たしか中学校か高校かの国語の教科書に部分的に載っていたと思い込んでいたが、
今回読んだのにも関わらず、考えてみればどの部分が載っていたかは思い出せないなあ。
今となって思えば、宗教がらみの話を教科書に載せるのは何かと面倒だったりするかも。
当時はそこまで社会は硬直してないか?
遠藤周作は何冊か読んでいるが、キリスト教の話を読むと、この人の心理的な実話なんだろうなと思って
いつも心が痛い。
宗教を(とりわけ一神教を)信じる利点は、わたしは安心立命を得られる可能性があるということだと思うが、
そこで葛藤があるとより一層辛い。宗教は、信じる者にとっては心の土台だろうからね。
それが揺れていれば心はいつまでも安定しない。宗教は諸刃の剣というべきにやあらむ。
平均的な日本人と思われるわたしは、何か宗教を信じているかと聞かれれば「うーん、むにょむにょ……」と
いうしかないが、しかし自分の心に強固に根を張っているものがあることは否定しない。
一番簡単な言葉でいうとアニミズムということになろう。自然物に宿る精霊。
だから神社にはシンパシーを感じるし、日本の神道と仏教はもう習合していると思うので、
お寺にも仏教の教義なんか一切意識することなく行っている。
神道は「穢れ・祓い」、仏教は「慈悲」、これだけ覚えればいいと思っている。
要は何か大きなものがあると感じるということね。
そのユルさからすると、やはりキリスト教をはじめとする一神教の世界はなかなかに異質だ。
「わたしたちが日本に根付いたといって喜んだキリスト教は、あれはキリスト教じゃなかった」
と、転び伴天連のフェレイラ師が語る部分があるけれども、ほんとにね。
隣人との間だって全ての情報をそのまま伝えることは不可能であるのに、
時間的にも空間的にも非常に大きな差異がある状況で、しかも信仰という見せることの出来ない事物を
正確に伝達するなんて……
そこでつまづくのは、やはりそれが一神教だから。わたしにすれば不要だと思えるほどに厳密さを求めるから。
ギリシャ・ローマの神々なんか見てみい、あらゆるところで土着の神々とくっついとるわ。
その方が平和だと思うんだよね。どうせ厳密に正確な伝達が不可能ならば、
それらしきものとして育って何がいけない?
迫害されたら踏み絵も踏めばいいんだ。信仰否定だってすればいいんだ。
神が本当にいると信じているなら、自分と神の繋がりを本当に信じるのなら、
口で何を言っても本心で神を信じていれば、神に見捨てられたりはしないじゃないか。
嘘も方便という言葉もある。……仏教に。
でも実際のところは、信じているものを否定されたら即座に心は硬化する。
そういう経験もある。やはり“信じるもの”は文字通り聖域で、決して土足で踏み荒らされたくはない場所。
世界には多種多様な宗教があるけれど「あなたもOK、わたしもOK」じゃ何故いけないんだろうと思う。
と言っても、頭ではそう思えても、実際に身近に別な宗教を持つ人がいたら思っているよりはるかに
煙たい存在になるだろうな。大音量の街角の宗教広報者にも軽い憎しみを抱くくらいだから。
理想と現実の乖離は激しい。
ただ、フランスにおいてイスラム教徒の女子学生がスカーフ着用を禁じられたニュースを見て、
……色々な立場、考え方はあるだろうけれども、生まれてから今まで守るべき法として身についてきたものを、
また別な法律によって禁止されるのは大変に辛いことだろうなと思った。
ということは当然、十字架のネックレスや十字架モチーフも着用禁止ですよね?
しかもキリスト教徒にとっての十字架と、イスラム教徒にとってもスカーフは、その重さという意味において
全く違うものであろうのに。
日本においてイスラム教におけるスカーフの存在に似たものを考えても思いつかない。
あえて言えば、下着姿で歩けというのを強要されることに等しいと想像する。
なんかだいぶダラダラ。
今回読んだのにも関わらず、考えてみればどの部分が載っていたかは思い出せないなあ。
今となって思えば、宗教がらみの話を教科書に載せるのは何かと面倒だったりするかも。
当時はそこまで社会は硬直してないか?
