わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

すべてをありがとうと いえるようになれたら・・・

2012-09-25 09:47:35 | 癒し
この肉体というのは
光ってるんです
見える
みえないとかじゃなく
光ってるんです
このいのちが
私達のうちに
宿っているのと
おなじくらい
いやもっともっと
自然に

なぜかといえば
光というのは
神様の愛で
これこそ
私達のいのちを
生かしめている
元の元なんですから
だから光って
いない筈がないんです

光の子というのは
人間の
真性なんです
光って光って
その光を
すべての天地に
ゆきわたらせるわけです
意識するしないにかかわらず
みんな
この働きを持っているんです

光というのは
自分だけが
光ってりゃあいいと
いうもんじゃないし
またそんなことは
思いつきもしない
どこへでも
ゆくでしょう
どこにでも
およぶんですよ

太陽も
月も
星も
この
光のいのちなんです
このいのちが
光ってるんです
光のあらわれ
それが
生きとし
いけるものの
いのちなんですよ

コロンブスの
にわとりが
先か
卵が
先かって
あるでしょう
あれじゃ
ないけれど
光が先か
いのちが
先かってね
でも
光だ
いのちだ
という前に
その光を
光たらしめているものは
いのちを
いのちたらしめているものは
何かといえば
神様の深い深い愛なんです
これしかないんです

神様はもう
ずーっと人間を
思い放しなんですよ
一人一人の
いのちのなかに
その愛が
入り込んでるんです
この愛によって
人間は生きることが
できるわけ

光といのちと愛
この三つは
神様を語るのに
なくてはならぬもの
そうして
人間の真性は
この光といのちと愛の
なかにあるんです
            昭和62年2月10日


静かに
静かに
祈りをかさねて
ゆくと
神の愛に
出会う




人が生きる
辛さ
苦しさ
それを
私は
腹の底から
味わされた
味わった末に
神様の分生命
としての
人間の
真性を
知らされた
だから
私は
人間の心
のすぎゆきを
ただとがめはしない
とがめずに
光をまし加えて
神の働き手としての
あなたを
つよめる




愛というものは
絶えることなく
人間のいのちを
やしなっている
それは
明るいすなおな
ほがらかな
心となって
私達の前に
あらわれてくる




寂しい時は
寂しいままに
私をよんで下さい
神様の光を
私があなたを
抱くおもいを
世界平和の祈りのうちに
あなたのもとに
届けるでしょう





神様は
どこにいるのか
という
問いは
ずっと前から
あります
天地自然
あらゆるものの
なかに
神は
あるのです
あなたの
いのちの
なかに
神は
生きているのです
あなたは
毎日
神に
会っているのです




物も食べず
人間との
交渉も絶って
ひたすら
神様をおもう
そういう求め方も
たしかに
あるのです
けれども
現代で
みんながみんな
そんなことをしていたら
この世界は
自滅してしまいます
だから
人々のおもいを
いためず
生活をいためず
しかも
光の天地に
到らせる
世界平和の祈りが
生まれたのです

この祈りは
徹底した
感謝行
業なんか
いつのまにか
なくなっちゃう
そういう
祈りです
この光の
エレベーターに
のって下されば
それでいいのです





人間の
やさしさを
行じてゆく人
善意を行じてゆく人
しかも
なまなかな
行じ方でなくって
とらわれやこだわりから
はなれている人
そういう人が出てこなければ
嘘なのです





光の橋を
渡る
光の橋を
かけるということは
愛とやさしさを
心に生みそだてると
いうことです
親しい人々へのやさしさから
それははじまってゆきます
そうしてこのことは
ちっとも恥じることじゃない
ごく自然なことなのです





このからだ
痛みを感じても
辛くなっても
たとえ心臓が
とまろうと
すべてはみ手のなかに
あるのだという信仰を
持つことが大事なのです
この信仰を助けるのが
私なのです





祈りというものは
人を素直にさせます
はだかの心で
神様とはなすからです
これを
ずっとつづけてゆくと
無一物になります
そして
光のなかに入ってゆくのです





愛は
互いに
抱き
おもう
こころを
いうのです
神様は
ずっとずっと前から
私たちをいだいて下さっているのです





神様というのは
到るところに
みちみちているんです
バーゲンセールみたいに
安っぽく
そこにもあるここにもある
というんじゃないんですよ
もう充実してね
充実し切って
みちてるんです

たとえば
青空というのは
あれは神様のこころです
そらも
うみも
神様の
広い広いこころを
あらわしている
そこら中
みつけようとおもえば
到るところに
神様の
いのちが
あるんです
このことを
神様はあらゆる
万象のなかに
美となって
よびかけておられるのです





