わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

五井先生がご帰神された時、皆の業を一緒に持っていかれたというのは本当か

2012-09-15 10:31:47 | 癒し
 まあ一つ言えるのは、私は嘘つきじゃない
ということですね。

 五井先生が亡くなった時に、つまり
昌美がね、五井先生が全部あなた方の業は
持って行きましたと。
 だから、あと残ってるのは燃えかす
みたいなもんで、皆救われますよという風な
言い方をしたと。ところが、今の
白光真宏会は、そういう言い方よりも、
むしろね、あなた方が神の子の自覚が
少なすぎるから、いつまで経ってもという
言い方をするけれども、それだったら、
五井先生は持って行ったというのは、
あれ嘘なんですかという質問が確かあった
と思いますがねえ。

 五井先生は嘘は言わないんです。どこかの
総理大臣じゃないけどね、五井先生は本当に
嘘は言いません。業は持って行ってるんですよ。
 ところがね、業というのはね、先っきの話
じゃないけども、つくろうと思えば、
いとも簡単に出来るんですよ。みんな楽な方に
行きたい、皆苦しまない方に行きたい、
辛い人生を送りたくないと、皆思いますよね。

 だから、そっちの方に行かないようにして、
皆努力して生活してるにも関わらず、何か
家の中も職場もね学校も、何かいやな事が
起きてね、夫婦生活もうまく行かないとかね。
自分なんかもぐちゃぐちゃ思うし、何か
そんなことを考えると、それはあなたの心が
悪いだなんて、私が生きてる時は、そういう
言い方はしませんと言って来ましたね。

 ところが、今の白光は、ちょっとそうじゃ
ありませんかという質問ですけど、とに角、
一つずつ分けて言いますとね、先っきも
申しましたように、業というものは、いとも
簡単に、人間の想いというものによって
つくってゆける。
 で、想いによって出来るのは、業だけ
じゃないんですよ。神界なんていう所はね、
神界でも霊界でもそう、この世の中でも
本当はそうなんだけれども、つまり、皆の
想いが現れて来たものがこの世界なんです。

 例えば、向こうの世界へ行ってね、この人と
仲良くなりたいなあと想うと、たちまち本当に
仲良くなっちゃう。ところが、あの人に会いたく
ないなあと想うと、その人が出て来るとかね。
最初のところの霊界のとば口と言いますか、
そういう何か修行させられるような時には、
そういう会いたくない人にすぐ会うとか、
その想いがすぐそのまま実現するというような、
そういう世界になっていく訳なんです。

 それは、何の為にそれをくり返すかと
いうとね、そういう事を通して、自分の本心、
本体というものが、どれ程霊妙に出来ているか、
神様の愛によってつくられているか。自分は器
じゃないとか何とか言ってる場合じゃなくって、
自分の本当の姿をのぞいた時には、どんなに
輝いているかということ、それをいやでも
観せられるんですよね。それを観る訓練
させられる訳なんです。その為に、色んな
いやな人に会ったり、又逆なことがあったり、
すぐそれが目の前に出てくるというのは
それなんです。

 ところが、この世の中というのは、時間的な
余裕がありますから、会いたくない話したく
ないと想えば、断わることだって出来るし、
電話を切ることだって出来るし、絶交すること
だって出来るし、色んなことが出来る
訳ですよね。肉体はそうやって出来る、
この世の中では出来るけども、本当の意味で
出来ないというのは、その想いがね、結局
切れてない訳なんです。想いはいくらでも
交通してる訳なんです。目に見えないだけで。

 この世の中だって、霊界のつづきなんで、
一続きなんで、結局、霊界もこの世も一緒
なんですよね。同じ空気とは言わないけれども、
霊界の一部がこの世なんですよ。
 ということになると、その想いの貯金
といいますかねえ、どういう想いを自分の中に
積み重ねて行くかということによって、それが
いわゆる業といいますか、カルマといいますか、
そういう悪い方の業になっていくか、そう
じゃないかというので、随分と違って来る訳
なんです。
 ところが、そこに人間の弱さもろさという
ものがあって、先っきも言ったように、
そっちの方へ行きたくないんだけれど
行っちゃうとか、行かされるとか。
 とてつもなく苦しい所へ来ちゃったとか。
 そっちの方へ行かないようにするけれども、
ところが、これは非常に難かしいところ
なんですがね。行かないように努力して
いるのにという事の中には、つまり、
行かないようにしたい、恐怖だから、
いやだから、あそこだけは避けたいと思って、
ひたすら逃げる心で、それで何かやってる
ようになっては、それはもう業を引き寄せる
のと一緒なんですよ。

 そこがねえ、人間というのはね、非常に
難かしいんですよね。肉体を持ってると、
そんなこと言ったって、五井先生、いやな
ものはいやなんです。というのはこれは感情
としては分かるんだけれども、しかしね、
仕組としてはそうじゃなくて、やっぱり、
ああ想っちゃったすいません、よろしくお願い
しますと言って、パッと想いの転換をする。
 そういうことによって、一瞬業になっても、
業というものは軽くなって、消えてって、
ついに消えていくという、そこの、信ずる
というか信頼するといいますかね、任せる
といいますか、その信仰というものが
強いかどうか、ね、そこが人間のためされる
ところなんですよね。

 そこでもう一つ言えば、今、白光が伝えよう
としている、つまり、あなた方は神の子
なんだよと。これも言い過ぎるとねえ。
 確かに、講師の性格とかね、色んな人の性格
によって、押しつけに聞こえたり、色々に
聞こえるんですよ。それで、実際に本当に
苦しんでる人とかね、もう本当に
そうは思えない状況の中にいる人達なんかね、
ため息ばっかりですから、想えって言う方が
無理だ、それは分かるの。

 だから、想えという方が無理だから、
この消えてゆく姿があるんだけれど。
 今、消えてゆく姿よりも、神の子の方がと
いうのはね、実際に世界そのものが、本当に
ものすごい勢いで変わっていってるんですね。

 例えば、あのイランにしてもイラクにしても、
国連で平和のセレモニーがあるということに
しても、それは何を意味するかといったら、この
世界人類というか、世界の中の空気という
ものをね、平和なものにして行かなきゃ
なんない。平和なものに又なってゆく。そういう
時期なんです。今はね。

 だから、皆が、そんなこと先生言ったって
出来ませんよと言ってるんだけども、先っきも
何かの話の中で私が言いましたようにね、
自分自身の肉体世界における状況は、ものすごく
辛いんだけれども、あなた方の中に隠れてる、
霊妙な体の奥の奥のね、悟ってる体というものが
あって、そこのところが実は、パーッと働いて、
光になって、あなた方が苦しんでいても、たとえ
病気で寝たきりになっていても、そのあなた方の
光が光明がね、世界中駆けずり回って、そういう
空気をつくっていく。そういう役割をあなた方
自身がね、見えなくともやってるんだという
事実をね、それを伝えたいと思って、今、みんな
講師の人たちがやっきになってる訳ですよ。

 ところが、伝え方がへたなんだな。やっぱり、
皆のそれぞれの苦しみというものを、充分認め
なきゃいけない。認めなきゃいけないけども、
苦しいばかりが人間じゃないということです。
 つまり、私の言う人間というものはね、本当に
小さくにもなれば宇宙大にもなるもんだと。

 前に言ったことあるでしょう。植芝先生が
私を訪ねてみえて来られた時にね、五井先生
私は宇宙ですと、私も、植芝先生私も宇宙
ですよと。
 その時に居た斉藤さんが、宇宙と宇宙で何の
話をしてるんだと、ねえ、すごく怪訝(けげん)に
思ったという話があるけどさ、それは何を
言ってるかといったら、それ程人間という
ものは、神様の本来のその愛というものに
包まれた、無限大に本当に深い大きな存在
なんだと。だから、本当の人間というものは、
宇宙よりも大きく深くなるしね、ミクロよりも
小さくなる。

 私がいつも言いますように、霊界という
ところは伸縮自在で、たとえ地球全部の人が
一度に死んだとしてもね、そんなことは
有り得ないですよ、有り得ないけど、
霊界では人口がどうのこうのと、そんな
ことは問題じゃないんです。霊界というのは、
もう自由自在なんです。

 人間は、肉体持ってる間はものすごく不自由
なのね。肉体持ってる為に、家を建てたり、
ここへ住んでとか、土地のこと財産のこと、
色んなしがらみが出てくるし、肉体を養わな
きゃならない、家族を養わなきゃと、色んな
ことが出て来て、そして動きがとれない。
 ところが、死んじゃうと、自在身でしょ。
 何処へでも行ける。だから、本当に色んな
働きが出来る訳ですよ。