遠藤周作は何冊か読んでいるが、キリスト教の話を読むと、この人の心理的な実話なんだろうなと思って
いつも心が痛い。
宗教を(とりわけ一神教を)信じる利点は、わたしは安心立命を得られる可能性があるということだと思うが、
そこで葛藤があるとより一層辛い。宗教は、信じる者にとっては心の土台だろうからね。
それが揺れていれば心はいつまでも安定しない。宗教は諸刃の剣というべきにやあらむ。
平均的な日本人と思われるわたしは、何か宗教を信じているかと聞かれれば「うーん、むにょむにょ……」と
いうしかないが、しかし自分の心に強固に根を張っているものがあることは否定しない。
一番簡単な言葉でいうとアニミズムということになろう。自然物に宿る精霊。
だから神社にはシンパシーを感じるし、日本の神道と仏教はもう習合していると思うので、
お寺にも仏教の教義なんか一切意識することなく行っている。
神道は「穢れ・祓い」、仏教は「慈悲」、これだけ覚えればいいと思っている。
要は何か大きなものがあると感じるということね。
そのユルさからすると、やはりキリスト教をはじめとする一神教の世界はなかなかに異質だ。
「わたしたちが日本に根付いたといって喜んだキリスト教は、あれはキリスト教じゃなかった」
と、転び伴天連のフェレイラ師が語る部分があるけれども、ほんとにね。
隣人との間だって全ての情報をそのまま伝えることは不可能であるのに、
時間的にも空間的にも非常に大きな差異がある状況で、しかも信仰という見せることの出来ない事物を
正確に伝達するなんて……
そこでつまづくのは、やはりそれが一神教だから。わたしにすれば不要だと思えるほどに厳密さを求めるから。
ギリシャ・ローマの神々なんか見てみい、あらゆるところで土着の神々とくっついとるわ。
その方が平和だと思うんだよね。どうせ厳密に正確な伝達が不可能ならば、
それらしきものとして育って何がいけない?
迫害されたら踏み絵も踏めばいいんだ。信仰否定だってすればいいんだ。
神が本当にいると信じているなら、自分と神の繋がりを本当に信じるのなら、
口で何を言っても本心で神を信じていれば、神に見捨てられたりはしないじゃないか。
嘘も方便という言葉もある。……仏教に。
でも実際のところは、信じているものを否定されたら即座に心は硬化する。
そういう経験もある。やはり“信じるもの”は文字通り聖域で、決して土足で踏み荒らされたくはない場所。
世界には多種多様な宗教があるけれど「あなたもOK、わたしもOK」じゃ何故いけないんだろうと思う。
と言っても、頭ではそう思えても、実際に身近に別な宗教を持つ人がいたら思っているよりはるかに
煙たい存在になるだろうな。大音量の街角の宗教広報者にも軽い憎しみを抱くくらいだから。
理想と現実の乖離は激しい。
ただ、フランスにおいてイスラム教徒の女子学生がスカーフ着用を禁じられたニュースを見て、
……色々な立場、考え方はあるだろうけれども、生まれてから今まで守るべき法として身についてきたものを、
また別な法律によって禁止されるのは大変に辛いことだろうなと思った。
ということは当然、十字架のネックレスや十字架モチーフも着用禁止ですよね?
しかもキリスト教徒にとっての十字架と、イスラム教徒にとってもスカーフは、その重さという意味において
全く違うものであろうのに。
日本においてイスラム教におけるスカーフの存在に似たものを考えても思いつかない。
あえて言えば、下着姿で歩けというのを強要されることに等しいと想像する。
なんかだいぶダラダラ。
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