光というものは
我々を
おおって
いるのです
前もうしろも
左も右も
光だらけなのです
肉体も
そして
このいのちも
つらぬいてしまって
ただ
かがやいているだけです
何にもおもわない
それでいて
すべてをてらしている
光とは
こういうものです
人間とはこういう
ものなのです
              昭和62年2月11日


私は
考えたことが
ありません
考えることを
やめた
というのではなく
むこうから
流れが
やってくるのです

みんな
五井先生が
しゃべっているように
おもうでしょうけど
ただ
私は
場所を
神様たちに
貸しているだけ
空っぽなんですよ
何にもありゃしない
呑気なもんです
だから
私程
世の中に
呑気者はないと
おもってるんです
だって
全部
任せちゃってるんだからね
人まかせじゃ
ないですよ
神様任せ

みんなも
そうなのよ
だから
余分なものは
全部神様に
預けて
身軽になり
ましょう






ながれというものは
祈りと愛を
たてよこにして
天地を
つらぬいています
そして
ずっと宇宙に
まで
拡がっているのです






私が
神様につないで
あげる
だから
何にも
心配しなさんな






たとえ
牛に引かれて
善光寺参りでも
いいのです
そこまでゆけば
あとは
あなたの守護霊さんが
守護神さんが
つないでくれます






自分の
霊格は
まだまだ
なんていうのは
コウマンというものだ
神様は
人間を
そんなに
ちっぽけには
作っていない







愛するということは
自分をつつみ
相手をつつむという
ことです けれど
まず
自分を十分つつまないと
相手をつつむことはできません
何よりも
自分を大事に
することです







人間
かっこうを
つけようと
するから
駄目になるんです
かっこうなんて
つけたって
なんにも
なんない
私なんか
はじめっから
つけたくたって
このとおり
なんだから
のん気なものです
人間は
中身が勝負
どこまで
自分に人に
やさしくなれるか
愛せるかというのが
この人生の
勝負なのです







人間は
完全なものじゃ
ないんです
おもいが
あるうちは
人間は
楽になれないんです
こうしたら
世間がどうだとか
かっこうわるいとか
それで
自分を
かざろうとする
けれど
人間の真性というのは
無邪気なものなのです

すべてに
とらわれない
八方破れだというんじゃ
ありません
人の気持ちを
考えないというんでも
ない
けれど
自分を
自由に
させなくちゃ
いのちというものは
生き生きと
働いてゆかないものなのです

義務感やなんかで
動くことほど
きゅうくつなことは
ないでしょう

誰だって
自由にしたい
枠にはまりたくない
人間のいのちとか
こころとかいうものは
本来
一切の枠がないんです

神様は
人間を
不自由には
つくらなかった
それを
想念が
おおっちゃったんです
人間自身のおもいが
枠を
つくっちゃったんです

もう
そんな
きゅうくつな
ことをしない
でも
いいから
いらっしゃいというのが
消えてゆく姿で世界平和の祈り
とこういうわけなんです







すなおに
なること
これが
一番なのです
素直になると
そのもののすがた
その人のすがた
自分自身のすがたが
みえてきて
謙虚になるのです
信仰をしている者にとっては
これが一番
大事なことです







完全は
神様のなかに
しかありません
けれど
神の分生命
分霊である
人間は
その神の
完全のなかに
とけこんで
ゆくことが
できるのです

愛するということ
について
神様ほどの
エキスパートはありません
人はその
子どもなのです
神様とともに
歩いてゆく旅人なのです







やさしさが
なくなったら
人間は
ひからびちゃいます
やさしくなりましょう
五井先生はずっと
この修行をしてきたんです







傷を負った人は
それだけ人にやさしくなります
痛みがわかるということが
一番大事なのです







この肉体だけの
いのちだと思わない
ことです
病気は辛いけれど
それだけ
自分が浄まってるんです
私もしょっちゅう
痛みにおそわれるけれど
でも
神様は悪いようには
なさらないと
おもうと
呑気になりますね







このいのちは
ずっと、神様につながって
いるんだとそうおもうことです
実際、人間は永生のいのちなのです
やさしい神のいのちなのです





神様が
どれほど
真実な方であるかというと
この世だけの
あなたのいのちをみているわけじゃあ
ないんです
五十生、百生、千生あとのことまで
みて、それでこういう風に愛してゆこう
とおもってらっしゃるのです
無限の神の愛なのです







息をする力がある間は
まだ
この世の中で
役立ついのちなのだと
おおもいなさい







やさしいやさしいったって
ひ弱だというんじゃないんですよ
やさしいってことは
とてつもなくつよいということです
きびしいということでもあります
これが
神様の愛です
でも
いつも
あなたのことを
みている
のです







