筒窓会・神戸市立筒井台中学校・昭和44年卒業生+宮本小学校、上筒井小学校41年卒業生集まれぇ~ブログ

筒井台中学校を44年卒業、宮本or上筒井小学校41年卒業された方のブログ。フォトチャンネルで、知り合い顏発見!即連絡ね。

11月に~~

2013年11月01日 02時33分52秒 | 同窓会
写真をいっぱいいただいていました。
今頃かい?と、叱られそうですが…

写真についてのご説明は、バトンタッチします。よろしくお願いいたします。
まずは、イタリアに行かれたツトム君から3枚だけ。10日間も行かれたのに~~







「ふ」さんからはとってもきれいな紅葉と、プラス~は?いいでしょ。













最後になりましたが、住真君の写真いただきました。なつかしいですね。



それぞれのご感想はそれぞれにお任せしますので、いっぱいご感想お寄せ下さいね。
わたしの感想からは、管理者として見守る側にならせていただきまぁす。(*^_^*)

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38 コメント

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くだらん♪ 写真で… (ツトム)
2013-11-01 06:03:42
1枚目は、皆さんご存じの、真実の口。
手が、抜けなくなった時は、焦りましたよ♪
2枚目は、フィレンツェのドォーモ。
今回の3つの目的の、ひとつ!!
年老いた身体で、階段登るの、必死でした。ヤッサンや、住田見たいに、日々身体を、鍛えてる訳じゃねぇーし。大変デシタワ~
ほんで3枚目が、ヴェネチアのドォーモ広場で、面をつけて、ハシャギ回るーバカな日本人二人!!不思議なことに、殆どのお店で、お面が、売ってあるのに、誰一人被ってなくて…面をつけるのは、マナー違反???
ふじもん♪最後の写真はー
タヌキの、入浴シーン??かな?
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一言!! (ツトム)
2013-11-01 07:08:20
おぃら 実は、写真撮ルの、大の苦手でして、もちろん 撮られるのなんかは、大の大の 大嫌い人間なんですー
最近のご婦人や、若い世代の方々は、ご自身のポーズ を、持っておられて 非常に美しく 出来上がりますよね。
いまだに、写真撮られルと。魂が~ というタイプなもんで、

わたしさん!このへんで、お許し下さいませ♪!!でした。
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台風の上高地です (Unknown)
2013-11-01 08:42:37
残念ながら青空を見ることはできませんでしたが、早朝は静かな雨上がりの景色を楽しめました。河童橋もきれいでしょ。紅葉は今年は遅いみたいですね。まだまだ緑の山もありました。長野県は、「わたし」さんが詳しいんですよね。晴れていれば槍ヶ岳や、穂高の山が河童橋の奥にみえるんでしょう?
この4人が、職場の仲間から続いている、40年近くの遊び仲間です。悪乗り大好きなおバカな仲間です。
この、神社のようなコテージに2泊しました。中は中2階で見た目よりは広いです。雨に閉じ込められて、誰かが「牢屋にいれられたみたい」といっていました。食事と大露天風呂は広い本館に行くのですが、大半の時間は、ここで花札トランプをやっていました。ベランダの奥に露天風呂がありました。ちょうど建物の奥になっているので戸や窓を全開にして、自然と一体になってきました。それは、心地よかったです。といいたいところですが、本当は、覗く3人に「あっち、行け」と怒っているところ。
返信する
写真に・・・ (わたし)
2013-11-02 01:44:16
パソコン教室で年賀状の授業が始まりました。もうそんな時期に?
毎年犬に干支の着ぐるみを編んでいたのですが・・今年は・・・いない・・・
寂しさがここで、またまたぐ~~んと。(・_・;)


フィレンツェのドゥオモに登られたのですね。永遠の愛を誓う場所と、もてはやされえていますね。
きれいな娘さんが、面で見えない・・・・残念!!
「写真撮られルと。魂が~ 」(^◇^)ツトム君の魂をすいとると、遊び人になっちゃうのかな?真面目なわたしにはすこしその魂いただきたいかも~~
え??写真もう終わりなん??


「ふ」さん  気心知れた方たちとフィーバーな様子が写真からも読み取れますね。さすが、台風をけちらかしただけのことありますね。黄色い山、きれいですぅ・・。雨の後だから余計に色が鮮明だったのでしょうか。
関西はこれからですね。紅いもみじ見に行きましょうか?ふじもん♪


