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◇ 小堀杏奴「不遇の人 森鴎外   日本語のモラルと美」(但し一部分)

2012年06月25日 | ◇読んだ本の感想。
いやこれは……久々につまらな過ぎて大変ムカついた本。

そもそも「不遇の人 森鴎外」というタイトルの本は、「あの森鴎外がどういう具合に不遇なのか」
という興味を満たすために読むものですよね?そうですよね?
……まあ寄せ集めの随筆集だから、この1冊20篇の随筆のうち、「不遇の人 森鴎外」が
5篇分しかなくてもそれは仕方がない。随筆の中の一番興味を引きそうな一篇を
タイトルに持って来るのは普通のことだ。

だが。その5篇を読んでも、ちょっとも鴎外が不遇じゃないんですよ。
この随筆で彼女が何を延々と書いているかというと、
「父の使ったこの言葉が素晴らしいわ」
「私の子供時代の思い出には、父とのこんな素敵な出来事があったのよ」
「谷沢永一とかいう人が父の悪口を書いてるわ。キィーッ。許せない。
亡き人は反論も出来ないのに!売名行為は止めてよ!」
「ほら、父の作品にこんなことが書いてあったわ。私が考えていることと同じじゃない!」
「(父を崇拝する)荷風先生や太宰先生はさすがだわ」
……ワタクシ的に意訳をすれば、だいたいこんなもん。
こんなことばっかり読まされる身にもなってみろ。

せっかく鴎外の娘というアドバンテージがあるのなら、家庭でしか見せないような
鴎外苦悩の横顔、的なものを期待するだろう。
もっとも鴎外が死んだのは杏奴が13歳くらいだから、そこまで洞察は出来ないだろうけど。
その上、森家の子供たちはおしなべて父をひたすら崇拝するだけで、
父への客観的な視点は皆無だし。(於菟は保留。まだ読んでないので。)

前に読んだ「晩年の父」はここまでヒドくはなかったが……。
もっともソレとコレの出版年は相当に離れている。
「晩年の父」は20代で書いており、「不遇の人」は70歳過ぎで書いているのだと思う。
いるよね、こういう人。と思った。話の流れがわけわからないほどとりとめのないおばあさん……
思いついたことをずらずら書いているだけ。読むのが苦痛だった。


※※※※※※※※※※※※


そしてこの本の副題は「日本語のモラルと美」なんですけれどもね。



……………………。



ワタシはアンタに日本語云々と言って欲しくないぞ。
日本語のモラルについて語りたいなら、まずアンタの文章の中の、
エクスクラメーションマークの意味ない多用を止めろ!
かぎかっこの有り得ない多用を止めろ!
「へー、ひと頃流行った半疑問形のハシリは小堀杏奴だったのか~」と思わず感心してしまいそうになる
文章途中のクエスチョンマークの多用を止めろ!

もう気になって気になって。
そういう文章で、昨今の言葉がどうのこうのとグチグチ言われてもね……
自称「芸術家のはしくれ」だそうだが、……この人がどういった意味での芸術家なのか、
誰かよくわかっている人に、懇切丁寧に教えて欲しいキモチでいっぱいデス。


日本語について、何度も彼女が書く不満は、新漢字、新仮名づかひについてである。

まあそれはね。
時代の流れで仕方ない部分もある。
ずっと旧漢字を使っていた彼女が文句を言いたい気持ちも仕方ないし、
旧漢字、旧仮名遣いで育って来なかった我々が、新漢字憎しの彼女に同調出来ないのも仕方ないことだ。

だが、全てをセンスだけで切り捨てられてもなあ……。
多少とも日本語の正しい感覚を持っている人なら、新漢字のおぞましさには我慢出来ないであろう!
……極端に言えばこういうことを言っているだけなので……。
もっと言えば、その後に「パッパもそう言ってるわ!」もくっつく感じなので、げんなりする。

