辻邦生、すぐ隣にいるような、非常に近く感じる作家なのだが(まだ三作しか読んでないが……)、
今回は(も?)不満がちらほらあった。
なんといっても熟字訓が!わたしは過剰な熟字訓が嫌いだ。とても。
いや、使いたくなる気持ちはわかる。日本語って、文字と喋り言葉には乖離がある。
文章というものは基本的に「読むもの」だが、耳で聞いた時、口に出した時を考えて書くのは
決して悪いことではない。むしろ大事だと思う。
それに加えて、歴史ものだと、出来れば「やまとことば」を使いたいという意識も働くだろうし。
だから、森羅万象と書いて「いきとしいけるもの」とルビをふるのは、
……まああまり推奨したくないけれども、辻邦生がそう書きたいなら仕方ない。
すごく大事な言葉だし、書き手としてそこは譲れないんだろうと。
しかしだからといって、熟字訓が一ページに何箇所も何箇所も出て来るとなあ……。
新院が歌による政治(まつりごと)を始められるとは、この世の価値(かちまけ)や
秩序(ととのい)の上に、こうした歌の世界が置かれ、人々の精神(こころ)が
そこに実在(まこと)の場(ありか)として生きる、という意味なのであった。
(作中より)
うーむ。このくらいになると、どうにもイヤですねえ。
政治=まつりごと、精神=こころ、あたりはそれほど気にならないが、価値をかちまけと
読ませたり、実在をまことと読ませるのは、ちょっと過剰なのではないかと思う。
わかるよ。たしかに、漢字の喚起するイメージというのも捨てがたい。
表音文字では絶対に表せないものが、漢字にはある。
が、やはり熟字訓は、緊急避難的な、多用するのはズルイ使い方だという気がする。
それを多用した文章は、品が悪いというか、安易。
音を大事にしたいのなら、ひらがなの不自由さを耐えるしかない。
何年か前のことになるが、わたしは「月のしずく」という歌の歌詞がすごく気持ち悪かった。
「匂艶で、”にじいろ”かあああっ!」と悶えていた。曲が良かっただけに……いや、
歌詞自体も、変なひらがなを当てなければそこそこ好きだったのに……
余計なことだが、当然「海と書いて”まりん”と読ませる」式の、
昨今のワケノワカラヌ人名も大嫌いである。何とかならんか。
もう一つの不満は、語り手が何人も変わるところ。
他人に主人公を語らせるのは小説の手法としてアリだけれども、
この作品の場合、意味なく分散しすぎではないだろうか。
その4,5人の語り手は、キャラクターとしての性格が偏っている。(女性二人は除く)
みんな似たように思えてしまうのだ。佐藤憲康、西住、寂然、寂念。
狂言回しの役どころの秋実も含めて、西行への見方、立場が似ているので、
何人出しても似たようなことになってしまう。同じ方向から光を当てているようなもの。
色々な人に語らせることで、西行の姿を立体的に描くのがこういう手法の勘所だと思うのに、
それが出来ていない。全然立場が違う人に語らせたら良かったのに。
あと、もし他人に語らせるのなら、西行自身が語り手になるべきではないのではないか。
偏狭な考え方かもしれないが、それをするんだったら、最初から一人称でもいいと思った。
せめて西行本人が語るのは、ほんとに大事な一ヶ所だけにするとか。
これは苦労して書いた話なんだろうな。
74歳で死んだ作家が、68歳で書いた作品だ。
たしか四十代で書いた「春の戴冠」は、もう言葉を盛り込んで盛り込んで……
もう少し削った方がいいのでは、と思うほど言葉に溢れていた。
それと比べれば「西行花伝」はずいぶんすっきりはしている。――まあ、言葉を連ねるタイプの人らしく、
根本的には修飾の文章だけれども。でも、少し枯れる方向に来ている。
ただ、ちょっと考えすぎたかなあ……という印象も否めない。
すっきりまとめるために、色々手を入れたのに、「箱」の大きさと微妙に合わない印象。
結局、あまり作品世界に入り込めなかった。
……でも、好きです。辻邦生。
ああ、それから。
非常に入り組んだ政治的状況を、「語り」で書くのはまどろっこしいですね。
それは主に、保元の乱の部分のことだけれども。
保元の乱について、細かく書いてある本を読んだことがあって、それが面白かった。学者の本。
「保元の乱・平治の乱」(河内祥輔)
人の動きを、丹念に文献をあさって追っている。ちょっとした推理ものっぽい。お薦め。