住田君  写真早々にありがとうございました。街で、おみかけしても、きっとお声掛けできそうです。あ、関東におられるのですね、だったら・・無理か・・・

三連休ですね。さあ、どこに家出をしようかな??
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わたしさん、住田君と連絡が取れたよ! (asa)
2013-11-02 22:12:25
 先ほど、住田君から連絡がありました。祭り囃子のような宴会の賑わいが聞こえました。仕事で甲府に来て温泉に浸かって、ゆっくりしている、ということらしいです。彼は昔、もっと甲高い声をしていたと思いましたが、お互い昔の声を忘れて、彼の「今の僕は、アクセントが違うだろ」という言葉に、今昔の感をかみしめているところです。風の便りでは、早稲田だと思い込んでいたことを伝えると、筒井台中学、長田高校、慶応と進んだそうです。
「十二月の平日に、大宮に行くので僕の会議が終わったら逢おう」と伝えたら、間髪を容れずに、「予定がないから、逢おう」とサラリといってくれた。
 
 これこそ、親友やな。自分の時間を犠牲にしてくれる。まるで、河島英五の「時代遅れ」の世界だな。心が熱くなってくる。

 今回の還暦の祝いに駆けつけてくれた人たちも、僕にとって大切な親友で、一生の宝だと思う。こんなヤツですけど末永くよろしくお願いします。少し友情に酔ってしまったかな……。
返信する
御礼等々 (住真)
2013-11-03 21:15:08
フィレンツェは大好きな街の一つです。本場イタリア料理、特にフィレンツェは旨い!ツトム君うらやまし。

先週の金曜日に高尾山、昨日甲府・昇仙峡、紅葉には少々早過ぎました(紅葉狩りが目的ではありませんがーー)。本日は甲府から超遠回りをして長野・善光寺経由で帰宅。「ふ」さんの長野・上高地は今頃真っ赤でしょう!お風呂の写真最高です。

善光寺の本堂の地下(お戒壇)は真っ暗で何も見えない闇の世界。楽しみました。目を開けて見る闇の世界、チャンスあれば是非訪問して下さい。

私の写真は筒井台中学同窓会の一週間前の高校の同窓会@六甲山荘での写真です。卒業以来初めての再開でした。懐かし!

中学はさらに懐かし&懐かし!筒井台中学ブログ発見以来、いろいろな方々からメール等を頂き感激しております。昨日はasaさんと電話でお話、高校等は異なり幼馴染とのコンタクトは又格別なものがありますね。ブログ担当”わたし”さんには感謝です。

楽天優勝か!?






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想いださるる  番外編 4 (asa)
2013-11-03 23:00:44
忍者ごっこと戦争までの道のり(1)

