エッセイ 社長
結婚をする前、小さな商事会社に勤めていた。
社長が三十代で興した若い会社で、社員は途中入社が多く、特に営業の人はよく入れ替わった。
自動車メーカーで、常にトップクラスの販売をしたとか、保険会社でボーナスを貰うと現金の入った封筒が立ったとか、景気のいい話が飛び交っていた。
そうならば、そこで頑張っていたらよかったと思うが、何か事情があってここに来たのだということは皆が分かっていた。
その日、その月の成績がものをいう。
社長は特攻隊帰りで、色黒のぶっきらぼうな話し方をする人だった。
社員が自慢話をしても、ジロッと見て「そうかい」とそっけない返事をしていた。
20年程前に会社を閉めたが、その後、奥さんが亡くなって、社長は一人で暮している。
以前勤めていた私達は、奥さんの命日近くにお花を持って集まる。
社長はその頃から随分と話しに加わって、よく笑うようになった。
帰り道、社長は話し相手が欲しいのよと、私達は次に集まる約束をした。
今年、年賀状がなかった。具合でも悪いのかと気になって電話をしたが、何度かけても呼び出し音しかしない。
先輩のMさんと様子を見に行った。
閑静な住宅街にある家は、植木が道路にまではみ出してしばらく手を入れていないようだ。
近所の人に聞いてみたが、お付き合いがないので分からないと言う。
ポストに、「必ず連絡を下さい」と電話番号を書いて入れてきた。
しばらくして、別に住んでいる息子さんから電話があった。
「昨年から病院に入っていて、今度施設に変わります、落ち着いたら知らせます」と言ってきたが、まだ連絡がこない。
私はこの会社に十年以上勤めた。
社長も、亡くなった奥さんも、何時の頃からか東京の親のように思えて、時々ふっと心をよぎる。
課題 【父の背中・母の顔】 2011・8・26
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