ある牧師から

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コヘレトと黙示思想

2020年11月03日 | 聖書

(2020年11月2日 愛知東地区教師会発表 於:日本基督教団知立伝道所)

東京神学大学教授の小友聡先生による「シリーズ『それでも生きる・旧約聖書コヘレトの言葉』」の放送が、11月からNHK・Eテレ「こころの時代〜宗教・人生」で再開されます。4月に第1回が放送された後、コロナのため延期となっていたものです。11月8日に第1回のアンコール放送が行われ11月15日に第2回が放送されます。以降は毎月第3日曜日の放送予定で全6回です。放送時間は午前5~6時で再放送は同週の土曜日午後1~2時です(以上は世真留教会の10月25日週報掲載文)。副読本が発売されていますが、それを読みますと第5回放送分に黙示思想との関連が述べられています。そこで、今回は「コヘレトと黙示思想」についてレポートします。黙示思想とは、「終わりが来て、そこから新しいことが始まる」として、「今」よりも「終わりの日」に期待をする思想です。

関根正雄著作集第5巻「旧約論文集上」441ページ以下「コーヘレスとテオグニス」によれば、コヘレト書は紀元前250年頃に成立した書であり、ギリシャの抒情詩人テオグニス(紀元前570~485)の影響を受けているとされます。ただ、コヘレトは影響を受けつつむしろギリシャ思想に反論しているようにも思えます。1章で「土、火(日)、空気(風)、水(川)」の無限の循環の空しさが語られ、コヘレトは土、火、空気、水の4元素論のあるギリシャ思想に抗しているとも取れます。また「無限」はギリシャ思想ですが、ヘブライ思想は「永遠の神」が基調です。

一方信徒の友2017年10月号の、「現代に語る『コヘレトの言葉』」において、小友聡先生が同書の7章を取り上げていて、そこで「コヘレトと黙示思想」の関連をコヘレトが黙示思想に抗する観点から述べています。実際、聖書テキストには、「神の業を見よ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできよう。幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように、神は両者を造られたのだ」(13~14節)と、困難な時にあっても、黙示思想に逃げるのでは無く、「今を生きよ、神が今なさっていることをふさわしいことと受け止めよ」とする文があります。

ただ、上記関根正雄氏のように、コヘレト書の成立は、紀元前250年頃とされているのが聖書学における今までの強い意見です。その時代の黙示思想はどういうことなのかということについて、「ユダヤ終末論におけるギリシャの影響(グラッソン著・新教出版社)」が書いています。それによれば紀元前3世紀(と聖書外典偽典にはある)のエチオピアエノク書1~36章(通称「寝ずの番人の書」)はギリシャ思想の影響を受けているとされます。小友先生が言われるように、コヘレトが黙示思想に抗しているとすれば、ギリシャ思想の影響を受けている同時代の黙示書に抗しているとも取れるのです。「エチオピアエノク書・寝ずの番人の書」には以下のようにあります。

彼(御使い)はわたしに答えて言った。「あなたが見た主のみ座に似た頂上を持つあの高い山は、聖なる、大いなる栄光の主、永遠の王が、祝福をもって地をたずねにおりてこられるときにおかけになるはずのみ座である。みごとな香りのするこの木には、神がすべての者に復讐し、彼らが永遠に滅ぼされる大いなるさばきの時まで、それに触れることは肉なる者には許されていない。その(さばきの)ときには、この木は義人とへりくだった者に与えられるであろう。その実から選ばれた者に生命(いのち)が与えられ、それは北のほう、永遠の王なる主の住居の近くの聖なる場所に植えられるであろう。そのとき彼らは大いに喜び、聖所で狂喜し、骨のひとつひとつにその香りをしみとおらせ、きみの先祖たちのように長生きし、彼らの生きている間、悲しみ、苦しみ、難儀、災難が彼らに触れることはない」。(エチオピア語エノク書25章3~6節、『聖書外典偽典4 旧約偽典2』)

このように、「さばき(終わり)の時が来てそこから新しいことが始まる」というのが黙示思想であり、コヘレトはこういった思想に抗していると取れるのです。関根正雄氏のようにコヘレト書の成立年代を紀元前250年頃とするなら、「エチオピアエノク書・寝ずの番人の書」のようなユダヤ教黙示文書、そしてその向こう側にあるギリシャ思想に抗しているともいえます。

しかし小友先生は、コヘレトの抗する黙示思想を、紀元前164年頃成立の「ダニエル書」と特定しています。「聖書セミナー№20『コヘレトの言葉』の謎を解く」は、小友先生の2011年の講演集をまとめたものですが、この中で「コヘレト書とダニエル書を比較した場合、偶然と見るにはあまりにできすぎた一致が両者にある。コヘレト書はダニエル書を知っており、その黙示的典型表現を用い、それによって黙示思想を否定しているのではないだろうか。そう考えざるを得ない」(36ページ)として、ダニエル書がコヘレトの対論相手であるとしています。そうなると、コヘレト書の成立は紀元前164年以後という事になります。ただ小友先生は、この2011年段階ではまだ自信を持っての発言ではないように思えます。

今年3月に「VTJ旧約聖書注解 コヘレト書」が発刊されましたが、今回はダニエル書がコヘレト書の対論相手であることが前提として書かれており、「ダニエル書対論としてのコヘレト書」ということに自信を持っているように思えます。コヘレトの成立年代を紀元前150年ごろと特定しています。難解なコヘレト書8章1~8節を緒論で取り上げ(同書24ページ以下)、ダニエル書との酷似を指摘することによってこの注解書が始まっています。そしてこの箇所は、ダニエル書への応答として書かれているとしています。