小学校三年生の頃、巷では、三波春夫の「五輪音頭」が流れていた。オリンピックを楽しみにした僕らは、この時から「立ちション便は国の恥」と、溝に放水している大人たちの後ろを、通りすがりを装って突然の大声で嫌がらせを言ったものだ。もちろん殴られてはたまらないから、おしっこが止められないタイミングを見切って声を張り上げるのだ。でも、天に唾を吐くというか、僕らもいつの間にか恥ずかしくなって、日頃の立ちションができなくなっていった。国家も僕らも窮屈ながらも世界に恥じない常識ある日本人になろうと努力していたのだ。
この時期、このクラスには川戸がいた。彼は宮本通一丁目の一番山側に在る県の職員住宅に住んでいた。当時、持ち家に住んでいても庭など持てないご時世だったのに、社宅といってもバカにはできず広縁も在り垣根に囲まれた庭を持ち、その平屋の家はちょいと古いが風格のあるモノだった。だから彼は、お坊ちゃまのような受け答えが板に付いていた。三年生の初めての委員長選挙で彼に僅差で負けた。おまけに担任の独善的な義務教育の理屈のために、3位で得票数の少ない田畑女史が男女雇用均等法の恩恵を受けて副委員長になってしまったのだ。僕は、決選投票も投票数に応じての役割分担にも明確な説明もなく、義務教育のせいにしてしまうこの担任にはなじめなかった。ふてくされた僕はというと、良い子の生き方を捨て、タダの少年としての裏街道人生を歩むのだった。ほんまか!?
ガマグチもいた。放課後遅く教室にランドセルを取りに帰る途中、擦れ違いざまに川戸が「一人残っているヤツがいるから、アホ、ゆうてみ。面白いことが起こるぞ」と、ニヤリと笑った。言われるとおりにすると、ゴリラのように怒りだし、椅子を幾つも投げてきた。よく見ると、川戸たちも投げられたのか、机と椅子が散乱していた。「アホ」といわれると爆発して荒れるヤツはそんなにいないので、どこかで利用できると思った。が、この場合、逃げるが勝ちだった。こんなヤツと四年間も同じクラスとは……トホホ……。
宮山サヨ子もいた。初めは目立たない女の子だったが、スポーツも勉強も良くできて瞬く間に頭角を現した。彼女にはあることで世話になった。改めて礼を言いたかったのだが、今回の「青春復活会」には欠席していたので残念で仕方がない。来られることを期待する。
 山吹の誕生パーティもした。彼の近所には、玉利・宮下もいた。
 3年生の時に、勝間が奄美大島から転校してきた。ひどい訛りで大和言葉が話せなかった。良い子の川戸は、担任に「委員長だから、転校生に仲良くしてあげなさい」と押しつけられたが、意思疎通がはかれず2週間でギブアップした。勝間は恥ずかしがり屋なので、みんなと一緒に給食が食べられず、その時間になると忍者のように教室から消える。毎日、僕がトイレや校舎の裏などを探し回って諦めて帰る頃には、昼休みも残りわずかしか無かった。校庭にある体育用具倉庫のマットの隙間に、彼を見つけ出すのには何日もかかった。でも一緒になって遊び始めると親友になり、島の言葉を暗号代わりにして、いけ好かないヤツラの目の前で悪口を言って笑い合った。いわれたヤツラは、きょとんとしていたが。
 4年生になると、宮内が転校してきた。勝間より大和言葉がしゃべれたが、アクセントとか言葉尻に島の言葉を匂わせた。一年の間に標準語教育が進んだのだろうか、臆せずペラペラと喋る。島の遊びだというので王子児童文化会館のソテツの葉を二人で引き落とす競争をしていると、館長に見つかって注意を受けた。「初代のこの木なんの木、気になる木は、島の小学校に植えられているガジュマルの木だ」と、校庭の真ん中に鎮座した傘のような大木の写真を見せられた。神戸に来て、チキンライスが気に入ったのか、「ケチャップご飯、ケチャップご飯、食べたいな」と歌うようにいっていた。ある時、赤いソテツの実をくれた。振るとコロコロ鳴った。「実は毒だけど、晒して粉にして味噌を造るんや。こくがあって豚肉やミカンをつけたりもするんや」と、島の風習や食文化を教えてくれた。
 桐山もいた。彼は幼稚園の同級生で、幼稚園の備え付けの粘土のほとんど全部を独り占めしてゴリラをつくった。幼稚園児が褒めそやすので得意になっていたが、所詮、出来の良い幼稚園児の作品だと心で笑っていた。その僕はというと、残りの少量の粘土を転がして蛇をつくっていた。あまりにも粘土が少なすぎて、蛇以外造りようがなかったからだ。ボロ家に住んでいるくせに僕の家をボロ家だと言いふらすので絶交した。三年生になってまた友だちになって欲しいというのでなってやった。算数の問題をどちらが先に解いて先生に褒めて貰えるか競争をしようというので挑戦を受けたが、僕が勝つようになると、「算数は回答までの道筋が幾つもあるから、できるだけ沢山見付けて先生に診て貰おう」といってきた。僕らだけがはしゃぐので、担任は厭な顔をしてきた。彼は空気が読めない。僕はばかばかしくなってきた。道筋のいくつかは、数式の順番を入れ替えることだけで、革新的な発見ではないからだ。彼は頭が良いのだが、空回りしている自分に気が付かないので、傍にいる僕にとばっちりが来る。困ったヤツだ。こんなヤツだが、僕に読書のおもしろさを教えてくれた。「昨日、ドラキュラを読んで怖かったので、夜トイレに一人で行けなかった。お前も読め。感想を聞かせてくれ」といって本を押しつけてきた。「牡丹灯籠の方が怖いわ」と感想を述べると、今度は「坊ちゃんを読め。感想を聞かせてくれ」といってくる。彼は対人関係に距離感がない。自分の感動したことは、親友なら同じ価値観を共有するものだと勘違いしている。そのほかに戦艦大和の話しやプラモデルの話しやで、ずかずかと僕の精神世界の中に土足で乗り込んでくる。面倒くさいので、捨てた。六年生になった頃、ローラースケートが流行った。桐山は八幡さんの石畳で、独りで滑っていた。懐かしそうに僕を見るけど、彼には、独り遊びが似合っていた。
 ふじもとさん、これ位で桐山の話はよいかな。まだまだあるけど知らない方が、君の思い出を壊さないでよいと思う。