 ところが先っきも言いましたようにね、人間
というのは、肉体を持っていても自在に
動きまわれる。それは距離だけじゃないんです。
 色んな人の心の中に入って、光を燈すことが
出来る。そういう体を、深いところで、
あなた方みんな持ってるんですよ。

 私なんか先生、私なんか役に立ちますか、
私なんかお役に立ちませんから、どうぞ
他の人を求めて下さい。私なんかって、そんな
引っ込んじゃあ駄目なんですね。何故か
というと、皆平等に公平にそれを
持ってるんですよ。あなただけが持ってるんじゃ
ない。皆持ってるんです。肉体の力量というか
才能というかね、そういう所だけでみちゃうと、
そんなに輝いてるものがあるなんて言ったって、
肉体の人間の我から観れば、そんなの私の中に
ある筈ないと思っちゃうから、否定して
しまうけども。否定しきれないというのはね、
ほらあなた生きてるじゃないですか。

 生きているその根元は何かというと、神様
からの光ですよ。その光が来て、あなたは
その光に養われて生きてるわけ。だから、その
光の元をあなたが体の中に持ってるとしか、私は
言いようがない訳ね。皆それ持ってるんです。

 だから、その持ってるということをありがたく
思ってね、そして、その用い方、用いられ方
というものをね。自分がどうしょうとか、
こうしょうとか、こんなものもらっちゃって
とか、私にもらったってどうしょうもない
とかね、そんなこと思わないで、一旦もらっ
ちゃったんだから、あるんだから、謹んで
受けて、そうして、それをどう使って下さるか
というのはね、これは、我々は神様によって
生かされてる生命なんだから、それを
一旦神様にお返しして、何も生命をとるというん
じゃないんですよ。その使い方を神様の方で、
どういう風に生きた方がこの人はいいか、
どういう風に進んで行った方がいいか、
ここで結婚させちゃった方がいいとか、ここで
結婚させないで独身を通してね、芸術家に
なった方がいいとか、この辺でデザイナーに
なった方がいいとか、そういう事というのは
向こうの方で決めるんです。

 だからね、色んなものをもらっちゃって、
私こんなものもらっちゃって分不相応で
なんて、言ってる場合じゃないんです。場合
じゃないっていうことをね、今、白光真宏会は
皆に伝えたくてね、心あまって言葉足らず
と言いますかね。

 しかしね、人間の中には、苦に把われるね、
昔ながらの我をつくしちゃう、どうしようも
ない肉体想念といいますか、そういう想念の
世界、我の世界、業をつくりかねない世界も
あるけれども、一方で、あなた方は、肉体を
持ったまんま、自在に色んな所へ自分の光を、
実際にふりまいている。そういう力を
持っている。

 人間というのは、その色んな所へ光を
ふりまく、明るい想いをふりまいて、自分も
人も尊敬して、生命を尊んで、この世界を
平和にしてというのが人間の真性ですから、
そっちの方を磨いていく、見つめていく
という事が大事なんです。それは何も、
現実の苦しみ、悩みだとか、自分の子供の
ことで死ぬ程私は悩んでいるのに、その
悩みを無視するんですかって、そうじゃ
ないんですよ。

 さっき申しましたように、その悩み
であろうと苦しみであろうとね、神様
というのは、守護霊さん守護神さんという
のは、それを必ず向こうで良いように
使って下さるわけ。だから、皆が把われて
いるのを放っておくというのではなく、必ずね、
この世の中で使って下さる。この世の中で
良いように使って下さる。この世の中で
駄目だったら、次の世の中で使って下さる
訳なんです。

 だから、その事をね、きっちりと自分の中へ
たたき込んで、そうして、自分は生き通しの
明るい神様によって守られてる生命なんだ、
だから、その明るいすっきりとした生命に
なる人間が多くなるように、多くなって
ゆくように、五井先生が肉体を離れる時に、
皆さんの業というものは皆持って行って、
洗い浄めて、今燃えかすしか残ってない
というのは、それはその通りなんですよ。その時
みんな業を持ってっちゃったんですよ。だから、
その業というものはね、もうふり返らなくて
いいんです。確かにそうなんです。

 その後というのは、やっぱり皆の想いぐせ
ですよね、いつも私が言う。私なんてどうせ
とか、私がやったってこんなことはなりっこない
とか。ね、それから、変に責任感じたりとかね。
 色んなその人の性格のね、個性といいますか、
その現われ方によって、何か苦しみがそこへ
生まれてきちゃう。それが業になってくる。
 だから、業というのはね、消すのは大変
なんですよ。本当に消すのは大変なんだけども、
つくるのは本当にすぐ出来てしまう。

 だからね、皆そういう弱い自分の、人間の
体と、本来の人間の奥深い、神様の光に
満たされた神性の体と、両方持っていて、
そうして、今はその神性の方の体を自覚せよ
と言っている。何も現実の部分を軽視する訳
じゃないんだけど、そっちの想いの方よりも、
むしろ、この世の中の空気を明るくしてゆく為に、
あなた方の想いを光にかえてやっていくという
事が、今大事なんで、その為に白光が、色々
言ってるんだということを理解していただいて、
そうして、それでもやっぱり悩みは悩みですから、
それは軽蔑しないで、私はちっとも軽蔑
しないから。

 そんなこと言ったって、私はくだらない
ことしか想えないし、今こんな事がしんどい、
あんなことが辛いんだというのは、そのまま
出せばいいじゃないですか。そのまま私が
光に変えますよ。ね、自分の中に神の子なんか
思えないとか、神のことは思えないとかね、その
決めつけだって把われなんです。業なんですよ。

 だからね、そんなことはないんだから、
そういう色んな想い一切、良い想いも悪い
想いもね、湧いてくる思いというものは一旦
認めて、うん、よしよしとしてやって、残る
ものは残して下さい、消すものは消して下さい。
 消えてゆく姿でよろしくお願いします、
五井先生よろしくお願いしますと言って
しまうと、残るべきものが残ってね、働くべき
ところへあなた方がちゃんと働くように、
こちらの方で、コースはちゃんと指定が
出来るようになっているんです。この人に
こういう所でやってほしい、働いてほしい、
行ってほしいというのはある訳なんですよ。

 だから、そういう神霊が、皆さん方の為に
用意している人生の、この生命の永生の
コースを、ちりがあまり積もらないように、
自分の中の想いをもう一度見渡して、そうして、
色んなものがあっても構いませんから、それを
すっきりと、もう一度私に渡し直して、
そうして、自分の中の弱い部分もたくましい
部分も全部認めて、その上で、人間の真実の
本来の生命にむかって進んで行けるように、
祈りを重ねていって欲しいと思います。

              昭和63年7月22日

子供はもうたくさんだと想った魂が生まれ変わった時に、子供は授からないのか

2012-09-14 07:47:29 | 癒し
 子供が欲しくない、もう子供はこりごりだと
前生で想ってしまって、そこで生命を終えると、
この世の中に出てきた時に子供が出来なくなると。
 そういう話を村田さんなんかが言ったり
しているけれども、それは本当にそうなのかと。
 もしそうならば、この世の中で子供が欲しいと
想っている人なんかが、そういう前世との
関わりなんかで、宿命なんかで、出来ないと
いうようなことになってしまうのかという質問が
あったと思いますが。

 まあそこに入る前に、本当に今、子供で苦労
してるお母さんが多いですね。子供の気持ちが
分からなくなっちゃったとかね。それから、
これだけ手塩にかけて子供を育てて来たのに
裏切られちゃったとか。何十年育てて来たのに、
どうも何か価値観が異なっちゃって親子
でありながら何か意見が合わずに、気持ちが
合わずに悲しい切ない想いをしてるとかですね。
 そういうことが随分私の耳に今も聞こえて
来ますね。昔から何かそれはあるようで。
 そういう苦労というのはおそらく人間が
この世の中に生きていく限り、絶えないん
だろうなあと。そういう苦労を何かの形で
させられるんだろうなあという気も致しますが。

 そこで、前生にそう想わせられてこの世に
出てきた時に、その為に子供を持てなくなる
という人があるかというと、無いことはない、
あるんです。それはどういう人があるか
というと、例えば、子供に本当にひどい目に
あって、もう裏切られて裏切られて切ない
想いをして、もう子供なんてものはたくさんだ、
もう懲り懲りだ、とんでもないという想いが
出た時、守護霊さんや守護神さん、神様に、
神様もう子供は懲り懲りですと申し上げた時に、
向こうの世界では、やっぱり厳正な審査が
ある訳です。ただその想いをそのまま受けとって、
ああそうかと子供が出来なくする訳じゃ
ないんです。その想いが、その人の我、欲に
なってないかどうか。子供が出来なくなったら
いいというのは、これも欲の一つなんで、
その欲になってないかどうかね。
 いわゆる自分の気持ち感情そのままで
訴えてないかどうか。

