私が日記を書くのが嫌いなのは、ノートが汚れてゆく気がするから。
書けば書くほど、ノートが汚れてゆく。
字が下手だから?それもある。
でも本当は、自分のことなんて書きたくないという気持ちがそうさせているのかもしれない。
自分の考えている事は自分が一番よくわかっているから、わざわざ書くまでもない。
私は知りたい。
他の人たちがどんな風に生きて来たのか、
他の人たちがどんな会話をしているのか、
他の人たちがそんな時やあんな時どう思うのかを。
だけど、私には知る由がない。
なぜなら そういう疑問を持った時、他の人たちはどういう言葉で質問しているのかを知らないからだ。
質問ができないせいで、最初は近寄ってきてくれた友達もすぐに居なくなり、いつの日にか友達がいなくなる。本当は聞きたいことは沢山あるし、思っていること考えていることは沢山ある。でもそれをどう伝えたら嫌われないかが分からない。
そしてこの国では、友達がいない人の友達になるようなもの好きは非常に数少ない。つまり友達がいない人には永遠に友達ができないのだ。
だから自ら精神科のドアを叩いて「普通とは何か?人と話すとはどういうことか」を学びに行ったが、精神科医ほど話ずらく人の気持ちが分からない人はいないと気づいた。彼らとの会話は非常に疲れるし、いつもエピソードを付け加えないと信じてくれないほど懐疑的だった。
彼らは自分から湧き出る真の考えを教えてもくれないくせに、こちらの話ばかり聞きたがった。
酷い時には、過去のエピソードを聴いてその時どう思ったか?を聴くのだ。そんなのは過去に戻るしかない。過去に戻ることは私にとって非常に不幸せなことだった。彼らは全く未来の話をせず過去の話ばかり聞くので心が暗くなる。
彼らの手法は全て人をバカにする心から作られた手法だったし、こちらの歴史に耳をかたむけないばかりか、こちらの世界を否定する言葉しかくれなかった。
私が話したくなくなったから話さずにいると、きっと彼らの上司には絶対にしないであろう多くの失礼なことをしてきた。
更には、私は幼少から人は人、自分は自分十人十色をあたりまえと思って生きてきたのに、わかっていないことにされた。
私からしたら、「私は~と思う。それは私の考えです」とわざわざ付け加えないと分からない人の方が、公私混同しやすい人であろうと思う。
更には、私は実質的な不安しか持っていないのに、漠然な不安を持っていることにされたし、私の世界から生まれた考え方とそれまで育ててくれた家族の愛情という見えないものを否定された。
精神科医とは、そうやってお金を取ることが仕事らしい。
彼らの持っている知識は全く別の文化で作られた個人的なものなのに、なぜそれが正解だと思えるのだろうか?
お金と時間をかけて満員電車でぎゅうぎゅう詰めになって通院しても、なかなか私の本当に悪い部分見破ってはくれなかったし、"普通の人はこんな時にはこうするものだ”ということも、使える知恵も、何も教えてもくれなかった。
精神医学は、どうやら科学に基づいたものが殆ど無いようだったし、なによりも有意義な質問を全然してくれなかったことが一番残念だった。
普通の人の会話内容を知らない私でも、普通そこは疑問に思うはずと思うところを彼らは全く深く掘り下げなかった。
「人との関わりなんて煩わしい」と言っていたのは母や兄なのに、一番の寂しがり屋の私にだけなぜか友達ができなかった。
作り方はもっとわからない。教わっていないからだ。
だいたい、私は訳も分からないまま嫌われることが多かったから、変な質問をしたりしたらまた嫌われるかもしれないじゃないか。
ある日突然、アルバイト先のおばさんたちが明らかに私を見る目が変わり、 ”別モノ” 扱いしたことがあった。もちろん私の居ない所で私についての悪口を言い合ったに違いない。
そうであろうことは簡単に想像できるが、理由を聞く隙もなく向こうから言われることもなく、なぜなのか分からないまま居づらくなって辞めるしかなかった。
それもこれも、私の家庭が少々変だったからかもしれない。
アルバイトをはじめてから僅かながらも、恥ずかしくて言えなかった挨拶や感謝の気持ちを言葉にできるようになった。
もちろん謝ることもある。でもこの地域特有なのかなんなのか分からないが、謝っても不機嫌なままの人が多かった。
そうなると、人の機嫌は時間の問題だからあとは待つしかない。やってしまったことは謝るしかないからだった。
もちろん反省はしているので、同じ過ちは繰り返さない。それでも人は信用できないのだろう。まぁ、謝らなきゃいけない立場の人間が信用されないのは仕方がないことだ。
私は小さなころから自分の内側の全てを変えながら生きて来たので、反省&繰り返さないことは比較的簡単にできた。