この頃から少年マンガ誌は忍者特集をしていて、忍者遊びは僕らのブームになっていた。それ以前は、忍者が九字を切って蝦蟇になったり巨大ムカデになったりする変身モノで、グロテスクすぎるのと仰々しい物語が時代遅れで面白味がなかった。そんな時、伊賀の影丸と天野邪鬼に人気が集まった。僕らは、影丸になって枯れ葉の塊を両手で空に放って、「木の葉隠れや」と得意になっていた。降りそそぐ枯れ葉の中にはヤスデやダンゴムシや砂粒が紛れ込んで髪の毛や下着に忍び込むので気持ちが悪くなって「木の葉隠れ」は止めた。集団で遊ぶには、影丸と天野邪鬼の取り合いになって、その他大勢の子どもたちは脇役にさせられるため面白くなくて、口喧嘩になり嫌けが差して遊びが止まることもあった。愛読書としての「伊賀の影丸」は息が長かったが、忍者装束が用意できないので、ハリマオほど、その気になれず遊びの寿命は短かった。
そんな時、「忍者部隊月光」のテレビドラマが始まった。4年生も終盤の時だった。月光とその仲間は、ヘルメットを被っていて関東鳶のオッサンのズボンをはいて自衛隊もどきの格好をしていた。この遊びは取り残されるヤツがいなくて、集まったみんなに配役ができるメリットがあった。それにヘルメットを被るだけでその気になれたので楽だった。それでヘルメット収集家の川戸の家にみんなが集まった。ひとなっこい彼は、その笑顔で工事現場のおじさんにヘルメットをもらってくるらしい。 
 川戸の家に数人集まると、まず主役の月光は誰がするかで、子どもらしく揉めた。主役の水木襄はポッチャリしていて躯の大きい屋敷恒に似ていたので、ゴン太の屋敷に決まった。順番に月輪、名月、月影、新月、半月と決まっていった。一番格好いいヘルメットを川戸が被り、二番目のは屋敷で、と順番に決まっていった。最後に残ったヘルメットは、もちろん僕が被らされた。格好いいヘルメットとはドイツ軍かアメリカ軍ので、このヘルメットは、イタリア軍のヘルメットに似ていて、色は緑がかった灰色で、トイレの消毒液の入った洗面器に似ていて平たく、お洒落とはほど遠く被っているだけで笑い種になった。被ると気力が萎えて、勇者には程遠い姿が我ながら情けなかった。それだけではない。みんなに内緒にしていたのだが、幼児の時に見ていた、肥桶を天秤棒で担いだ汲み取り屋のおじさんの帽子に似ていたのがさらに情けない気持ちにさせた。だって、これから忍者走りをみんなでするのに、最後尾で僕だけが肥樽を担いでチャッポンチャッポンいわせてついていくのだぞ。こんな姿を女の子になんか見せられない。ご先祖様に合わせる顔もない。なんてこった。
ヘルメットを被り忍者になっても、傍のテニスコートの土手に上がり茂みに隠れ飛び降りるだけの単調な遊びは、30分もすると飽きてしまい、川戸の庭で群れあってボーッとするだけだ。次の遊びの斬新な発想もなく夕暮れを待つだけで、時間の無駄だった。ヘルメットを返して帰ろうとすると、「誰も被らないからプレゼントする」という。親切ごかしの嫌みだ。しかたなく家に持ち帰り軒の釘に引っかけておいた。風が弄ぶだけだった。
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想いださるる  番外編 4 (asa)
2013-11-03 23:02:37
忍者ごっこと戦争までの道のり(2) 

五年生になると忍者部隊月光ごっこも既に飽きていた。川戸ともクラスが違っていたので、それ以後、彼とは遊ぶことも言葉を交わすこともなかった。
宮山とはまた同じクラスになった。成績はダントツで、他の追従を許さなかった。「キューポラのある街」の吉永小百合に似ていると思った。ハイビスカスを思わせるキュートな原山と、放課後二人きりになるといつの間にか、心はときめいていた。中村孝二が新学期から鹿児島より転校してきた。目鼻立ちのシッカリした男前で勉強もできたので委員長になった。鹿児島訛りはなく標準語を意識して喋ろうとしていた。それが下町の僕らには嫌みであった。中学3年生の時は一緒に勉強したり、高校卒業してからも将来を語ったりした親友であったが、その時の中村は、虫酸が走るほど嫌いなタイプのヤツだった。
他に五年生の時、中須賀が、広島から転校してきた。夏の終わりの書道の時間だった。ゴミ箱の臭いというか動物が死んだ臭いというか銀杏の実の熟した臭いというか分けの分からぬ臭いが、谷間に広がる靄のように僕の鼻腔に侵入してきた。「あっ! 腐っている」という声が後ろから聞こえてきた。書道の時間にいちいち墨をするのは面倒くさいから、中須賀は広島で春先に墨を一本すって墨汁をマヨネーズの容器に入れてきたらしい。夏の間に、膠が腐っていたのだ。その時の僕らは初めて墨も腐るのだということを知った。まだ、墨汁が市販されてなかった頃に、墨汁を造る発想はすごいことだと秘かに思った。とりあえず、親友の一人に加えることにした。クラスでは、広島弁の田舎モンで愉快なヤツということで受け入れられた。
入れ替わるように、幼なじみの寺師敦子が転出していった。食の細い子で、「給食を美味しそうに食べる、ぼくちゃんがうらやましい」とお嬢さんぽくいうから、「嫌みか? 口をつけたモノは例え不味くても、作ってくれた人に失礼やから美味しくいただきなさい、といわれているから守っているだけや」とふてくされた。彼女の家の前には当時珍しいスクーターがあったので、いつでも少年ジェットになれた。彼女のお父さんは三菱自動車の社員で、当時はスクーターも造っていた。早稲田から学徒出陣した特攻隊の生き残りだった。「出撃したが、エンジン不調で墜落し、機体が木に引っかかり生き残ってしまった。出陣した戦友には申し訳ない……」といっていた。父親も「ベトナムでは、陸揚げした本土からの戦闘機は、そのままでは飛ぶことができなかったし、技術者のほとんどが兵隊に取られてしまったせいやから、しょうがない。今生きていることを感謝せなあかん」と慰めていた。青い目の日本兵とか武装解除した後の山のような兵器を中国軍から身を挺して守り、顔見知りのベトナムゲリラに引き渡し、独立に協力するため一部の者が現地に残ったという話しを父から聞いていた。中学生になるまで僕らの周りでは、ごく自然に戦争が語られていた。ところで、「あっちゃん」はというと、大人になったら綺麗になるだろうと予感させられたので、今頃はたぶん……。
6年生の春には森脇陽子が、岡山から転校してきた。少しポッチャリしていたが、お嬢様風で、下町の野菊の中ではバラの花を連想させた。類は友を呼ぶのか、宮山と原山とは直ぐに友だちになった。夏も近づく頃には、花壇に手入れされたバラが咲き乱れていた。
「岡山では、紙石けんの代わりに、バラの花びらを揉んで泡立てるの」
「ほんとだ! 泡立っている」
「香りも良いわ」
 僕は真似した。この喜びを独り占めできなくて、友だちに話すと、瞬く間に花壇からバラの花は消えていった。形あるものはいつかは滅びるか……。
木枯らしが吹く頃、彼女たちはテレビの歌合戦に出るために、吉永小百合の「寒い朝」を練習していた。負けずに僕らも混乱合唱団を結成したのだが、夢のまた夢だった。