 そういうことじゃなくて、本当に人間として
辛くなって、これ以上肉体人間として、子供と
関わるということがとても辛いと、
生きてられない程辛いと。
 ただし、その時にはその人は、こういう
ことを想わなきゃいけない訳ですね。想わせ
られる訳です。つまり、子供を与えられること
によって苦しみも来るけれども、同時に、
子供を与えられることによって、喜びも慰めも
励ましもね、色々なものが来る訳ですよ。
 親が子を持つということはね。そういう望み、
希望も一切、将来にわたって私は放棄しますと、
要りませんと。子供の苦労は懲り懲りだけれども、
それ以外の苦労ならば私は喜んで致しますと。
 そういう真実の気持ちからの訴えであるならば、
向こうの方で色々調べましてね。そして、これは
本当の心から出てる、これ程苦しんだのならば、
じゃあ次の世の中は、子供こそ与えないけれども、
違うところで人間を見つめ直させようと。
 あるいは、人間の生命(いのち)について
勉強させ直しをしようということになって
出て来る訳なんですね。だから、例えば、我が儘
でもってこの人の子供を欲しくないなんて想って
産まないとか、そういう次元で強く想って
次の世の中にという、そういうのじゃないんです。
 本当に辛い想いをして、そこで、お願いします、
ただし違うことで役立てて下さいと言って、次の
世の中は違うことをやっていく。そういう人が
やはり何人かはいる訳ですね。

 だけれども、そういう人達はどういう今度
生き方をするかというと、それは様々
ですけれども。
 例えば、夫婦の間で、他の子供たちは可愛い
のに、自分の御主人との間の子供はどうしても
産みたくないとか。そういう風な想いになって
出てくる。そして、産みたくないという気持ち
と同時に、あるいは親になりたくない母親に
なりたくない、父親になりたくないという気持ち
と同時に、子供が無いことへの寂しさなり悲しみ、
孤独、あるいは葛藤ですね。そういうものを
味わう。そういうことによって、子供の生命
というもの、人間の生命というものが何処から
来るかとか、それが無いことがどれ程大変な
ことかとか、そういうことをずっと考えさせら
れていく訳ですよね。
 そういう形で、神様、守護霊さん守護神さん
というのは、やっぱり学ばせていくんですね。
 そうかそうかで、そっちの方の苦労を
させないよと放りっぱなしにしない訳ね。決して
放りっぱなしにしませんね。

 そして、もう一つ言っとかなきゃいけないのは、
我々は前生もあるし前々生もあるし、色々な
もう前々々生もあるんだけれども、霊界から
この世の中に親子になって降りて来る時に、
この人が親ですよ、あなたはこの両親の間に
生まれて来るんですよという時に、我々は
素直に向こうから来る時は、はいと言って、
そうだと想って降りて来る訳ね。で、それと
同時に記憶が消えるんですね。つまり、
そういう記憶があっちゃあ、この世の中で
光明体として神の器として生きていく、本当の
意味で修行していく為に、そういう記憶は
邪魔になってくる訳ですよ。色んなものが
あったら困る。だから、ごく少数の人を
のぞいてはね、前生に自分は何してたとか、
男であったとか女であったとか、色んな記憶を
消しちゃう。そうして、もちろん霊界からの
記憶も消しちゃう。

 だから、我々というのは、何かこうやって
ここに移住してる時には、この今の家族と
両親と兄弟とか、妻とか子供とか夫とか、
そういう関わりの中で、会社にいったり、何か
商売したりとか、そういう今の関わりを絶対の
ものだと思って毎日を過ごしてゆくけれども、
しかし、本当はそうじゃない。ずっとその
積み重なりがあって、前の世の中で公務員
だった、前の世の中では武士だった。ずっと
ある訳ですよ。だけどそれを消しとかなかったら、
邪魔でしょうがないから消すけれど。
 本当のこと言えば、この世の中だけの生命じゃ
ないから、例えば、この世の中で子供が
授からないとしても、それは前生がそうだった
からというんじゃなくって、そういう風に誓いを
たてた人が、子供は授からないけれど、その
代わりに考えさせられる。で、その人は未来永劫
子供が出来ないかというと、そうではない。

 生命というのは、ずっと私が申しております
ように、ずっと続いてまいりますから、その次の
世の中で、やっぱり子供というものはいいもん
だなというか、必要なもんだなと、人類に
とってはね。子供が出来なきゃ光が絶えてゆく
訳ですよ。
 我々は神の光の生命なんだからね。光の一筋
なんだから。その種が絶えるということは
光の種が絶えるということであって、光の種蒔が
出来ないということなんですね。
 だから、人類が絶えるということは
あり得ないし、核戦争だとか色々不安は
あるけれども、皆が平和な方向へ平和な方向へと、
今イランやイラクでもそういう風な方向へ
行くでしょう。というのは、やっぱりこの人類の
種を根絶やしにしちゃあいけない。
 その根絶やしにしちゃあいけないという想いの
奥には、我々は神様の分生命(わけいのち)の
分霊(わけみたま)の神から流れて来た生命
なんだから、その大元の神様のみ心の、
大愛一杯のその気持ちを根絶やしにするなんて
ことはありえないし、又出来ないんです。

 だから、その人類的な本能がね、結局それを
くい止めるというところへ働く訳ですよね。
 だから、子供というものに対して、ただ単に
自分の子供がどうのこうのじゃなくて、人間
にとって人類にとって子供というものは
要るんだなという学習を、その人はその人の
持ち場で、素直にあるいは苦しみながら経験する。
 次の世の中で要らないと想って生まれ変わって、
子供について生命について学習し終った時に、
じゃああらためて、あなたの子供としてこういう
子供が産まれますよというのは、又次の世の中で
出て来る訳なんです。
 だから、未来永劫ね、そういう誓いを
たてた人に子供は授からないかというと、
そういう訳じゃない。やはり生命は、その人の
子孫は出てくる訳なんですよ。

 と同時にですね、この人間が生きていくという
ことの中には、様々な苦しみが伴なってく
訳ですよ。
 例えば、仕事にしろ家庭生活にしろ、結婚生活
にしろすべてのことについて、悩み苦しみがある
訳なんですよね。つまり、私が先っき申しました
ように、何故人類を根絶やしに出来ないか
といったら、神様の光の生命だから。それは事実
根絶やしになりようがないし、又それはしちゃあ
いけないんです。でも、それは大目的だけれども、
例えば、私達が神様のことを語る時に、神様と
いうのは愛ですよという時にですね、何も苦労も
しない人が、何の挫折も悩みも味わって
来ない人が、神様は愛ですよと言ったって、
説得力がありますか。説得力ありませんよ。何にも
ありませんよ。例えば、ここに十人、人がいる
としましょうかね。十人いるとして、仕事が
なくなって明日からどうやって食べて行こうか、
明日のお米を買うお金も無いというところまで、
追いつめられた人がいるとしますよ。
 で、それを迎える神様のことを語る人が、順境で
育って来てね、物質も愛情も一杯受けて育って来た
その人が、そんなこと言ったって、神様は愛ですと
言ったって、説得力が無いことおびただしいじゃ
ありませんか。

 だから、神様の愛というのは、人間の我々
一人一人の、人類一人一人の個性、性格、良い所
とか悪い所とかね、どういう所で苦しんで、
どういう生き方を送って、今何がこの人の悲しみ
なのかというのは、皆知ってる訳なんです。
 知っていて、それで抱きしめてね、今あなたが
これを欲しがってるのはよく分かっている、
だけど今はあげられないけれどもといって、
泣きながら光を送っている。それが神様の愛
なんですね。だから、そういう神様の愛
というのは生半のもんじゃなくてね。
 その生半でない神様の愛を伝える、少なくとも
言葉にして伝える時には、何かその人の
人生の中でね、離婚なり別れ、お金が無いこと
だとか、子供を失なったとかね、死別の悲しみ
とか、色々なこの世の中の苦というものを
いくつかですよ、無いにこしたことはない
けれどもね、個人的に言えば、だけど神様の
愛を語る時には、やはり何か一つか二つか
この人生の山を越えて谷を越えて、そうして、
自分も塗炭の苦しみを味わってね、もうこんな
神様なんかあるかしらという所から這い上がって
きて、それで尚かつ唇から出てきた言葉が、
それが神様という言葉だったと。ね、やっぱり
神様、私はあなたが忘れられませんと。そういう
経験をした人が神様を語る時にはね、やはり
説得力があるんです。ただ単に、ここにこう
書いてあります。白光のテキストにこう書いて
ありますから。それじゃあどうにもなりません。
 テキストというのはやっぱりテキスト
なんです。