すべては
神の気の
流れによって
出来ているのです
おもいの雲をはらえば
人はみな
霊人になってゆくのです






すべてをありがとうと
いえるようになれたら
楽になります
人間の本体は
すべてを
よろこび
すべてに
感謝して生きて
いるのです






苦しみというものも
み方をかえれば
楽しみになってゆく
そんな
心のゆとりが欲しいと
おもうのです






いのちというものは
楽しんでいるものです
いのち自身が楽しんでいるのです
我々の心が
そこに気付けば
解き放たれて
呑気になってゆくのです






いいことを
いおうとか
感心されるようなことを
いおうとおもっている内は
言葉もおもいも
光ってはきません
そんな
意識すらないところで
かわす会話や
人へのおもいやりが
あなたを光らせるのです






ため息が
出そうになったら
ため息をついて
そして
それから祈って下さい
神様はすべてを
ごらんになっている方です
決して悪いようにはなってゆきません
無理に心をおさえること
これが一番
人間を
不自由にするのです  
             昭和62年2月12日

祈りのはしごにのって 祈って参りましょう

2012-09-24 07:35:02 | 癒し
ながれ
というものには
こだわりが
ありません
全く
悠々と
ながれる
大河でも
ちょろちょろと
細いところを
せまっくるしく
ながれてゆく
そういう
流れでも

なぜなら
神様が
流れさせているからです
神様の
愛のいのちを
受けて
流れてるんだから
不平不満の
おこりようがないんです
私がこうしたのに
あの人はとか
そういうのは
みんな
おもい
業想念です

神様ってのは
とびっ切り明るいんですから
それでもって
一人ひとりの
人間の
いのちの根を
愛して
らっしゃるんですから

わかります?
いのちの根ですよ
ちっぽけな
あなたの表面に
あらわれたところを
愛するとか何とか
そんなみみっちくないんです
神様ってのは。
どんとこいなんですよ

みんな
全部
思いっ切り愛する
というのが
神様なんです
こんな大きな
愛ってありませんよね

で、私がいつもいうように
人間はこの神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)ですから
我々の
いのちの根っこから
人を愛するように
できてるんです

だけど
自分が自分がとかね
逆に
ああ愛さなきゃなんないのに
愛せないなんてノイローゼに
なったりする・・・
今は
まだそういう人が多いんです
なぜかというと
それがずーっとつづいてきた
肉体人間の
おもいグセなんですよね

そこで
これまで地上にきた
聖者たちは
釈迦にしてもキリストにしても
マホメットにしても
光のはしごを
祈りというはしごをかけたんです

その光のはしごを
徹底した
言葉をいただいたのが
私の唱導した
世界人類が平和でありますように
という
世界平和の祈りなんです

みんな
いのちの根っこまで
愛せるように(霊体や光体はもう愛して
るんだけどね)
この祈りのはしごに
のって
祈って参りましょう
           昭和62年2月10日



おもいわずらい
というものが
あるなら
みんな
それを
預けて下さい
そして
身軽になって
神様を
よんで
いきましょう
世界平和の祈りの
なかに
よんでいきましょう
          昭和62年2月10日



光の
河の流れ
人間の
いのちの
みなもとを
いろどる
光の河よ
あなたに
礼拝する

心をやさしくしてゆくことから 愛は始まってゆく

2012-09-23 10:42:18 | 癒し
愛というものは
りくつではありません
ただ
どこまで
やさしくできるか
なれるか
やさしくしたくなるか
それだけです

むずかしいりくつは
何にもいらないのです

私なんぞ
みんな預けてしまって
いのちもみんな
神様に返してしまって
スッキリして
そうすると
本当に純になったね
全く考えなくなりました

それで
ただもうみんなが
人類の
いのちが
いとしくなってしまったと
こういうわけなんです

先生、人類のいのちなんて
とみんないうかも知れない
けれどこの中に誰か人類じゃ
ない人がいますか?
いたら返事して下さい
みんな人類の一人でしょう

で、とにかく
気持ちをやさしく
心をやさしくしてゆくことから
愛というものは始まってくんです
理論だったら学者に任せとけばいいんです


でも
私の目ざしてることも
人間の目ざしてることも
そんなもんじゃありませんからね

根本をやわらかくして
霊のいのちに目ざめさせる
こういうことなんです
宗教者というものはみんな
このやさしさを身につけていないとね

いうだけいって責めてたんじゃあ
何にもなりゃあしない
やさしさというのはね
それほど大事
そして
やさしくなるというのは
それほどむずかしいこと

でも、私どもは最良のお手本を
持っています
それが、神様の人間に対する愛です
神様というお手本があるんですもの
がんばってやさしくなってゆきましょう
世界平和の祈りのなかにやさしさを
とかしてゆきましょう
             昭和62年2月10日