――小学5年生になると、巷では東京オリンピックの話題で持ちきりだった。
町並みは益々変貌していった。節穴の目立つ板壁で屋根がコールタール紙やセメント瓦で葺かれたバラックが、モルタル二階の一戸建に代わっていった。高度成長で屋根が高くなり、路地裏の僕らの青空は狭くなっていった。

 勉強とは無縁の僕らだから、少年漫画に忍者屋敷の特集があったので「忍者屋敷を作ろう」と、新しいクラスのメンバーに声をかけた。
「そんなん無理や。子供にできへんわ」と、みんな諦め顔で答えた。
「出来るわ。空き家探してこいや」
忍者の上人のように偉そうに言うと、チビタが目を輝かせた。
「俺、空き家、知っとるわ。それも沢山あるんや」
 王子公園の向かい、原田神社の西隣に住民が失踪したのような県営住宅があった。放課後に、金槌、鋸、斧、鉈、くぎ抜きを手に手に持って、空き家に集合した。平屋を囲んだ白塗りの板塀は白装束を纏った人のようで不気味な建物だった。ただ、白板は夕日の朱を反射していた。僕らの忍び込む家は、外部からの侵入者を阻止するように雨戸が閉まり玄関は板で打ちつけられて、光の侵入さえも拒んでいた。以前に誰かが侵入したのか、玄関のガラスは割られていた。くぎ抜きで一部を外し、僕たちだけが入れる空間を確保した。
 本当かどうかは分からないが、ここは一人暮らしのお婆さんが自殺したという曰く付きの家なので、怯えながら忍び込んだ。勿論、一番臆病な僕は、みんなの尻について入った。一番先に逃げられるようにと、考えていたからだ。中は真っ暗だった。
 しばらく暗闇の中にいると、雨戸の隙間や打ち付けられた板の節穴から光が洩れているのがハッキリわかるようになった。埃を浮かび上がらせるその光線を頼りに探検が始まった。節穴からの光芒が幻灯機さながらに戸外の風景を陽炎のように壁に写しだしていた。
「ギャー」と、坊主頭のチビタが、右手に掴んだ物を僕らに見せた。筋状の外光に眩しく浮き上がったのは、白木の位牌だった。僕は奥の部屋を指さした。影が揺れていた。
「婆さんがこっちを見ている」
 僕は一番先に逃げ出したつもりだったが、こいつらは取り残されるのが怖くて、お互いの服をつかんでは自分だけが助かろうとする。勇気がないもの同士が狭い出口に団子状態になった。こんな時は、友情とか強い弱いとか関係なくなる。臆病者ほど、仲間意識を置き去りにして逃げるし、逃げ足は速い。チビタは腰が抜けたのか、一番最後だった。
「お前、右手に、なに持っとんや?」
「あっ!」
 チビタは小さく叫ぶと、草むらに捨てようとした。
「位牌を粗末にすると、祟られるぞ」
 というと、チビタは震えながら僕の手を引く。他のヤツに視線を移すと知らん顔だ。
「お前ら、冷たいヤツラやな。絶交するぞ」
「そんなことぐらいで、大層なこと言うな。びびりか? さっさと返してこい」
 もうすぐ日も暮れる。枯れ野に埋まる無縁墓地の様相を示している住宅街の草っ原が、風に揺れるだけで肌が粟立つ。勇気を出して、チビタを先に歩かせて、あの暗闇に戻ることにした。チビタはしきりに振り向き僕が直ぐ傍にいることを確認する。声をかけるとピクリと肩が動く。自殺したお婆さんが待っている奥まで行けなかったが、二人で抱き合うようにして、位牌を元の場所に返し、跳んで逃げた。
 僕たちは祟られるのが怖くて、この家を忍者屋敷に改造することができなかった。