 私は色々神様のことをやさしく説くというのは、
そのやさしくというのはね、話を難かしくする
ことは幾らでも出来るんです。だけど、
子供からね、70 80 90になるおじいちゃん
おばあちゃんまで、皆悲しみも苦しみも喜びも
持ってますよ。そういう心に持ってる人たちに
神様の話をする時に、神様の愛について語る時に、
こちらのそういう心の糧になるようなね、苦しみ
などの財産の一つや二つは、やっぱりなきゃ
うそなんですよ。

 だからね、この世の中から、平和の祈りを
していれば苦しみがなくなってゆく筈なのに、
業は消えてゆく筈なのに、業というものは
消えていかない。何故なんだろう。業という
のは人間がつくるんです。業というのは神様が
つくるんじゃない。業というのは、この肉体を
かぶって生きざるを得ない、この地球世界で
生きざるを得ない肉体人間のね、痛みや辛さや
色々な想いですよね、そういうものから離れたい
と思って、把われないでおこうと思いながら、
つい深みにはまっちゃって、苦しいから助けて
という想いで神様を呼んだりする。それが
呼べば呼ぶ程、何か絡まっちゃって、どうにも
ならなくなっている。
 こっちから観ていると、みんな離れよう離れ
ようと思いながら神様を呼ぶんだけれども、
その苦の中に座り込んで、へたり込んでね、
はまり込んで、何か自分からその苦の中へ
入ってゆくような、離れたいと思いながら実は
しがみついてるような姿が、こっちから観ると
みえるんですよ。

 そうではないんです。苦というのはやっぱり
離れていかなきゃいけないです。苦は
引き寄せちゃあいけないですよ。業も
引き寄せちゃあいけないんですよ。非常に
難かしいけれどもね。
 例えば、杖の話をしましょうか。杖というのは、
足を悪くした人なんか良く分かると思いますけど。
 坂道や自動車なんか来る時あぶないですよね。
 そのあぶないという時に皆杖にすがっちゃうん
ですよ。すがると全体重をかけちゃって、それで
余計に転んで怪我してあぶなくなっちゃう。
 左足が悪かったのに、余計に右足も悪くした
なんて話を聞きますけど。これは何かというと、
あぶないと思ったら、その苦しみの渦からすっと
逃げちゃえばいいんです。柔道じゃないけど、
あっとその杖をはなして、その苦しみを離れて、
後ろ向きにひっくり返って、ちょっと離れりゃあ
いいんです。離れたら苦というのは、すっと
抜いて、そこへさっと光がさすんですよ。
 こっちも光をむこうへ差し出しやすいんです。
 ところがその時に、あっと想って、その杖に
しがみついちゃうでしょ。だから、苦をふっと
引き寄せるのと一緒でね。

 離れたい離れたいと思いながら、皆さん
観ていると、人間というのは離れたいという
想いは強いのに、体の方は心の方は苦の方に
引き寄せられてしまっていて、業の中へ波の中へ
自分を引き寄せていってしまってる。それが
観える。だから、離れたいと思いながら
離れられないというのは、これは人間の
習性ですから。私は責めてるんじゃないんです。
 そういう想いがあるというのは分かる。それが
習慣になってるというのは分かる。その習慣
というのは、ずっと続けてゆけばそれは業を
引き寄せるんです。それは、一回は想って、
二回目はパッと切り換えてね。そして、それを
光の想いに変えていく。それには何をすれば
いいかというと、それは祈らなきゃ駄目です。
 祈って祈ってね、この辛いなら辛い、苦しい
なら苦しいでかまいませんから、五井先生何とか
して下さい、何とかしろでもかまいません。
 だからその時に、五井先生すいません、
離れたいと思いますのでよろしくお願いしますと。
 すっと何か、ある空間をね、真空の想いを
パッとそこへつくってくれたら、こっちだって
さっと光を差し入れられるんです。

 で結局ね、色んな所へ話がいってるようですが、
つまり、そういう苦というものが、やっぱり
神様を語る時にはなきゃあ、そして、神様の愛を
色々な人にしみ渡らせる為には、とってもじゃ
ないけど、やはり説得力がなくなるという
話でしたね。しかし、それだけの為に苦を
味わうのかといったら、そうじゃない。その人の
魂が光り輝いていく為、その人の本心が輝いて
いく為にもちろんそれはあるんですけれどもね。

 だから、子供が出来る出来ないという問題
にしたって、もう子供は要らないから次には
絶対中絶しても子供をつくらないようにすると。
 例えばずっと念じたとしますよ。念じた
としたら、先っきの、この人の子供を産みたく
ないという話じゃないけれども、やっぱりその
念というものが次の世界の中に現われてきて、
それは業ですけどね。そうして、くり返しに
なるけれども、そこで人間の生命のことを考える、
色々なことを考えさせられる訳なんです。先っき
私は念と申しましたけど、前生で想い込んだ
念が通って、仮りに現れてきたとする。ところが、
守護霊さんとか守護神さんとかは、とても公平
なのでね。何が公平かというと、そういう念
すらもね、やはり利用するんです。何に利用
するかというと、何によって人間が生きてるのか
生かされているのか。我々の生命が何処から
来たのか。我々は何処へ連れていかれるのか。
 ね、どうしたって、神様というのは悪くしっこ
ないんです。ね、最後には明るい所へ絶対
連れていく訳なのね。

 ところが、色々なことがあって、今苦しい所に
いるとか、悲しい所にいるとか、色々なことが
あるんですがね。その時に、自分の想いの
切り換えをする。皆が離れたいと思いながら、
その苦の中に業の中に枠をつくって、その中へ
入り込むんじゃなくって、あ、これは
消えてゆく姿なんだなということを想って、
ありがとうございますと言えなくても
かまいません。五井先生と呼んで下すったら
いいんです。そこで、世界人類が平和で
ありますようにと出来なくてもかまわない。
 出来る人はしてもいいけどね。そういう風に
して呼んで下さればいいんです。

 ついでに言うと、その祈りの中で、過去世の
誤まてる想念がとありましょ。あの消えてゆく姿
というのも、我々の方から言いますとね、深い
ところを一つ言うとね、この現われの今
あなた方が生きてる世界の中で、色んな現実的な
悩みや苦をとる、軽くしていく消していく、
消えてゆく姿もあるけれども、その現われが
前生の念で現象界に出てきたとするならば、その
過去世にさかのぼって、その念も消していくと
いうのがあるんですよ。だから、人間の生命の
本体のね、本心の洗い浄めといいますかね、掃除
といいましょうかね。ずっとさかのぼって、何十
世代何百世代にもわたる、何十代何百代にも
わたる生き通しの生命の掃除をする訳です。
 それぞれのですよ。それが神様の愛なんですよ。
 もちろん、今の生活が安楽である方がいいし、
平和である方がいいし、皆と仲良く出来る方が
いいに決まってます。ね、だけども、神様の愛
というのは、その毎日の積み重ねも大事に思って
下さるけれども、それを通して、遠い将来ね、
我々が死んで又生き返って、その時には
今のような記憶はないかも分からないけれども、
その遠い遠いところにまで、遙か彼方にまで
つながっていく連らなっていく永遠の生命という
ものに対する、永世というものに対する祝福と
喜びと、魂の浄めと、そういうものを神様が
下さるんですよね。そういう神様の愛なんです。

 だから、子供が出来る出来ないというのはね、
前生で想い込んだから、子供は絶対に出て
こないかというと、そうじゃない。ある選ばれた
特定の人だけがね、真実私は子供の苦労は
けっこうです、もうこれ以上すると肉体が
バラバラになりそうです。だけども、他の
ことならばどんなことでも致しますと。肉体が
そう叫ばなくったって、霊体の方でそう
悟っちゃって、神様の方に訴えて駆け込んで、
駆け込み寺みたいに駆け込んで、守護霊さんと
守護神さんが神界でお願いしたとしたら、
やっぱり、そういう一生をその次の生で
送らせて下さるかも分からない。だけども、
先程も申しましたように、じゃあその人の
生命がずっと連らなって、何生も未来永劫
子供が持てないかというとそうではないんです。
 やっぱり持ててゆく。

 子供だけではない、人類というものの生命の
根っこを見つめていく時に、光そのものに
なっていく、我々のその生命の根元なんだ
ということまで悟った時にですね、念の世界
ではない、祈りの世界になっていって、自分の
心の内を浄める。そうして、その想いが
まわりを浄めていく。その事が一番、世界平和の
中で大事になっていくし、自分の持ち場持ち場で
そんな大きなこと思わなくったって、自分の
明るい運命といいますか、明るいこの生命を
呼ぶ為のものになっていく訳なんです。
 呼ばなきゃ駄目なんですよ。そして、
信じなきゃ駄目なんです。任せなきゃ
駄目なんです。

