縄文人の志葉楽さんのブログ

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●出口王仁三郎と植芝盛平と五井昌久の繋がり

2020年12月01日 17時29分46秒 | ●神道
●出口王仁三郎と植芝盛平と五井昌久の繋がり
★出口王仁三郎の「虎穴問答」: 不二草紙 本日のおススメ  2012/12/08
http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2012/12/post-fabd.html
出口王仁三郎の「虎穴問答」
http://fuji-san.txt-nifty.com/photos/uncategorized/2012/12/09/ms.jpeg
昭和10年12月8日の号外
今日、こんなツイートをしました。
今日は歴史的特異日。
成道会(お釈迦様がお悟りを開いた日)。
第二次大本事件。
真珠湾攻撃。
力道山刺される。
ジョン・レノン暗殺。
もんじゅ事故。
第二次大本事件。
毎年この日は、特異日に関したことを書いています。今日は、第二次大本事件に関わることを書きましょう。

★王仁三郎が暗示した「麻の仕組み」  アナナイ教について
http://amanakuni.net/pon/ananai.html
日本、大本、神道からは、 きっても切れないのが大麻だ。
コメント
燗酒屋燗ちゃん
素敵ですね!素晴らしい!
燗酒屋燗ちゃん
昭和23年1月28日

●宗教法人「大本」 http://www.oomoto.or.jp/
教えと教典、組織と活動、歴史、出口なお、出口王仁三郎の紹介等。
芸術家であり宗教家であり霊能者。

◆熊野水軍(くまのすいぐん)   熊野が持った水上兵力
https://www.mikumano.net/keyword/suigun.html
 山がちの地形で、ほとんどが山林に覆われ、平地はほとんどなく、山からいきなり海になるような地形の所が多い熊野は、物資を陸上で運ぶのは不便であり、また豊富な船材と良港に恵まれた地域であったので海上交通が発達しました。
 そのため水上兵力が大きな力をもつようになり、「熊野水軍」と呼ばれる人々が海上を舞台に活躍するようになりました(「熊野海賊」とも呼ばれました)。
 熊野水軍は紀伊半島南部の各地の浦々を拠点として活動し、瀬戸内海の制海権を握りました。熊野水軍を統括したのは、熊野三山の実際上の統括者である熊野別当(くまのべっとう)です。
  
◆サンロード青森   鬼門金神
https://www.nebuta.jp/archive/nebuta/2006sunroad.html
作: 千葉 作龍(きもん・だいこんじん)
 陰陽道の世界では、古くから方位の吉凶が重んじられている。
中でも京の都から見た、東北の方位は「鬼門」と称せられ古くから忌み嫌われてきた。
東北は「艮」と呼ばれ鬼の住む地と恐れられ、度重なる蝦夷征伐はそれを物語っている。
この「艮」の方位を司る神は、「鬼門大金神」といわれ東北地方には鬼を崇拝する伝説や風習が今も伝わっている。
ねぶた祭は、坂上田村麿の蝦夷征伐に由来するという説もあるが、昨今の東北人の活躍はすさまじく真に鬼門が解き放たれ世界に羽ばたいている感がある。
このねぶたの場面は、「鬼門」を打ち破る「大金神」の勇姿である。

◆熊野水軍のお話 | お知らせ | 紀南白浜の歴史ある観光名所  2018.11.20
http://sandanbeki.com/news/detail.php?id=14
熊野水軍は源氏と平家の時代、紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした水軍。熊野海賊とも言われています。瀬戸内海の制海権を握り、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍した事で知られています。
「源平合戦」で源氏に加勢した熊野水軍
史実で有名な「源平合戦」。その歴史ロマンの一片を三段壁で感じることができます。源氏と平家が激しい戦いを繰り広げていたころ、熊野水軍は、熊野別当湛増(武蔵坊弁慶の父)に率いられて源平合戦に参戦し、源氏の大勝利に多大な貢献をしたと言われています。
  