本当の自分と いつかはみんな会ってゆく

2012-09-22 07:44:45 | 癒し
神様
神様
神様
自分の内も外も
天も地も
たてもよこも
前もうしろも
みんな
神様が
神の愛が
守っているのだということを
知ったら
もう
何も
こわいものは
ありはしない
           昭和62年2月6日


世界平和の祈りは
かみさまの言葉
神様の愛の言葉
神からわかれた
私たちが
この祈りを
となえる時
私たちは
私たちの
ふるさとに
帰っているのだ
神の愛という
ふるさとに
帰っているのだ




優等生に
なろうと
おもわないで
いいのです
そのままで
世界平和の祈りを
して下さい
そうやってゆくうちに
自分も
自分のまわりも
おちついてきます




やさしい
やさしい
人に
なって下さい
いたわりのある人に
人の気持ちの
わかる人に
いくら
地位があったって
財産があったって
やさしさが
なければ
何もならない
人の
痛みを
傷の深さを
おもいやることのできる
人間にならなければ
何も、ならない
やさしさは
愛なのです
やさしくあろうと
するとき
人のいのちが
かがやいて
光そのものに
なってゆくのです





私達は
神の器
器には
何を盛れば
いいのか
ときかれたら
愛と祈り
といおう
私達のいのちは
愛と祈りによって
生かされているのだから
この肉の身をつらぬいて
神の愛の光が
みちているのだから
愛と祈りを
私達のなかに
盛ってゆこう
いくら
盛っても
あふれることがない
愛と祈りを
        昭和62年2月6日 夜




愛が
神様の愛が
無尽蔵に
宇宙にみちていて
その愛が
私ども
一人一人の
なかに
ダーッと
ながれこんで
いるのです

光のシャワーを
あびつづけている
愛という
やさしさという
祈りという
いのちの水を
のみつづけている
これが
私達の
本来です

私達の
本来は
何かというと
霊のいのち
なのです
さわりというものの
一切ない
明るい
いのちなのです

神様は
明るい方です
愛にみちた方
ところが
肉をまとって
地球で生活している内に
自由な
愛そのものの霊のいのち
よりも
肉体の方を
主人だと
おもっちゃった
不自由な入れ物の方を
自分だと勘違いしちゃったんです

それじゃ
追っ払われた
霊のいのちは

どこにどうしているかと
いうと
みなさんの
肉体の奥に
ちゃあんと
生きてるんです
みなさんの
肉のいのちを
やしなっている
こころを
魂を
やしなって
いるんです

このいのちは
人間から
決して
はなれた
ことが
ない
なぜなら
神様の
いのちだから
神様が
人間を
見捨てるなんてことは
一ぺんも
ないんだから
ずっとずっと
未来永劫
人間は
神様の
愛に
生かされて
ゆくのです

そして
この愛が

肉の身の
あなたを
よんでいるのです
そのまま
あるがまま

いのちを
すなおに
いきるとき
あなたの光が
かがやくのです
愛が
ひかって
ゆくのです
        昭和62年2月6日 夜


自分の
本当の
姿を
掴んでゆきましょう
光そのものの
何も
迷いも
さわりも
ない
姿
それが
人間の
本当の
姿なのです

自分は
本当は
一切まよっていない
かなしんでいない
おそれていない
ただ
光かがやいている
そういう姿なのです
その姿を
しっかりとらえて
迷いも
なげきも
みんな
世界平和の祈りのなかに
入れて
すすんでゆきましょう

       昭和62年2月6日 夜


愛のおもいで
人をつつむ時
愛の言葉を
人に語る時
その人は
光になっています
愛は神そのものの
すがただからです

どうしようとか
こうしてやろうとか
一切
そういう
おもわくを
はなれているからです

無になってんですよ
無になろうとおもわないで
無になっている
空になろうとおもわないで
空になっている
そういう状態です
だから光るわけ

何にもおもわないで
ただ空っぽになって
相手が愛しくて愛しくて
たまらないのね
みなさんだって
そういう時があるでしょう
そういう時
みんな光ってるんですよ
光になってるの
愛になっているの
愛というのは
やさしさだからね
相手を思いやる心ですよ

たとえば誰か
気になる人の天命を
祈りまさあね
その時みなさん
どうですか
自分のことはおもってないでしょう?
これが
大事なんですよ
ね、わかります?