 神様これ何とかして下さいというのは
分かりますよ。私も人間だったんだからね。
 だけども、何とかして下さい、苦しくって
たまりませんというのをね、もう本当に大変
だろうけれども、その想いを出来るだけ短く
してね、すいません私はもう
考えられません。考えられませんから、
守護霊さん守護神さん神様よろしく、五井先生
よろしくお願いしますと言って、もう
想えなきゃあ、それだけを想ってスイッチを
切り換えて下さいな。そうでないと、
こちら側はね、この人とこの人をこういう風に
くっつけて、あるいは別れさせてとか、ね、
まあこれは冗談だけども、この辺でこういう
商売をさせてとか、こういうコースを歩ませて
とか、守護霊さん守護神さんとね、我々の方で
ちゃんとそのコースをね、神様の方で決定
しているのに、何かその辺でぐっと
すがられちゃってね、すがるのは悪い
というんじゃないんですよ。すがって下すって
いいんだけど、そのどうしょうもない苦という
ものに入り込んじゃって、そこではまり込んで、
そこから声を出してしまわれるとね、せっかく
浄めて、もう半年したらこの苦が終わるなとか、
ああもう三ヶ月したらと、刑務者じゃ
ないんだけどさ、そういう期間の短い長いが
あって、その短いのが、段々人間の方で
我でくっついてね、何故だろうとか、どうして
こうならないんだろうとか、私はどうして
こうなんだろうとか、何でこれがうまく
いかないんだろうと。ずっとその中にいると、
それは我の把われなんですよね。だから、
その把われを、辛いけれども私は把われてます、
だからよろしくお願いしますと言ってしまって、
さっと杖じゃないけれども、その場からちょっと
身を引いて、神様の方へ五井先生の方へ、
五井先生と言ってくれていいですよ。
 そうしたら、あなた自身がどんなに悩んで
いようとも、その時あなたは光になって、
光明の中へすっと入っちゃうんだから。

 光に対して闇は勝たないんです。そういう
訳で、我々はすうっと光を通しやすい。光を
通すということは、あなた達の運命修正を
しやすいんです。だから、あなた達がくよくよ
考えてね、どうにかして下さい。もう
どうなるんだろう。もうそういう嘆きがね、
本当に沢山の人のが聞こえて来るけど、
やっぱりそれはね、祈れば何とかなる。ご利益
みたいだけれど、そうではなくて、本当に
真実に預けて祈っていったら、自分が光に
なっちゃって、そうして、本当に真実の
一本のね、光り輝く光体になって、人連らなりの
生命になるんです。光明体になるんです。
 だから、その事だけを素直に無邪気に信じて、
そうして、何もかもね、五井先生に文句もいう。
 文句を言うけども任せもするという生活を
していただいたらね、そうしたら皆が平和に
なっていくし、子供が出来る出来ないという
問題も、ただ単に念だけの問題じゃない。
 念すらも神様はちゃんとあずかって、それを
いいように消して下さる。前の前の世の中の分
まで消して下さる。そして、未来に向かって
いいようにして下さる。ということをあなた方は
覚えて、ちゃんと記憶をして、その上で、素直に
無邪気に祈っていただければと思います。

             昭和63年7月22日

臓器移植について

2012-09-13 09:27:29 | 癒し
 臓器移植が良いか悪いかということはね、今
日本の中で問題になって議論されている訳ですね。
 問題になってるというのは何が根元かというと、
愛するものと別れたくない、愛するものの体に傷を
つけたくない、という風なことねえ。つまり、
臓器を移植される側の人達の悲しみですよね。
 五体満足のまま焼いてあげたいとかですね。何か
そういう気持ちが日本人には非常に強いんです。
 これは、何の宗教を信仰しているとか何とか
じゃなくって、日本人の精神性といいましょうかね、
国民性といった方がいいかしら、そういうもの
なんですね。だから、自分の愛するものの臓器が、
例えば肝臓や心臓、腎臓というものが、何かの為
であるにせよ、ぼんぼん持ってゆかれる、傷がつく
ということは耐えられない気持ちがする。

 それと今は、人工的な、肉体の臓器じゃない
ものが発達を致しましてね、それが働きを
するようになる。そういうもの二つからめて考えて
いかないと、つまり、人工の臓器移植と、肉体の
人間の臓器移植と両方考えていかないと、いいか
悪いかという問題は駄目なんだということです。

 人間の生命というものは、我々から観ればずっと
生き通しのものなので、たとえこの世で区切られ
ても、次の世の中で、又次の世の中で、ずっと
神様の世界へ入り込むまで、生命というのは永世な
ものなんですけれども。しかし、まだそのことに
ついて迷いをもったりね、この世の中で死んで
しまえば終わりだとか、色々な悲しみや嘆きを
もってる人達の想いがある訳なんですね。そういう
人達からみれば、もうこの世で生命が終わりに
なるのに、そこで臓器移植をされてしまう、ねえ、
受ける方じゃなくて、されてしまうという悲しみが
ある。その空気がなかなかあって、受ける側は
それで生命が何とか助かるんだからいいけども、
される側の身になってほしいという気持ちが
拭えない訳なんですね。

 そして一方では、先っきも申しましたように、
臓器が人工的に出来るようになると、なかなか
これはね、肉体じゃないものが便利になったという
問題だけじゃなくて、我々のような立場から申し
ますとね、つまり、人間の内臓、心臓であれ肝臓
であれ腎臓であれ、あるいは脾臓であれ何であれね、
内臓にまで霊要素というものは入ってる訳なんです。
 だから、その霊要素というものが微妙に働いて、
我々の生命を助けてね、そうして、向こうの世界と
交流をして、神様の光をいただいて、色々なものが
合わさって、ついに光体が我々の奥の体に
入りこんで、それでもって我々の生命が
成り立ってる訳なんですよ。だから、人工的な
臓器移植がどんどん発達して行った時に、何か
それさえすれば生命が助かるとか、生き伸びる
とかと、簡単に生命というものを考えて
しまいかねないという怖(おそ)れが一方には
確かにある訳なんです。

 じゃあ、臓器移植は絶対駄目かというと、
そうじゃないんですよ。例えばね、交通事故
なんかでね、誰にも働いて欲しい、もう五十や
六十でこんな事故なんかで向こうの世界へもって
いかれるのは、皆の為にも個人としてのその人の
運命を考えてもね、とてもたまらないという
場合には、守護霊様守護神様よろしくお願いします
と言ってですね、そして、臓器移植でも何でも
やって、何とかこの人の運命も、この人に関わる
色んな人達の運命修正も、この人を通してこの器を
通してさせて下さいと、皆やっぱり祈ると
思うんです。そういう臓器移植がね、やっぱり
ないとはいわない。

 ただ私が申しますのは、それが一人や二人ならば
いいんですよ。一人や二人ならば、そういう祈りに
満ちた、皆の祈りに支えられて、たとえ肉体の臓器
移植であろうと人工の臓器移植であろうと、そこに
霊要素的なものが加わって、本当の意味でその人が
真実に生きるというところへ持っていかされるし、
又そうなってるからいいんだけれども、これが
本当に今のようにね、イギリスに行かなきゃ
ならない、オーストラリアに行かなきゃなんない
という風な形で、皆が病んで病んで、たとえそれが
解決され進んでいったとしたところで、本当の
意味で、生命への畏れがなくなって来た時に、
それがこわいという問題が一つある訳です。
 そうして、我々の立場からすれば、我々の生命の
元が何処にあるかということを、その大元を考える
ことを忘れたら、これは、臓器移植是か非か
という問題と同じ次元で議論しなきゃならなく
なる訳です。

 我々の生命というのは、絶対な神様の愛、生命
から分かれてきてるものなんですね。神様以外から
この生命というものは出て来てないんです。世界
人類どの人一人とってもね。例え、世の中にとても
貢献をしてる人も、あんな人がと思うような人の
生命であってもね、裡(うち)の本心本体という
ものは、皆神様から分かれて来ている。だから
そういう意味で言えば、皆神の子供でしょう。
 そういう分け隔てのない公平な本心本体を
もってる、生命をもってる、我々の大元、それは
何から来てるか、それは神様からなんだ、神様の
愛なんだと。何度もくり返して申しますけど、
我々は神の分生命であって、我々はこの
地球世界の運命修正というものを、それぞれの
持ち場持ち場でさりげなくやっていかなきゃ
なんない。そういう大きな大使命みたいなものを
おびて、この肉体をまとって、ここへ生きて存在
してる訳ですよ。だから、そういう大使命
といいますか、何でこの世の中に、人間が何処
から分かれて何の為に生きてきたか、何の為に
分かれて来たか、その根っこは何なのか、という
ところをね本当に謙虚に見つめ直した時には、
そこに怖れ畏みが出てくるんです。慎みが
出て来て、祈り心が出てくる訳なんです。