◆湛増(たんぞう、大治5年(1130年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%9B%E5%A2%97
湛増(たんぞう、大治5年(1130年) - 建久9年5月8日(1198年6月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧(法躰)で、21代熊野別当である。18代別当湛快の次子。源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当たる(『延慶本平家物語』)。「たつたはらの女房」を湛増の実母とし、熊野別当家の中に、ある種の愛憎劇を想定する説があるが、これは実証をともなわない説である。湛増の子は息子が7人、娘が5人であり(「熊野別当代々次第」)、嫡男の湛顕は1155年頃に生まれ1202年頃に死去したと考えられる。伝承では武蔵坊弁慶の父としても描かれている。
  
コメント
合気道は大本教が多分に含まれています
コメント
いや
いや
合気道には
白光が多分に含まれています
植芝翁と五井昌久の交流
   
★植芝盛平あじまりかん友の会
https://ajimarikan.com/tag/%E6%A4%8D%E8%8A%9D%E7%9B%9B%E5%B9%B3/
「あじまりかん」は合気道と同じ
2018年3月13日本当の話あじまりかん, 一輪の秘密, 佐藤定吉, 合気道, 外伝,
本当の話:「あじまりかん」は合気道と同じ/斎藤 敏一
作成:2018年3月13日、最終更新日:2018年5月5日
◎山蔭基央師と佐藤定吉博士のライフワークを継承する
 私は2014年頃、佐藤定吉博士の『日本とはどんな国』を丁寧に読み直すという機会を持ちました。そこには、「あじまりかん」の秘密の一端が書かれていたのです。
 それから二年余りの間「あじまりかん」を唱え続けました。その間、「あじまりかん」の言霊が常に私を導いてくれました。「あじまりかん」よりインスピレーションを与えられ、遂に二冊のあじまりかんの本が完成したのです。「あじまりかん」そのものが私に本を書かせたとしか言いようのない出来事が起こったのです。
 佐藤博士の『日本とはどんな国』の以下の一節が私に
 「あじまりかんは神の言霊である」という確信を与えました。
 「その(「あじまりかん」を唱えている時の)全体から来る霊的波長は、
 どうしても『神と人』とが一如になり、『神』が人の中から顕現する時の
 霊の響きのように受け取られる」

★合気道と宗教 (五井昌久) 2014/07/21 11:11
http://pfw41.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
神はからいによる植芝翁との対面
 先日合気道の創始者、植芝盛平翁が、東京神田の講演会場に、私を尋ねておいでになった。植芝先生には、私も以前から一度お目に掛りたいと思っていたのですが、先日光和堂から出ている合気道と云う本を見て、この方には是非お会いしたいと、改めて思ったのです。
 ところがこの想いが、数日をいでずして直ちに実現して、神田での対談になったのであります。この対談までの経過は偶然のようでいて、実に微妙なる神はからいによって進められていったのです。

★植芝盛平 - Wikipedia     https://ja.wikipedia.org/wiki/植芝盛平
植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年(明治16年)12月14日 - 1969年(昭和44年)4月26日)は、日本の武道家。合気道の創始者。合気道界では「開祖」(かいそ)と敬称される。
別名, 「開祖」、「大(翁)先生」、号「守高(もりたか)」、「常盛(つねもり)」.
職業, 武道家、合気道創始者、合気道初代道主.
身長, 156 cm (5 ft 1 in). 体重, 75 kg (165 lb)(20歳時).
子供, 植芝吉祥丸.
親戚, 井上鑑昭(甥)、植芝守央(孫)