今回は(も?)不満がちらほらあった。
なんといっても熟字訓が!わたしは過剰な熟字訓が嫌いだ。とても。
いや、使いたくなる気持ちはわかる。日本語って、文字と喋り言葉には乖離がある。
文章というものは基本的に「読むもの」だが、耳で聞いた時、口に出した時を考えて書くのは
決して悪いことではない。むしろ大事だと思う。
それに加えて、歴史ものだと、出来れば「やまとことば」を使いたいという意識も働くだろうし。
だから、森羅万象と書いて「いきとしいけるもの」とルビをふるのは、
……まああまり推奨したくないけれども、辻邦生がそう書きたいなら仕方ない。
すごく大事な言葉だし、書き手としてそこは譲れないんだろうと。
しかしだからといって、熟字訓が一ページに何箇所も何箇所も出て来るとなあ……。
新院が歌による政治(まつりごと)を始められるとは、この世の価値(かちまけ)や
秩序(ととのい)の上に、こうした歌の世界が置かれ、人々の精神(こころ)が
そこに実在(まこと)の場(ありか)として生きる、という意味なのであった。
(作中より)
うーむ。このくらいになると、どうにもイヤですねえ。
政治=まつりごと、精神=こころ、あたりはそれほど気にならないが、価値をかちまけと
読ませたり、実在をまことと読ませるのは、ちょっと過剰なのではないかと思う。
わかるよ。たしかに、漢字の喚起するイメージというのも捨てがたい。
表音文字では絶対に表せないものが、漢字にはある。
が、やはり熟字訓は、緊急避難的な、多用するのはズルイ使い方だという気がする。
それを多用した文章は、品が悪いというか、安易。
音を大事にしたいのなら、ひらがなの不自由さを耐えるしかない。
何年か前のことになるが、わたしは「月のしずく」という歌の歌詞がすごく気持ち悪かった。
「匂艶で、”にじいろ”かあああっ!」と悶えていた。曲が良かっただけに……いや、
歌詞自体も、変なひらがなを当てなければそこそこ好きだったのに……
余計なことだが、当然「海と書いて”まりん”と読ませる」式の、
昨今のワケノワカラヌ人名も大嫌いである。何とかならんか。
もう一つの不満は、語り手が何人も変わるところ。
他人に主人公を語らせるのは小説の手法としてアリだけれども、
この作品の場合、意味なく分散しすぎではないだろうか。
その4,5人の語り手は、キャラクターとしての性格が偏っている。(女性二人は除く)
みんな似たように思えてしまうのだ。佐藤憲康、西住、寂然、寂念。
狂言回しの役どころの秋実も含めて、西行への見方、立場が似ているので、
何人出しても似たようなことになってしまう。同じ方向から光を当てているようなもの。
色々な人に語らせることで、西行の姿を立体的に描くのがこういう手法の勘所だと思うのに、
それが出来ていない。全然立場が違う人に語らせたら良かったのに。
あと、もし他人に語らせるのなら、西行自身が語り手になるべきではないのではないか。
偏狭な考え方かもしれないが、それをするんだったら、最初から一人称でもいいと思った。
せめて西行本人が語るのは、ほんとに大事な一ヶ所だけにするとか。
これは苦労して書いた話なんだろうな。
74歳で死んだ作家が、68歳で書いた作品だ。
たしか四十代で書いた「春の戴冠」は、もう言葉を盛り込んで盛り込んで……
もう少し削った方がいいのでは、と思うほど言葉に溢れていた。
それと比べれば「西行花伝」はずいぶんすっきりはしている。――まあ、言葉を連ねるタイプの人らしく、
根本的には修飾の文章だけれども。でも、少し枯れる方向に来ている。
ただ、ちょっと考えすぎたかなあ……という印象も否めない。
すっきりまとめるために、色々手を入れたのに、「箱」の大きさと微妙に合わない印象。
結局、あまり作品世界に入り込めなかった。
……でも、好きです。辻邦生。
ああ、それから。
非常に入り組んだ政治的状況を、「語り」で書くのはまどろっこしいですね。
それは主に、保元の乱の部分のことだけれども。
保元の乱について、細かく書いてある本を読んだことがあって、それが面白かった。学者の本。
「保元の乱・平治の乱」(河内祥輔)
人の動きを、丹念に文献をあさって追っている。ちょっとした推理ものっぽい。お薦め。
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