五年生ともなれば、待ちに待った国家事業でもあるオリンピックが、僕らの全てであった。だからオリンピックが終わるまでは、忍者屋敷を作るのを忘れて、オリンピック関係の新聞記事を切り抜きノートに貼り付け感想文を書いていた。僕らが生きている間には二度と日本では開催されることもないといわれたオリンピックに、誰もが夢中になっていた。記憶に焼き付けようとしていた。

 オリンピックも終わると、毎日が刺激的でなくなった。遊び好きといわれるチビタは、家に帰っても、母親が仕事から帰ってこないので、寂しいから、日没までブラブラしていた。僕の顔を見ると何かいって欲しいような表情をしていた。ある秋の放課後に提案した。
「もう一度、忍者屋敷を作らへんか」
「作りたいけど、原田神社の西隣の県営住宅は、お化け屋敷やから、あそこはあかん」
 チビタは震えながら言った。
「他にも、まだ、空き家はあるから、探しに行こう」
 と、ユキオは思い当たる節があるみたいだった。
「みんなで時代劇に出てくる吊天井を作ろう」
  
 ユキオの努力の甲斐もあって、次の物件は宮本四丁目にあった。解体間近なのか、玄関扉も窓も取り外されていた。ガラーンとした狭い室内が夕日に黄色く染まると、古びた室内が更にみすぼらしく見えた。晩秋の日暮れは早い。日が沈むまでに、できるかぎりカラクリ屋敷にしようと、改造に取り掛かった。直ちにみんなで天井裏に潜り込んだ。
 吊り天井といっても、時代劇で悪人が綱を引っ張るとガラガラと音を立てて下りてくるようなものは子どもにはできるわけがない。それで天上のベニヤを支えている角材を切って落下させることにした。もちろん悪い奴をペシャンコにするためだ。
 天井を支えている「大三」という角材は子供にも切りやすい。4人が踵を踏み落して天井を落下させるのには、四方の面の中央の1か所だけを残して後は切断することが良いのに気が付いた。大切なのは、天上の重さを支えながら、足で軽く蹴っても落ちるような切れ目の入れ方だ。中央4か所の切れ目の入れ具合を確かめるために、鋸で少し切断しては、踵を踏み落す。何回も繰り返しながら2、3ミリ程度残して切れ目をいれると良いことが分かった。悪い奴よ、下敷きにしてやる、と決意した。それが励みになったが、子どもの力では思ったほどはかどらなかった。黄昏が迫ると中途半端で、今日は、帰ることにした。
何日も地味な作業が続いた。