緒論ではさらに、8章1節の「ペーシェル(解釈)」というヘブライ語を、ダニエル書の「ペシャル(解釈)」というアラム語に対応するものだとしています。ダニエル書においては「王の夢の解釈」として語られるこの「解釈」こそが、将来のことを先取って決定させてしまう「黙示思想」なのです。コヘレトはそれに対峙しているというのです。

注解本文における8章1~8節部分には次のように記されており、コヘレトが反黙示思想家であることが強調されています。

それは、ペーシェル解釈がイスラエルの伝統的な知恵的解釈を破壊し、それによって社会的な混乱が引き起こされているからではないだろうか。(中略)もし、このような終末論的解釈がまかり通るならば、ノストラダムスの大予言に懸念されるように、結果として社会混乱を引き起こすに違いない。実際、オウム真理教はハルマゲドン戦争の到来を予告して、社会不安を煽った。黙示的/終末論的な解釈は、後に初期キリスト教がそれを批判的に継承したとはいえ、伝統的な社会認識を破壊する危険を孕んでいる。それに対して、コヘレトは言葉の解釈において終末論的解釈を退け、その言葉からむしろ現実的/倫理的な意味を引き出し、現実を引き受けて社会を担う生き方を選び取ろうとしている。コヘレトは黙示的終末預言が迷い込む不幸に気づいているのである。そこに、コヘレトの黙示批判の動機があるのではなかろうか。(122~123ページ)

緒論に戻りますが、小友先生は日本におけるコヘレト研究の歴史を書かれており、そこでは西村俊昭氏について、「70年代以降のコヘレト書研究においては、西村俊昭の業績が見逃せない。西村は知恵文学の研究領域において、とりわけコヘレト書を詳細に論じた。大著『コーヘレトの言葉』注解」(2012年)はその集大成である。西村はリクールの構造主義的解釈の方法を援用し、コヘレト書を分析した結果、コヘレト書の思想構造がダニエル書と対照的であることを示した。西村の注解書では、コヘレト書の語彙が徹底的に分析され、旧約におけるコヘレト書の語彙の特殊性が見事に解き明かされた。ただし、コヘレト書の歴史的な背景については言及されず、語彙の分析に徹する点には課題が残る」としています。

しかし、小友先生は注解においても歴史的な背景について触れられており、12節の「三つよりの糸は切れにくい」を、マカバイ書における「ユダとヨナタンの二人に闘争を継続して三人目(シモン)がそれに加わるマカバイ兄弟ではないだろうか」と述べています。

興味深いのは12章の注解最後の以下の言葉です。ダニエル書のハシダイがファリサイです。

コヘレトが集めようとする共同体は、その性質において、サドカイ派とファリサイ派という体制側により形成される祭儀共同体である。すでに指摘したとおり、ヨセフスによれば、ヨナタンの時代にユダヤ教団にはサドカイ、ファリサイ、エッセネという三つの集団が存在した。それに従えば、コヘレトは反エッセネの側に立ち、体制派であるサドカイとファリサイに共通する思想を有するが、此岸的施行が強烈である点においてはサドカイ派的傾向を示していると言わざるを得ない。コヘレトはこの祭儀共同体内の体制側に与し、「集める者」として発言している。「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである」(12章13節)はコヘレト自身の結論を端的に示している。コヘレト書とダニエル書が成立した後のユダヤ教は、とりわけ新約文書がそうであるように黙示思想の全盛期と言ってよい。この思想運動はやがてユダヤ戦争という破局に向かう。コヘレトの反黙示思想は、黙示思想の暴走に歯止めをかけるという異議を有し、後の反黙示的なラビ的ユダヤ教に繋がる準備をしたと考えられるのではないか。いずれにせよ、コヘレト書はダニエル書と共に旧約文書の最終到達点と説明することができる。

小友先生はこのように、今回の注解書ではコヘレト書について、ダニエル書以後の成立ということを、自信を持って書いておられるように思えます。

(結語)私自身は、関根正雄氏に倣い、コヘレト書の成立を紀元前250年ごろと見て、その時代のギリシャ思想の「黙示思想」「無限」「勧善懲悪」に抗する書と見ているのですが、小友先生の紀元前150年ごろを成立とする今回の注解書は、とても興味深く刺激的と捉えています。いずれにせよコヘレトが、「彼岸に逃げるのでは無く、今を一生懸命生きよ」と説いていることは間違いありません。「手の及ぶようなことはどのようなことでも、力を尽くして行なうが良い。あなたが行くことになる陰府には、業も道理も知識も知恵もない。」(9章10節・聖書協会協同訳)

(なお書き)なお、新約聖書の黙示思想といえば、パウロの思想は極めて黙示思想的と言えます。この点はファリサイ派出身という影響はぬぐえなかったのでしょうか。それに比べてパウロの弟子が書いたといわれるコロサイ書は、極めて此岸的な色を持つと考えています。「さてあなたがたは、キリストと共に復活させられたのだから、上にあるものを求めなさい」(3章1節)。パウロが、復活は終末のことだとしているのに対して、コロサイ書は現在の復活を述べています。大貫隆氏は「終末論の系譜」におけるコロサイ書の項目で、「この手紙には、終末論と呼ぶに値するものは、ほとんど見当たらない」と述べています。コロサイ書は極めて此岸的な思想の書です。コヘレト書が、旧約の中で「黙示思想」に対してバランスを取っているように、コロサイ書の存在において、「パウロ書簡」全体としてのバランスを取っているようにも思えます。

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