 ところが、今の臓器移植の是か非かという
問題はね、そりゃあ色んな宗教家とか、日本人の
倫理観とか生命観とか、風土の違いとかね、色々
議論しておりますけれども、良いか悪いかの問題
だけでこれは決められる問題じゃない訳なんです。
 良いか悪いかから出発して、いけないとは
言いません。何故かというと、人間というのは、
良いか悪いかから出発しないと、悲しいことに
深いところへはなかなか行けないものでして、
そこから何か侃々諤々(かんかんがくがく)の
議論が始まって、随分曲がりくねって、やっと
深いところへそれぞれが到達するんです。だから、
今の議論が悪いとは言いませんけど、今の議論
というのはイエスかノーかなんですね。良いか
悪いかだけで片づく問題ではないのに、良いか
悪いかの次元でやってる空気では困るんですね。

 実は、臓器移植がどうのこうのというよりも
前に、我々はこういうもっともっと深いところを
見つめて、その上で自分の存在の根元を何処に
求めるか、それは神に求めるんだ、神様の愛に
求めるんだという、その深いところを見つめた
人たちが、こういう是か非かだけで侃々諤々
やってる空気の流れをね、もっと愛のある光のある
平和に満ちた空気の流れに変えていかなきゃ
ならない。本当のところを言えば、我々のなすべき
仕事というのはそれなんですよ。臓器移植という
ものは、本当に必要があって、その人の運命、
生命に、あるいは器にとってそれがその時必要
であれば、神様というのは何が何でも臓器移植を
させると思うね。あるいは、させられる人も
する人も決まってるかもわからない。だけども、
私がここで言いますのは、そういうことによって
人間という尊厳に満ちたこの存在がね、つまり、
神様というもの、その根っこのところ親のところ
大元のところを忘れ果てて、何か品物を交換する
みたいに生命というものがただ単純に連らなって
いるんだ、という風に思ってしまったら考えて
しまったら、非常に恐いことになる。だから、
そういう風潮になるのをくい止めていくというか、
くい止めるその空気をつくる、それが我々祈りの
同士のやはり役目なのではないかと。

 本当に世界が平和に調和した時には、臓器移植を
例えすることがありましてもね、する方もされる
方も、本当にありがとうございますと受けとってね、
それから、された人の方の記憶というのもね、した
方の記憶というのも、それぞれの子孫につながって
行きますよ。今は、どうしても我々は、健康に
なった人の方の生命、生活という方をやっぱり
覚えていきましょ。ね、心臓や肝臓の提供を受けた
あの人のおかげで、私の夫、子供の生命が助かっ
たんだと最初は思いますよ。で、忘れにくいとは
思うけれども、しかし、それで元気になってる
我が子や主人とか娘や息子とか見てゆく内に、
やっぱり、その人の為にその臓器を提供して
くれた人の、それまで生きた生命の過ぎゆきとか
などは何処かにいっちゃって、目の前の人が元気に
なっていく、それだけの人間になっていく訳
なんですよ。そうじゃない、やっぱりそれを提供
してくれた人達への感謝尊敬、怖れ慎み、祈り、
そういうものがあって、その人の天命を祈るという
広い気持ちがあって、それでこそ本当に臓器移植
というものが完成される。それがちゃんとなって
いけばですよ。そんな空気がちゃんとなって
いけばね、なるんでしょうけれども、今はまだ
そんな深いところまでの議論になって
いないんです。

 だから、この問題というのは全く是か非かの問題
じゃなくってね、何かそういう人間の深い生命の
根元というところを見極めるところまで、人間の
眼差しがですね、本心がですね、そこへ到達した
時に初めて解決が出来る問題であって、我々は
じゃあ何をすればいいかと言えば、そういう空気に
なるように、我々の祈りの光を、世界人類が平和で
ありますようにという光をですね、そこへ持って
いかせる。そこへ届くように、守護霊様守護神様
神様お願いします。ね、調和のある平和な世界に
して下さい。その為に、我々の生命も、今死んで
いこうとしている人も生まれて来る人も、死に行く
人、生きようとしている人、ありとあらゆる色んな
人の生命が、それぞれの場所において、その
根っこの深いところでちゃんと役に立ちますように。
 そういう祈りをですね、やっぱり我々は、
世界人類が平和でありますようにというあの真言の
中で、祈りの中でね、光明真言の中でちゃんと
果たされていくように、おもいを集めて祈りを
集めてやっていかなきゃいけない。それが我々の
努めなんでありまして、これは良いか悪いかの
問題ではない。そういう次元で解決するべき問題
ではない。

 我々人間というのは、野蛮時代は過ぎて
おりますからね。その過ぎていってるというのは
確かなんです。だからこそ皆、世界平和の運動が
どんどん世界へ広がって行って、今、国連で
ピースセレモニーをやろうというところまで
来ている訳ね。それは実現してゆくでしょう。
 段々運動だけが宗教色を抜いて広まっていく
というのも、つまり、人類のね、人間の本心という
ものを呼び醒ます為の先駆(さきが)けなんですから。
 で、先駆けというのは、私はここで一言
申しますけど、我々は祈りの先兵ではあっても、
だから我々が世界人類の中で選ばれたものなんだと
思っちゃうと、これはいけないんですよ。これは
ちょうどね、ユダヤ教が言ってますけれども、
メシア思想というのがあって、我々は神に選ばれた、
父なる神に選ばれた、世界中でたった一つの
イエスの民族だという選民思想があって、彼らが
驕(おご)り高ぶった為に、彼らは色んな苦労を
なめますね。色んな禍とみえるものを神様が下して、
そうして、キリストをおつかわしになって、神様が
というところまでものすごく時間がかかってましょ。
 随分時間がかかってますよ。愛なる神の本来の
姿を出すまでにものすごく苦労されたわけ。
 だけども、我々は祈りの先駆けであるというのは、
そういう意味で驕り高ぶっちゃったら、あれと
一緒になっちゃう訳なんです。人間が驕り
高ぶったら、神性がね、神様の性質、真実の性質、
それが自分たちの中にちゃんとあるのに、それが
輝かないで、私が私が、我が我がと我の世界が
固まって、そうしてそれが業をつくっちゃって、
どうにもならなくなっちゃうわけ。動けなく
なっちゃうわけ。そうじゃなくってね、我々は
そういう空気をつくらせていただく。そういう、
おまえ先にちょっとやれと言われて、それで、ハイ
と言って神様に仕えて人に仕えてやっていく。
 謙虚に自分を見つめ人を見つめ、人の心を見つめ
本心を見つめ、本心を掘り下げてね、そうして、
真理を喜んでね、光明というものを喜んで、
神様の愛、み心というものを喜んで、そうして
働いていく。そういう意味の先兵なんです。

 だから、我々に今一番必要なことは、私をはじめ
として、みんな神様の前に、神様のみ心の前にね、
謙虚にならなきゃいけないということなんですね。
 神様、どうぞあなたの前に私を使って下さい。
 私は生きてる時に何のとりえもなかった。だが
神様に素直になって、神様あなたに私の生命を
差し上げます。だからあなたの思うようにして
下さいという風に私はあげちゃった。だから、私は
磔(はりつけ)になったのと一緒ですよ。キリストの
磔と一緒なのね。だから皆の、五井先生
どうしましょう、五井先生なんてことしてくれたん
ですか、こんなことがあるじゃないですか、と
いって皆の苦を私は受けとめて、今、法身になって
ますから、今、肉体を離れてますからね。光に
なってますから。だから、それをちゃんと光に
かえて、前よりはもっともっと流しやすく
なってます、光を皆のところへね。だからといって、
じゃあ私のようにしなさいと言ったって、そんなに
なかなか捨てられませんよ。皆仕事を捨てて家族を
捨てて、何ものも捨ててただ一つの為にやって
いきますなんて、そりゃあ出来ないです。ね、
なかなかそりゃあ生活というのは大事なんです。

 だから、捨てるということはなかなか皆出来ない。
 しかし、その空気をつくるということは出来る。
 私の愛する者から私を離れさせないで下さい。
 それは人間の真実の叫びなんだけれども、そこ
だけに執着しちゃうと、本当の意味で皆の人類の
天命が完う出来なくなっちゃう。空気が清らかに
なって、そういう想いも慰めて励まして、そうして
さらに浄めてね、是か非かだけの問題ではなく、
我々だけが救われるとか、あの人だけが救われる
とか、その問題だけじゃなく、あの教義の中に
あるように、個も救われ人類も救われるね。
 そうして、皆の想いを消してゆく。大きな光明体
なんだから我々は。そういう自分が自分の中へ
本体の中に眠ってるということ。この肉体の奥に
そういう自由な体が心があって、我々の
その気持ちを励ましているということ。神様の愛が
我々を励ましているということを
おもい知ってですね、そしてそこで、祈りを
ちゃんと心を込めてやっていけばなるんですね。