自分のことを
忘れてね
しかも義務的に
相手のことを
おもうんじゃなくてね
もう芯からおもうということね

これが
こういうのが
ずーっと一人びとりに
行き渡っているのが
神様の愛なんです

それはもう
愛で愛で愛で
つまっている
いっぱいになっている
途方もなく
深い愛ですよ

人間は
ここから
分かれてきた
生命ですからね
出来がわるい筈がない
みんな光ってるんですよ

人を愛しくおもう時に
その光はつよまるけれど
今に
元の元が
ずっと光ってるということが
わかればね
もう
いつも
まぶしいくらいに
光りますよ
今だって
光ってるんだよ

人間が
神の愛し児だっていうことを
心にね
本心の自分に
深く深く
とどかせるために
世界平和の祈りが
生まれたんです
それで
本心の自分と
いつかは
みんな
会ってゆくようになるんですよ
五井先生は

そのお手伝いをしてるんです

           昭和62年2月7日

私も宇宙 みなさんも宇宙なんです

2012-09-21 11:02:18 | 癒し
自分を
まもる
というところから
でてきた
愛ややさしさは
まだ
本物ではありません

神様の愛を
ごらんなさい
神様は
何もなしで
ただただ
人間を愛している
人間を救って救って
救い抜きたい
とおもっている
ただそればかりの
愛なのです
深いながれなのです

そうして
この流れは
私達のなかに
みんなあるのだけれど
まっすぐに
この流れを
みつめるには
あまりに
色々なことがありすぎて
どうも
みつめられない
こだわりだとかね
くやしさだとかね
怒りだか
そういったものが
流れを
みつめようとする
人間の眼を
遮(さえぎ)るのです

神様の愛というのは
りくつじゃあない
ちょうど
親が
子をおもうように
ごく
自然な
こころの働きなのです

いとしいとおもう
かわいいとおもう
本心の光にみちた
大生命の
元の元からの
愛なのです

だから
一度
すべてを
神様の
なかに返してしまって
光をあび切ると
今度は
どんな
おもいがでてきても
さっと
返してゆけば
自分のなかの
愛が
かがやくのです
すなおに
愛のながれのなかに
自分を
入れ切ることが
できるように
なるのです

世界平和の祈りを
となえて
ああ、これもおもいだ
過去の業だ
これで消えるんだ
消えるんだ
とみんな
おもいを消してく
練習をするでしょう
そうやって
天の蔵に
光を積んでいるんですよ
徳を積んでいるの

世界平和の祈り
というのは
感謝の祈りです
何に感謝するのか
いのちのみなもとに
感謝してゆくのです
感謝して
感謝して
何があっても
感謝しつづけてゆくと
業というものは
消えちゃいます
なくなっちゃうんです
いつの間にかなくなる
それは
守護霊さん守護神さんが
神様の愛が
消して下さるのです

感謝のなかには
余分なものが
ないでしょ
何も
余分なものは
ありませんよ
ただ
ありがとうございます
神様ありがとうございます
ということだけですよ

生かされていることへのありがたさ
ね、わかりますね
だから
我というものが
ひとつもない

世界平和の祈りは
神様の愛と平和をのぞまれるこころと
やさしさの祈りだと
いうんです
それを宇宙いっぱいに拡げたもの
なんですよ

みなさんのなかに
宇宙はあるんです
私も宇宙
みなさんも宇宙なんです
それで
宇宙というのは
愛の気にみちあふれたもの
もう
神様の愛で
はちきれそうになっているものなんです

自分のうちにも
また天にも
ずーっとつらぬいて
愛の気が
ながれているんです

私どもは
その
神の愛の
分生命(わけいのち)なんです
分霊(わけみたま)なんです
愛の子どもなんですよ
だから
なんにも
おそれることはないんです

嫌なおもいが
でたらでたで
ああ神様
又でました
っていや、
神様はそのおもいを
浄めてね
光にして
返してくださるんです
私なんか
ずっとそれをやってきたんです
今もやってるんです

私は
自分の
直霊に会って
人間が
光だということが
わかっちゃったから
どんなおもいがきてもね
業がきても
神様のなかに入って
それを光にして
返しているんです
五井昌久ってのは
そういう働きなんです
愛の働きなのね
愛をずっと突きつめて
ゆくと
神様にゆきつくんです
私はその
神様までみんなを
行きつかせる
船頭なんですよ
渡し守なんです

だから
何も心配しないで
みんな
私のところにいらっしゃい
みんなで
光の岸へ
帰ってゆきましょう
光のいのちへ
神の愛へかえってゆきましょう

          昭和62年2月6日