そもそもわたしは新仮名遣いについては高島俊男の著作でオナカいっぱいなんだよ。
彼も旧字体派。だが彼は中国文学者だけに漢字についての知識も豊富だし、
これこれこういうわけだから厭なのだ、という根拠もちゃんと示される。
その上で読み手は、うーんなるほど、と思ったり、いや、それは厳しすぎないかと思ったり
それなりの思考の元に読める。

しかし小堀杏奴の場合はそういう論拠がないからなあ……
言い散らしているだけ。はー、左様だっか、と呆然と呟くことしかできない。



ちなみに、さすがにわたしでもモリオウガイを森鴎外と書くのは可哀そうな気がする。
自分としても大変にキモチワルイ。字が違えば別人だもの。
でも旧字体で書いて機種依存文字になるのも、字体がくずれるのも嫌なんだよね。
これはパソコン内に「オウガイ」のちゃんとした字を置いておくべきだと思うが。


※※※※※※※※※※※※


森家の子供たちの著作を読むたび思うんですけど。
彼らは鴎外教の信者たち。もっと言えば狂信者たち。神様ですよね。ここまで来ると。
鴎外も罪つくりだなあ……。

彼もけっこう親バカっぽい感じの人だから、死後に子供たちの書いた著作をあの世で読んで、
自分に対する子供たちの愛に感涙しているかもしれないけれど。
でもせめて文学者としては「こんなものを書いて……」と苦い表情を浮かべていて欲しい。

先に時代の流れと言ったが。
今は漱石・鴎外と並び称される、押しも押されもせぬ文豪だけれども、
杏奴が若かりし頃はそこまで鴎外の評価は高くなかったのかもしれない。
毀誉褒貶も激しかったのかもしれない。……鴎外に対する毀誉褒貶なら、
毀貶が2割、誉褒が8割といったところではないかと想像するけどね。
ただこの想像も、鴎外が文学史上の存在に確定した後のわたしのイメージだから、当時はわからない。

でもそういうイメージからすると、ちょっと何か言われただけで
杏奴が「お父様の悪口は許せない!」と金切り声を上げるのは……
あんたはどこまでを求めている?と呆れる。

歴史上の人物だから、偉大さが確定しているから、それゆえにこそ批判もされるでしょう。
そんなこと当然でしょう。特に鴎外は文学者としては異例なくらい世間的にも偉くなり、
順風満帆に見える人生だったしね。
これが全く無名の人に対してなら「亡くなった人への陰口は……」と
たしなめるのはアリですが、それこそ鴎外ほどの人に対して、批判・非難がゼロなんて有り得ない。
そんなこと言ったら文学研究なんぞというものは存在できないじゃないですか。
……というようなことを、オトナになった小堀杏奴は考えなかったかね?

だから宗教だというのだ。
カミサマに対する批判は絶対ゆるさない。カミサマの言うことは何でも素晴らしい。
森茉莉の著作にしても、森類が書いたものにしても、常に賛美の視線だけで、
“世間の中の森鴎外”というような視点は見かけない。
ま、そういうのは赤の他人がなんぼでも書けばいいもんかもしれないけど、
ここまで父親べったりのスタンスは気持ち悪いよなあ。

最初に読んだ森茉莉があまりにもファザコンなので、これを見ていた他の子供たちは
むしろ冷静になるのではないかと思いきや、杏奴も、男の子である類さえトーンが同じだもんね。
本作なんか森茉莉の晩年の口吻とそっくりでコワイくらいです。
鴎外の、家庭内でのカリスマ性はおそろしいですな。



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全部は読めなかった。読むのがあまりにも苦痛で。3分の1くらいか。
次は於菟の著作を読む予定。この人は少し毛色が違うのではないかと期待。
他の子供たちが後妻の子であるのに対して、この人は先妻の子であり、多分鴎外へのスタンスも違う筈。
医学に進んだ人だから、理系の冷静さも持っていると思うし。
……しかしこれで彼も鴎外べったりだったら、その時こそオソロシイですな。





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