 信じなきゃ駄目。信じてやっぱりやって
いかなきゃ駄目なんです。どうしても皆信じる
気持ちがねえ。私なんかが信じたって、
私一人が・・・と、あの先生のあの信仰は
素晴らしいけれど、私なんかの信心はとね。
 そうじゃないのね。法然に、ある時ある人が、
その辺のおじさんかおばさんかだったと思いますね、
法然さん、私は南無阿弥陀仏言ってる時に雑念が
出てしょうがないんだけれど、こんなんでも
阿弥陀さんの浄土に通じてるだろうかと言いますよ。
 そしたら、おまえもそうかわしもそうだと言った
というじゃないのね。皆そうなんです。皆肉体が
苦しみながら悩みながら、祈る時にね、やっぱり
それはそのままでいいんです。その肉体だけが
祈ってる訳じゃない。あなた方の霊体、神体、神界
に満ちる全部、本来の自己、真実の自己という
ものがそこで合体してね、真実の祈りを宣り出して
一緒になって、見えないけれど一緒になって、
光になって光明体になって祈ってるわけ。だから、
そのことを信じないといけない。

 で、人間というのは、本当はそういう存在が人間
なんですよ。この肉体をかぶって生きてる、飲んで
食べて眠ってというのは、それが人間だというの
じゃないわけ。我々は、地球世界に降りてきたのは、
そういう空気を早くこの地球世界に造らないと
いけないという、神様のみ心で我々はここへ降りて
来てやってる訳なんです。でも、そんな大きなこと
言ったってね、そんな深いこと言ったって、皆
ぴんときませんよ。だから今、そこまで考えなく
てもいいから、皆がそれぞれの持ち場でね、誠実に
真実に私の小さな祈りを受けて下さい、そういう
つもりで、世界人類が平和でありますようにと
祈ってごらん。そうしたら、皆が世界人類の中へ
入っちゃうんですよ。あなた方が、自分の体で心で
感じなくったってね、本当に祈りの光明体の中に
自分が入って、霊団の中に入って、あなた方が光の
一筋になって、ちゃんとやっていくんです。
 それは、私はこっちから見てるんです。

 あなた方の光が皆かけ回って、そういう屈折した
色んな人の想いだとか、悲しみだとかを浄めてね、
そうして、その空気を清らかにしていくのは、
こっちから見えてるんです。だから、皆が、
私なんか私なんかというのはね、それは私は
卑下高慢というのね。私はちゃんとうたにも詠んだ
と思うけれども、ああいう卑下高慢は
いけないんですよ。肉体の私を私と思ってる間、
私は出来ないんです。だけども、肉体の私は私じゃ
ない。本当は、その真実の奥に、つき動かしてる、
神様の生命に輝いてる自分自身がある訳だから。
 そして、それは何の我も苦しみもない自分がある
訳なんですよ。それを自分の中に、我々は一つずつ
皆奥に持ってるわけ。

 だから、それを眠らせちゃあもったいないのね。
 みんな、自分が働けないと思っても、自分が
眠ってる間に、その真実の体はね、あなた方の
肉体を抜け出して霊界へ行って、その持ち場で
みんな働いて帰って来るということを眠ってる間に
やる訳なんですよ。何故眠ってる間にやるか
というとね、色んな理由があるけれど、第一に、
自分の中の私なんか私なんかという、そういう
我を取り除けるんですよ。
 眠ってる間、そういう意識が働かないから、
自由になって自在身になっていけるわけ、それが
目覚めてる時でも、私でもそうなるんだなと素直に
思ってしまえればね、それは見えるとか見えないの
問題じゃなくって、本当にあなた方が光になって、
私たちが光になってやっていけるんです。

 そうすれば、人間が肉体を持ったまま霊人に
なる時が来ますよという、私の言葉があるけれども、
あの通りなんです。我々は今でも肉体を持った
ままで霊人なんです。立派な霊人なんです。ただ
その自覚をどこまで深めて、そうしてその自覚をね、
把われにしないで我にしないで、それじゃよろしく
お願いしますという、そのお任せの心でしていくか、
いただき直しの生命にしていくか、それなんですよ。

 だから、臓器移植の問題とか色々言うけれど、
ヨブ記にあるように、神様がとろうと思えば、
この瞬間でもあなた方の生命はとれる。霊界移行
させようと思えばいつでも出来るんです。向こうで
働くことになる。それが本当に神様のみ心ならば、
そうなるんですよ。

 だけども、今ここで生きてね、何か働いて、存在
してるということは、この世の中であなた方が
やらなきゃいけないことが一杯ある訳ね。まだある
訳なんです。だから、色んな苦しみがある
だろうけれども、しかし、そこであなた方が
しなきゃいけないと言うのは、とに角、私も含めて、
我々のまわりの空気を清浄にして下さい、
世界人類を平和にして下さいといって、本心から
祈っていく時に、本当にこの世の中は浄められて
いくんです。その浄められた空気が宇宙全体にまで
広まって、宇宙の平和にも貢献してゆくんです。
 愛と美と真と秩序と、平和による秩序が宇宙の
秩序なんですから、そこへ皆、その大河の流れの
中へ皆入っていく訳なんです。

 だから、そのことをちゃんと信じて、それだけを
祈っていけば、臓器移植は本当になるべくして
なる時にはなるでしょうし、臓器移植なんか
しなくても、本当の意味で、肉体の生命も伸びて
いく、天命も伸びていく、ね、この世の中で執着
するという訳ではなく、この世の中で果たして
いかなきゃいけない事があって、あるいは愛情が
あって、神様もうちょっと生かして下さい
と言ったら、向こうの神霊方が、あそうか
それじゃあ半年向こうの霊界へ移行するのを
止めようかといって、半年伸びるかもしれない。
 そういう期間が必ず平和裡にやって来るんです、
ただ、今はそこへ行くまでに皆もがいて
いますからね。もがいているから、その苦しみを
皆分かち合ってそれを取るように、取り除くように、
それが苦にならないようにしていかないといけない。
 淀んだ空気になってしまっては駄目なんですよ。
 それになったら、本当に把われになって我に
なって苦になるから。
 だから、そうならないように、我々は本当に
一筋に、世界人類が平和でありますようにという、
それをお題目のように唱えて唱えて唱えきって、
光になって下さい。そうすれば、もうこの問題は
是か非かを乗りこえてしまって、人間の本来の
生命への尊敬、ね、色んなところへ、この肉体を
持ったまま我々は霊人になるべく、それぞれの
意識が働いていくと思います。その為に皆
働いて下さい。
             昭和63年7月22日

世界平和の祈り

2012-09-12 08:25:55 | 癒し
 もう何十回何百回か知りませんけれど、
世界平和の祈りについては申してまいりましたけど、
まあこんなに分かり易い祈りはない訳ですね。
 真理の祈りといってもいいけれども、まず現代、
この祈りに反対する人がない。

 たいてい宗教宗派の祈りというものはね、
何か一つこれを拝まなきゃ駄目という風な形で
出発しちゃうから、そこに把われが
出来るんだけれども。

 世界人類が平和でありますようにというのは、
これはもう大本心の祈りですね。そして、神様の
祈りですね。

 これに反対しようと思ったって、これに反対
する人はなかなかないんですよ。だから、うまく
考えられた祈りですね。
 考えられたというよりも、神様方の御心を
現わした祈りですね。そういう意味で、これは
真言だけど、神様の言葉でもあるし、真実の言葉
でもあるけれども。

 しかし、やっぱり皆それぞれに宗教宗派という
ものを、日本という国は特にもってますからね。
 曹洞宗だ浄土宗だ浄土真宗だ、キリスト教だ
創価学会だ金光教と、あるでしょ。

 それぞれに皆、祈ってきた対象、祈っている
対象、自分はこっちを祈っていても他の人は別のを、
というのはある訳ね。その時に、何が何でも
世界平和の祈りと言わないことです。

 世界平和の祈りというのは、何も強制しなくても、
すっとその人の本心の中へ入っていくもの
なんですね。これを広めないと、広めないと、と
やってしまうと、ピースポールは立つかも
しれないけども、祈りは深まっていかない
ということに、極端に言えばなるんですよ。

 でも生身の人間というのは大事なんです。その
気持ちというものも大事なんです。

 気持ちの流れというものをくまないと、我々
生きてる人間関係というものは、この世の中では
ありますからね。

 その中で、世界平和の祈りというものの
素晴らしさとか本質とかいうものを知らせて
いこうと思えば、まず世界平和の祈りが
ありますよ、ありますよという風なことを
言わないでね、やっぱり和顔愛語で人に接して
いってね、そうすると、ああこの人のやさしさ、
この人の深さは何か違うなあというようなものを、
神様の方が感じさせて下さるんですよ。

