した。
ここで小休止しましょう。若かった時、会社の独身寮で夜、
小さくして聴いたこの曲を聴いて下さい。
私の持って居るC Dは古い物でヴァイオリンがエドゥアルト・メルクス版です。
この四〇年間にこの曲も変化して来ました。
現在のSUZUKIさんの編曲も素晴らしいですが袴田美穂さんがひいている曲もとても良いので聴いて下さい。
では、コレッリで「ラ・フォリア」をどうぞ。祈り - ラ・フォリア Corelli/Suzuki 'La Folia' played by Miho Hakamata and Alan Brown
そのお金と言うのは「兄弟」と呼んで居る貧しい信者の為に貸した事。
聖書ではそう言った善意で施したお金は、
30倍、60倍、100倍になって戻って来ることが書いて有る事。
弁護士に相談したが良い解決方法が得られなかった事。
警察でも同じように借用書が無いと解決出来ないと言われた事。
当事者である相手が故意にお金を持って行ったのならば
取り返す事が出来るがそうではない事。等、など(を住職に話した)。
・・・ ・・・ ・・・去年の秋のことだった。
あの時、住職に言われた事を想いだすのだが、
知って欲しい事を全部と言うほど話をしたので
私は心の闇が薄らぎ幾分晴れた思いがしていた。
そして何故かあれ程取り返そうと思って居た心が薄らいで来たのだった。
・・・ ・・・ ・・・そして今、およそ九ヶ月後、六月、
あのお金は私が老後の事も考えて積み立てて来たものであったが、
元はと言えば、同じ貧しい人の為に成ればと思いあの二人(注2)に渡した物であった。
思わず、何故か私は慈悲の心を抱いていたのだった。
涙、泪、なみだと鼻水・・・ ハンカチで拭った。
何故こんなに考えが変わったのか?
自分も解らないが。あの住職にお会いしてから、こころの変化があった。
その後少しづつ私は仏教の基礎を学んだ。
あの日から段々と仏教を身近に感じて来た。
因果の道理、因縁果の道理を学んだ。様々学ばせて戴いた。
ここで休んで下さい。日本の名曲「荒城の月」をやはり袴田さんがひいて下さっているので聴いて下さい。
祈り - 荒城の月 Song of the ruined castle
基督教は奇跡が多かったと言う印象が強いが仏教の師、釈尊、仏様、
お釈迦様はものの道理でその道を諭して下さるので、
聞くだけで内容が理解出来るのは驚きだった。
確かに御経を読むのは難しいことですがその内容を易しく紹介している方々がおられたのだった。
そのひとりの先生、師が岡本一志先生だった。
私は半年間の通信基礎講座を受講した。そして二月に講座が終了したのだった。
少しづつ自分が変わったのだろう。
(自分では意識できないのであるが)それは仏法だから愛では無く明らかに慈悲の心だと思う。
自分では変わっていないと思って居たが??。
そして本日、先生から誕生日を祝ってのメールが来た。
読んで見て私はこれをブログにしようと思った。
人生になくてはならぬものの様に思えたからだ。
仏教では「人身受け難し、今已に受く。(じんしんうけがたし、いますでにうく)」と言われ
「人間に生まれることは大変難しいその人間に今、生まれたことは大変有り難いことなのだ。」
と説かれています。
月風さんも私もまず、人間に生まれた、誕生ということがなければ
こうしてお会いすることも出来ませんでしたし、
仏教を学ぶことも出来なかったでしょう。
今日の月風さんの誕生日をご縁にお釈迦様の盲亀浮木のたとえをお話したいと思います。
★【そなたは人間に生まれたことをどれくらい喜んでいるのか?】
★ある時、お釈迦様が阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように 思っているか」と尋ねられました。
「大変喜んでおります」 と阿難尊者が答えると、
お釈迦様は次のような話をされています。
今日、盲亀浮木の譬え(もうきふぼくのたとえ)といわれているお話です。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太棒が浮いている。丸太棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太棒は風のまにまに、西へ東へ、南へ 北へと漂っているのだ。
阿難よ。百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、
丸太棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」 聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦様、そんなことはとても考えられません」と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」 お釈迦様が念を押されると、
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかも知れませんが、
無いと言ってもよいくらい難しいことです」と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、
この亀が、丸太棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。
有難いことなんだよ」とお釈迦様は教えられています。
「有難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことを言います。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦様は教えられているのですが、喜んでいるどころか、
なんで生まれてきたのだろう?
人間に生まれさえしなければ、こんなに苦しまなくてよかったのに、
と恨んでいる人さえあります。
それは、何のために人間に生まれてきたのか?、
何のために生きているのか?
なぜ苦しくても生きねばならないのか?
人生の目的が分からないからです。
「人間に生まれたのはこれ一つのためであった」と
人生の目的を達成させて頂いた時にこそ、
「人身受け難し、今已に受く」
「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜が起きるのです。
人は何のために生きるのか、これを明らかにされた仏教を学んで行きましょう。
★月風さん本当にお誕生日おめでとうございます。
「人身受け難し、今已に受く」を心から噛みしめることが
出来る年になることを念じております。
岡本一志
人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
(この世に人間として生まれた深い意味と尊さに、今初めて気付くことができました。
それはまさに
仏法の教えを聞くためであったのだと、
今ようやく仏法に出会えた喜びを素直にいただくことができました。)
なるほど、じんしんうけがたし、いますでにうく。ぶっぽうききがたし、いますでにきく。
これからの未来。何か良い事が起きそう・・・幸せ・・・。
注1)【私の体験から思う事】を参照。
当時、私の全財産932万円を預けてしまった事
注2)事件の当事者である男性、白人と日系の米国人伝道師二人
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