その日、チビタは天井に乗って、丁寧に切れ目を入れていた。僕は斜めから見ていた。この数日、自分の持ち場だけではなく他人の持ち場まで鋸を入れていた。最後の仕上げで自分の持ち場に少し鋸をいれると釣り天井は出来上がる。天井はギイギイと泣き、チビタの体重を受け止めるのが精一杯だった。遅れてきたユキオが、僕に元気な声を掛けてきた。
「チビタも天井裏や、早よう上がって手伝え」と言うと、慌てて柱を登ってきた。
ユキオはその勢いで、天井をドタドタ踏んで奥のチビタに近づいた。その時、ミシミシという音がバキバキという音に変った。チビタは大きな目を剥いて振り返った。眼球がポロリと落ちて脳みそがはみ出しそうだ。笑いそうになった瞬間、天井は獅子舞の口のようにパカッとユキオの足元から開き、ユキオは井戸に落ちるように垂直に消えた。チビタは天井裏を転がりながら落ちて行った。ドスンと大きな音の後、この家の歴史を感じさせる埃りが舞い上がり、二人を消した。咳き込んだ僕は幸いにも屋根裏の梁につかまっていた。
 無音が広がった……。
 二人は死んだのか?! ぶら下がったナマケモノのような僕は、ヌーッと見回した。
「ウー、痛いよ、痛いよ」
 チビタの弱々しい声が上がってきた。
「ユキオはどうなった? 生きてるか?」
 声を掛け合うと、鴨居にぶら下がっているユキオが、すまなさそうな顔でチビタを見下ろしていた。幸いなことに身軽なチビタは、かすり傷ですんだ。下町の子どもは不死身だ。折角の釣り天井は、悪人を下敷きにする事も無く、最大の貢献者であるチビタを懲らしめて、台無しになってしまった。
 別の日、別の物件では、知らない間にみんなで改造に着手していた。呼ばれた僕が何気なく壁にもたれると家が傾いたので驚いた。気のせいだと思い、両手で押すと、ギイギイと音をたてて家全体が揺れた。僕を驚かそうと計画性もなく銘々が身勝手に柱に鋸を入れたので、子供の力でも軋む危険な状態になっていた。中で作業をしている奴を呼び寄せた。
「このまま続けると、家が倒壊して生き埋めになって誰か死ぬぞ! それに、解体屋のオッサンにド突かれ
返信する
忍者ごっこと戦争までの道のり(2)続き (asa)
2013-11-03 23:04:45
別の日、別の物件では、知らない間にみんなで改造に着手していた。呼ばれた僕が何気なく壁にもたれると家が傾いたので驚いた。気のせいだと思い、両手で押すと、ギイギイと音をたてて家全体が揺れた。僕を驚かそうと計画性もなく銘々が身勝手に柱に鋸を入れたので、子供の力でも軋む危険な状態になっていた。中で作業をしている奴を呼び寄せた。
「このまま続けると、家が倒壊して生き埋めになって誰か死ぬぞ! それに、解体屋のオッサンにド突かれるぞ! ここには二度と近づくな。見つからんように、早く逃げろ」
 僕が言うと、みんな脇目もふらずにその場から駈け出した。
幾つもの物件を忍者屋敷に変えたことで、僕らの解体改造の腕は格段に上がっていった。
返信する
想いださるる  番外編 4 (asa)
2013-11-03 23:06:06
忍者ごっこと戦争までの道のり(3)

 6年生の春になっていた。
「あいつらに、また、脅された。どうしよう」
「我慢できへん。仕返しがしたい」
 チビタやユキオや穏健なクラスメートが相談に来るが、相談を受ける僕が一番意気地無しなのだから、どうしようもない。
 あいつらというのは、ガマガエルのような声の通称ガマグチとチンピラ小猿のソウメンだ。こいつらは学校に何をしに来ているのかと訝るほど、教育を受けているという意識がない。ガマグチは、テストでは零点以外取ったことがない。数少ない取り柄と言えば、漢字で名前が書ける事と陰湿なしつこさだろう。クラスの殆どの者がイジメに遭っていた。嫌われることが生きがいのような二人だ。声を殺して言うが、僕が一番怯えているのかもしれない。

 朝礼が終わって、音楽に合わせて教室に向かう道すがらの、階段での出来事だった。無邪気な鼻歌で階段をガニ股で上るノーガードのガマグチの肛門を、隣クラスのヤクザ志願のショウジの狙い澄ました二本の人差し指が襲った。ショウジは忍者が九字を切る形に指を組み、人差し指の第二関節までガマグチの肛門に突き刺さしたのだ。
「うーっ」と短く唸ると、のけ反ったガマグチは、痛さに耐えきれずピョコピョコと右へ左へ踊り場を動き回り、ジグザグに階段を駆け降りると、ショウジに向かっていった。手負いの獅子はその拳で荒れ狂うのか。ガマグチはぴょこりぴょこりとショウジの周りを回って痛みに耐えるだけだ。少子抜けした。ガマグチは痛みが和らぐと、九字に指を組み合わせて、前かがみでショウジの肛門を執拗に狙い続けた。それを面白おかしく茶化すソウメンがいた。それを見ている僕がいた。くだらねぇー! 
 ショウジは肛門を窄めて両手を尻に当て、下っ腹を突き出し立ち小便をするような格好で、ガマグチに正対した。肛門を狙えない歯がゆさに焦れたガマグチは、ふと見た。股間がガラ空きになっている。軽い蹴りを入れた。爪先がしなるように見事に金玉にあたった。
「うーっ」と短く唸ると、ショウジは脚をハの字にした。 
 金玉を力任せに蹴ると痛みを通り越して無感覚になるのだが、スナップのきいた蹴りは脂汗が滲み出るくらい気分が悪くなり悶絶する。ショウジは金玉をおさえガマグチの周りをピョンピョン跳んで痛みに耐えた。さあー、ここから、可笑しくもクダラナイ果てし無い金玉の蹴りあいが始まった。
「エイ!」とか「ヤ―!」という勇ましい掛声を、僕は背中に聞きながら余りにも馬鹿馬鹿しくって、相手してられなくて階段を駆け上がって教室に急いだ。ソウメンは「もっとやれ」と囃し立てている。