 で、それを皆が感じとって、ああこの人何か
あるなあという風になれば、やっぱり聞いて
きますよ。

 五井先生の本でも誰の本でもね、体験談の
ものでも、渡してもらえばね、あとはこっちで
スイッチを切り換えますから。そうしないとねえ。

 日本というのは特に宗教の国ですけどね、
霊(ひ)の本(もと)という位で。

 本にも書きましたけど、要するに、霊的に
指導者の立場にならないといけないのが日本人
だけれども、それは気負いたってなるんじゃ
ないんです。いつの間にか染みわたるように、
本心の流れが皆の中に染みわたるようにね、
そういう風に導いていく。

 そういう役割を日本人がもってる訳です。日本人が
もってるの。だから、その流れに逆らった時にはね、
つまり、強制したりするようになった時には、
せっかくこのものすごい光明真言である祈りが、
その大光明が発揮できなくなっちゃう。

 こっちの光の流れは止まらないんですよ。全然
遮(さえぎ)られないけれども、それを受ける人の
想いに何かわくが出来て、そうして、受け入れ
られないという拒否の想いがきた時には、
その光がすっと降りていけなくなるんですね。

 だから、その人の立場、年齢、経験、その人の
家の宗教、何をその人が信じてきたか、信じて
こなかったか、そういうものまでずっと心を配って、
その上で伝えていくということがないとですねえ。

 私なんか、まず話を聞きますよ。もちろん祈りが
一番大事だけれども、祈りをしましょうかとか言う
より前にね、祈り心でもって、その人の悩み苦しみ
というものをずっと聞いていくんです。

 すると、聞いてもらうと、人間というのはねえ、
静か心というものが生まれて来て、そうして、ああ
良かったなあ、聞いてもらえて落ち着いたなあ
という気持ちになってくるんです。そういう
やさしさといいますかねえ、労わりがないと、宗教
というものはね、じわじわ染み込んで
いかないんですよ。

 宗教というものが、生きてる人間を尊敬しない
ものだったら、これは何にもならない。害するもの
だったら何にもならないんです。戦争するような
宗教だったら何にもならないでしょ。

 宗教というものはね、やっぱり自愛他愛の宗教
じゃないといけない。

 自分を愛し、人を愛し、自分をゆるし、人を
ゆるし、でないと駄目なんです。

 人の生命を尊敬するということは、その人の
立場をまず認めてあげる。

 その人の立場をまず受け入れて、それから
話をする。それにはねえ苦労がいりますよ。洞察も
いりますよ。色んなことがいるけれども、やっぱり
私達には限界がありますね。

 だから、祈って祈って、守護霊様、守護神様、
五井先生、五井先生と呼んで下さって
構わないから、五井先生お願いします、神様お願い
しますと、祈り心でその人に向かい合うとね、
その人の今までは見えてこなかった、欠点ばかり
じゃない、弱さとか辛さとか苦悩だとかいうものが
見えてきて、ああこの人には上から物言っちゃあ
いけないなあとか何とか、守護霊守護神が知らせて
下さる。

 だから、その知らせに従って、自分の心が唇が
動いていくようになっていくんです。それが任せる
ということになるのね。

 任せよう任せようと思っても任せられないんです。
 そんなことは一切抜きにしてね、ただふんわりと
座って、ああ大変だなと思いながら聞いてあげる。
 生身の一人の人間として聞いてあげる。

 そういう事がね、支部や集会という集まりをする
人達の、指導するあなた方の立場としては、とても
大事なことになってく訳ですねえ。

 我々は、神様によって生命(いのち)を新しく
されるし、心も新しくされるし、本心という
ものを磨いていただくんです。

 神様によって我々は生きてる訳だし、糧を
いただいてる訳で、我々の生死というものも、天命
というものも、神様が貫いてずっと見て下さる。

 その信仰の上に立ってね、そうして、色々な
ものは神様が与えて下さるから、その上で、
世界平和の祈りを唱えていく。

 世界平和の祈りの中に、日蓮もいれば親鸞も
法然もいる、あれは神様の寄り集めの所ですよ。

 あの祈りの全体というのはね。

 だから、どの宗教であっても、くっつけて
祈っても祈らなくっても、世界平和の せと言った
だけで、皆あの中に全部入ってるから、宗教を
超えちゃった祈りなんだけれども、やはり、その人の
立場の尊敬、生命の尊敬というものを一番にしてね、
あなた方は、その上で自分を磨いていくという
ことから始めていかないと、上から物言うとね、
相手の心を萎びさせちゃうことになる。

 初めから難しい課題を出したって、人間
というのはやっぱり駄目なんです。1+1=2から
始めないとね。あるいは、1の前はゼロがある
という、ゼロ以下のところで苦しんでる人が
沢山いるの。

 だから、そこへ百をもってきても駄目なんですね。
 いきなり百を解けといっても、ゼロ以下の
ところで喘いでる人にね、百のところまで登って
おいでといっても無理なんです。

 ただ世界平和の祈りというのは、その百の
ところまで、あるいは千のところまで無理なく
背伸びなく、すっとゆける。

 光の集まり所だから、そういう祈り
なんだけれども、そこへ導く為にもね、一旦は
生身の人間の憂い辛さの所に立って、そういう所へ
降りて、苦労をして、その上で共感をして、
そうして大変ですねと言った末に、自然に
皆さんで、では世界平和の祈りをしましょうか
と言って統一が出来るように、そういう
雰囲気づくりをしてゆく。ね、ここは本当に雑談の
場でいいんですよ。悩みの捨て所であって
いいんです。

 そういう所から、人生の苦労というものの諸相が
見えてくるし、生きるということの大変さもねえ、
又色んなことも見えてくるし分かってくるしね。

 これも我々の修行なんです。

 だから、全部神様が備えて下さるから、神様に
任せて、そうして祈って頑張ってやっていって
下さい。
             昭和63年8月26日

世界平和の祈り言なくしては 我々の進化も地球の大転換も成されてはゆかない

2012-09-11 09:47:54 | 癒し
ちっぽけな
人間
というのは
それは
肉体人間の
おもいが
つくり上げた
すがたです
人間というものの
広大さを
みんな
しらないのです

祈ってごらんなさい
そうすると
ゆたかに
無限にひろがってゆく
自分が
展開されて
ゆきますから

人間は
神につらなり
むすばれている
いのち
なのです
ですから
神の
こころを
一人一人が
この身に
うつして
生きている
といっても
いいので
あります

祈りによって
内側から
かえられてゆくとき
つまり
本心がひらき
みなさんの
霊性が
開発されて
ゆくにしたがって
それぞれに
余計なことを
おもわなくなって
きます
あれこれと
思いわずらわなくても
私たちは
必要に応じた
態度を
その
時々に
折々に
とることが
できるように
なってゆきます
かろやかに
生きることが
できるのです

世界平和の祈り
というのは
全託のこころを
そだてるための
全託行
です

この世で
もっともやさしい
全託行ですから
うしろの人に
任せて
五井先生に任せて
この祈りを
となえてゆけば
いつの間にか
明るい
自分が
あらわれてくる
天命そのものが
あらわれて
くるように
なるのであります

そうして
この天命というものの
なかに入って
祈れば祈るほど
それは
すきとおった
いのちそのもの
久遠のいのちのながれ
そのものの
世界へと
のぼってゆく
ことに
なるので
あります

そして
しまいには
のぼるものぼらないもない
自分というもの
さえきえて
ただ
光ばかりが
ながれている
そういう
無碍の世界へと
我々は
かえって
ゆくのであります
もともと
我々は
そうした
存在であったのであります

人類の進歩のために
多くの先人たちは
地上で
汗を
ながしました
そして今
永遠の人類の
進化のために
神は
無量の
光明を
私たちの
上に
なげかけ
つづけて
おられるのであります

消えてゆく姿で
世界平和の祈りは
こうした
神の
無量の光明を
私たち
一人ひとりが
その身に
本心に
しっかりと
うけとめるための
愛の
祈りであり
光の
祈り言なのであります

世界人類が平和でありますように
この祈り言なくしては
我々の進化も
また
地球の
大転換も
成されてはゆかないのであります

なぜなら
無量の愛こそが
この世界を
人類を
真実の
平和に
目覚めさせ
宇宙の
秩序へと
参加
させる
ものだからであります

人間の真実の生き方は
一人ひとりのなかに
神性を
やどらせている
神の光を
宿らせている
我々自身を
さらに
神をしたい
神を求め
より高い
大愛を
世界平和の祈りのなかに
もとめながら
さりげなく
生きてゆく
ことであります

そのとき
我々のいのちは
神のなかに
あり
天命のなかに
人間が
神にむすぶ
いのちで
あることの
本当の
すがたと
よろこびとを
しることが
できるのであります

どうぞ日々
祈りのなかに
生きるあなたがたで
あって下さい
         平成2年3月10日 第20巻 了