自分を変えるときは、形から入るのが一番の近道なのだ。
友達を変えたり、体の洗う順番を変えたり、嫌いなものを好きだと思い込んでみたり、今までやらなかったことをやったり、癖を治せばいいだけだからだ。(ちなみに私はかなりのヘビースモーカーだったが、ある日突然禁煙してから13年経っている。お酒も、好きからはじまって飲みすぎて暇すぎて依存症になったこともあったが、一生分飲んだのだろうか?急に飲めなくなった。)
もちろん、何かをやめたり始めたりすることは容易なことではない。
良き理解者がいない私のような人間は特に自前の精神力が必要だったし、親とかに否定されながらも心を鬼にしてやらなければならないし、眠れなくてもとりあえずは目を閉じるし、発狂したくても暴れない。(ここで発狂とか暴れるという言葉が出てくる理由としては、姉がすぐ発狂して暴れる人だったからだ。)
ただそうしていれば積み重なるからものだ。ただそうやっていればいいだけ。
そうやってとにかく”我慢”だけが身についていった。
--それにしても、どうも自分には何かが足りないらしい。でも誰もそれを教えてくれることはない。
思えば、私は幼少時代からとても引っ込み思案で苦労した。
他の人たちに話しかけるセリフを教わっていたなら、まだ話しかけられたかもしれないのに、それ(セリフ)を教えてくれる人がいなかった。
家の中では誰も朝の挨拶をしなかったし、親から子供に対して「ありがとう」とか「ごめんね」と言われたことが殆どない。
挨拶するなんてのは(大袈裟にではなく本気で)ドラマか漫画の中での話だと思っていた。
いざ社会に出ても恥ずかしくて言えない気持ちを抑えて頑張って言った。
しかし感謝の言葉は、心から”ありがたい”と思ったとしても、なかなか「ありがとう」と言うのは恥ずかしくて恥ずかしくて言えなかった。
しかしそのままで生きてゆけるわけもなく、セリフだと思って言うようにするしかない。
それでも人というものは不思議な生き物で、心から悪いなぁと思って謝っても許してはくれない。むしろ益々 責められたりする。
むしろ、常識的にセリフとして謝ったときの方が許してくれるのだ。
以前付き合ったナルシストな彼氏もそうだった。
心から悪いと思って謝っても、もっと謝れという感じだった。髪をひっぱられたりもした。
私は私が悪くないことは分かってる。ただみんな、自分が優位に立ちたくて仕方がないのだろう。
そういう時は黙って従っているフリをしてこっそり逃げるのがいちばんだ。
別にこっちが好きで付き合いはじめたわけじゃないから、いつも別れるのは簡単だった。
勿論、向こうが私を好きになったから付き合いはじめたわけでもないだろう。好きだったらそういうことはしないはずだから。
男は身勝手で、金持ちの男を選ぶ女を軽蔑するくせに、顔だけで女を選ぶことを正当化する。また、誰とでも寝る女をバカにするくせに、いざとなるとそんな女を抱くのだ。打算的な女を嫌う癖に、「一応形だけでも財布を出してくれる女性がいい」と言う。
身勝手な人というのは、ちょっと頭が足りないのだと思う。
物を公平に見られない人は、頭が足りないし優越感を持ちたがるものなのだ。
優越感とは、”今・自分さえよければいい”という非常に短絡的な考え(感情)からくる、独りよがりのワガママである。
しかしどういう訳か世の中は、どんな世代であろうとも、そのワガママに沿って社会ができあがってゆくのだ。
日本の学校のクラスでいじめが発生する仕組みと、日本で警察側が自分たちの優位になる証拠しか出してこない仕組みは同じであるし、NATO vs プーチン大統領の報道の仕方もそうだ。
白人優位社会や男性優位社会などは、その典型的な例であろう。
本当に公平な世界を創ろうとしたこともないくせに、殆どの人間は「そんな世界はありえない」というだろうし、あっては困ると言うだろう。
創ってみればいいのに。。。
でも失敗するだろうことは容易に想像できる。
なぜなら、真の意味で公平にものを見られる人が少ないからだ。ある人から見た公平は公平ではなく、ある人から見た正義は正義ではないかもしれない。
AIを判事にしたとしても、AIは学習してしまうから同じだし。そういう時はある意味 学習しないAIの方が優秀だろう。
人間のいう事を容易に聴かない動物の方が、動物的には優秀であるのと同じこと。
もしもこの世に、真の意味で公平にものを見られる人がいたなら、その人は非常に気持ちがはがゆくて苦しいだろう。
そしてその人は何もできないであろう。
人は、思い込みによって”凄い人”になれるのだから。
夢を掴むとはよく言ったもので、生きたいように生きることは夢の中で生きるようなもの。
夢から醒めてしまった人は、夢は見られても二度と夢の中には入れないのだ。