ある牧師から

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コヘレトの言葉6章3~10節

2021年06月25日 | 聖書

教会の「聖書一日一章」では本日はコヘレト6章。

6:3 人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だとわたしは言おう。4 その子は空しく生まれ、闇の中に去り、その名は闇に隠される。5 太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。6 たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。7 人の労苦はすべて口のためだが、それでも食欲は満たされない。8 賢者は愚者にまさる益を得ようか。人生の歩き方を知っていることが、貧しい人に何かの益となろうか。9 欲望が行きすぎるよりも、目の前に見えているものが良い。これまた空しく、風を追うようなことだ。10 これまでに存在したものは、すべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分より強いものを訴えることはできない。11 言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。

中心となるのは、10節後半から11節にかけての「自分より強いものを訴えることはできない。言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう」です。ここでの「強いもの」とは、神を指します。人間は神を訴えることはできないというのです。ここを読みますと、5章1節にありました「神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ」という言葉との連結がなされます。またそこから、イエスの「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)という言葉を連想させます。コヘレトが「神の御業の絶対肯定」ということを考えていることが分かるのです。コヘレトは、神にものを申すのではなく、神のなされることを無条件に受け入れるという立ち位置にいるのです。

この言葉の直前を見ますと、「これまでに存在したものは、すべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている」(10節前半)とあります。神の御業を絶対肯定しつつ、そしてその神によってすべての人間が知られ、名前が付けられているというのです。そこではすべての人間に、何の差異もないのです。

3~6節では、長寿の人も母の胎で人生を全うした人も、「同じだ」と言っているのです。そして流産により闇の中に隠された人の名前であっても、「名前が与えられている」(10節)なのです。私はここに、コヘレトの「生に対する畏敬」の究極なものを見ます。「どの人生も、神に知られている(10節)貴いもの」なのです。そしてその「畏敬されるべき生の根源的なもの」には、「労苦」(7節)も「賢さ」(8節)も「欲望」(9節)も、勝ることはないと言っているのです。

全文はコヘレト書を読む(15)をお読み下さい。

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