「あいつら、どこいったんや?」
 担任が、空いている席を指さして、遅れてきた僕に聞く。
「廊下でまじめに金玉の蹴りあいをしています」
 僕がいうか言わないかのうちに、殆どの女の子からクスクスと笑い声があがった。
「あいつら早く連れてこい」
 担任が呆れて言うので、渋々僕は迎えに行った。ガマグチとショウジは、飽きずにまだ金玉の蹴りあいをしていた。
 後年、ショウジは念願のヤクザの使い走りになり、漢字が読めないと思われていたガマグチは、転校した中学を卒業すると、就職のため原付免許を僕らより早く取った。

 みんなの訴えで僕は、幸か不幸かこんな奴らと戦争をする羽目になってしまった―。
 もともとクラスの男子は三つに分かれていた。エリート意識を持った三人(義務教育とは、なぜ、こういった賢そうに演じるステレオタイプの良い子を創作してしまうのか、不思議だ)と、嫌われ者のガマグチにソウメンと、僕を含む特に取り柄のないその他大勢の弱虫グループだ。

 弱虫の僕なのに意気地なしに背中を押されて、無謀にもガマグチとソウメンに「宣戦布告」をさせられてしまった。いつも脅されて苛められている弱虫グループも遂に堪忍袋の緒が切れたのだ。でも「尋常に、勝負! 勝負!」といったところで、弱虫グループは、すぐに負けることをイメージするために、勝負にならないことは分り切ったことで、知恵を使わないと勝てない。それで、勝つために、僕は当てにされ、親玉に祭り上げられてしまったのだ。
 ―はたと閃いた。空き家に仕掛けを作って誘い出して罠にはめ殲滅する。それが良い。

 その為に選んだのが、昔探検した原田神社の西隣の県営住宅だ。現場に行って驚いた。いつの間にか更地になっていた。予定が狂った。ここ、市電道の南側、王子動物園の向かいには近代美術館ができるということで、殆どの家は立ち退きに同意して更地になっていた。西角の中村医院が頑固に立ち退き反対の立場で、一段低い南側の三軒長屋の傍には、立ち退き反対の立て看板が勇ましく立てられていた。僕らは見るからに無人らしい三軒長屋を忍者屋敷に改造しようと意気込んだ。僕らは西側の一軒に忍び込んだ。既に室内はガラーンとして畳も上げられて人の気配は微塵もなかった。
 僕らは勇んでここを忍者屋敷の総仕上げにしようとやってきたのだ。家の周りには古い時代の生活用品が置き去りにされていた。ガラス瓶、梯子、角材、炭俵、タドン、瓦等々、宝の山があった。僕はここで戦争をしようと企んでいるのだった。
 僕たちにとって小学校最後の大仕事だ。真っ先に吊り天井を考えた。ほかに仕掛けは幾つか思いついた。追い詰められた時に屋根と同じ高さの北側の土手に天井裏から逃げ出せるように、屋根瓦とその下に葺いている杉の薄板を剥がし、脱出口を2つ設けた。みんなが素早く逃げ出すためには複数必要だった。勿論、脱出口を見つけられないように瓦を葺き直した。弱虫は逃げることを真っ先に考えるものだ。
 
 天井からは、鋸でひいた真新しい木の粉が床に散らばった。これを放置していると吊り天井に気付かれてしまう。床下に隠すことにした。床板をはがしていると、ふと気が付いた。床から地面までの深さは落とし穴にもってこいだ。落とし穴で身動きができなくて、もがいているところに天井を落とそう。それで全ての床板を慎重にはがすことにしたが、中央に誘い込むために一部を残した。中央部分は少し踏み込んだだけで板が落ちるようにと、のりしろを2ミリにした。これでいだろう。罠にはまったら、たぶん、生きて帰れないだろう。非常だが、それが戦争というものだ。
 天井に鋸を入れるとき、チビタは慎重になった。あの時は本当に痛かったのだ。
 春とはいえ肌寒かった日々も、いつの間にか暖かい陽射しに包まれて、誰もが血湧き肉躍る季節になっていた。いよいよ待ちに待った「戦争」が始まるのだ。

 戦には戦術と戦略が必要だ。
 手はずは、こうだ。屋根の上から、タドンや豆炭爆弾を敵に投げつける。敵は怒って、家の中に雪崩れ込む、誘い込んだ僕たちは、天井裏からバケツの水をブッカケて、驚いている隙に練炭の粉をバケツでぶちまける。目を開けられなくて真っ黒な塊になった奴らは、動き回ってかろうじて残っている床板に誘われるように中央に躍り出て落とし穴に落ちる。すかさず吊り天井が無情にも落ちてくるというシナリオだ。我ながらこの作戦はほれぼれする。「同情はするな。それが命取りになる。多少の怪我は眼を瞑れ」とみんなに言って、明日の土曜日を楽しみにした。非常でないと生きてはいけない。女性に優しくないと生きていく資格はない。ハードボイルドだ、ジョー。
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