★三重白光会館 トピックス   . 2014年8月8日(金)
http://byakko-mie.com/mbk/_topic.html
植芝盛平先生. ( 合気道 ).
五井先生が、合気道開祖の植芝盛平先生に贈られた詩です。
「神の化身」―植芝盛平翁を讃う―
「其の人は確に神の化身だ
 其の人は肉体そのまま宇宙になりきり
 自己に対する相手をもたぬ
 宇宙と一体の自分に敵はない
 其の人は当然のようにそう云い放つ
 五尺の小身
 八十路に近い肉体
 だがその人は宇宙一杯にひろがっている自分をはっきり知っている
 如何なる大兵の敵も
 どのような多数の相手も
 そのまま空になりきっている
 其の人を倒す事は出来ない
 空はそのまま天御中主
 天御中主に融けきったところから
 その人は守護神そのままの力を出だす
 この人の力はすでにすべての武を超えた
 大愛の大気のはたらき
 鋭い眼光と慈悲のまなざし
 その二つのはたらきが一つに調和し
 その人の人格となって人々の胸を打つ
 その人は正に神の化身
 大愛絶対者の御使人
 私はその人の偉大さを心に沁みて知っている    」 詩集「祈り」より

★綾部市/植芝盛平翁ゆかりの4市町で友好都市提携  2012/02/02
https://www.city.ayabe.lg.jp/hisho/shise/gaiyo/toshikoryu/teke.html
和歌山県田辺(たなべ)市、北海道遠軽(えんがる)町、綾部市、茨城県笠間(かさま)市の4市町は平成20年2月23日、合気道の創始者・植芝盛平(うえしば・もりへい)翁ゆかりのまちとして、友好都市提携を結びました。
明治16(1883)年、現在の田辺市で生まれた盛平翁は、幼いころからさまざまな武道に励み、独自の武術を習得。開拓で現在の遠軽町に住んでいた翁は、大本の出口王仁三郎氏の影響を受けて綾部へ移住。その後、東京、岩間町へと移り、昭和44(1969)年に86歳で亡くなるまで、合気道の普及に努めました。
田辺市
盛平翁は明治16(1883)年12月14日、西牟婁郡西ノ谷村(現在の田辺市元町)で生まれました。明治35(1902)年、19歳のときに幼なじみの糸川はつさんと結婚。軍隊生活を経て故郷・田辺に戻り、田辺在住の世界的博物学者、南方熊楠氏の「神社合祀反対運動」に共鳴し、同氏とともに奮闘しました。
旧田辺市では昭和44(1969)年、盛平翁に名誉市民の称号を贈りました。昭和63(1988)年には「植芝盛平翁顕彰会」を組織。国際合気道大会の招致・開催をはじめ、さまざまな顕彰事業に取り組むなど、盛平翁生誕の地を国内外に発信する活動が続けられています。

★【論説】合気道開祖 植芝盛平を世に知らしめた人々|どう出版
https://note.com/doushuppan/n/nd6107caefc36
 2020/08/27 文・ スタンレー・プラニン
本誌の前身(季刊『合気ニュース』)の編集長で、合気道史および開祖植芝盛平翁の研究をライフワークとするスタンレー・プラニンが現代の武道の現状とその役割を考察します。
※所属や肩書きは、季刊『道』に掲載当時(2006年)のものです。
皇武館時代の合気道開祖 植芝盛平(1883~1969)
植芝盛平翁の合気道が、一現代日本武道として成功を収めたのは、開祖の類いまれな技とカリスマ性に因るのはもちろんだが、それと同等に、さまざまな人の支援と歴史的背景も大きな要因だったといえる。生まれ故郷田辺市(和歌山県)の青年時代から大本教の時代、戦前の華々しい東京時代、そして合気道が海外へ発展していった戦後と、開祖を信奉する多くの人々から支援と励ましが開祖に寄せられたのである。
さらに王仁三郎は大東流を大本信者たちに教えるよう盛平に勧め、盛平は、綾部の自宅に付属した小さな道場を開く。
また、大本にとって、武道家として成功し、東京の上流階級と交流する盛平は、いってみれば宣伝媒体だった。

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