【きのふけふ】
僕が長年、やつて來た事と云へば、何だらうか、と考へると、中學生の時に太宰治の「人間失格」を讀んで以來、文學をやつて來たと云へるかも知れない。
評論に本格的に註目したのは、大學を出て後である。福田恆存、小林秀雄、松原正、留守晴夫さんと讀んで來たのは、書籍をとほしての偉大な先生達との出會ひだつた。
本を書いてゐる人は、この世界に星の數程ゐる。そんな中で、之程に立派な先生方と書籍をとほしてお會ひ出來た僕は、何て幸運な人間なんだらうと常々思ひます。
然も、松原さん、留守さんとは大學が同じだし、キャンパスさへ同じだつた。在學中にお會ひ出來てゐたらと思つた事はあるが、それは餘りにも贅澤な希みかも知れないし、早大生だつた僕は餘りにも若過ぎたから、先生方に會つてゐたら、反撥してゐたかも知れない。
人間は會ふべきタイミングで會ふとよくSNSで語られるが、それは本當の事かも知れない。出來れば、とある先生には、それでも實際にお會ひしたいのだが、中々、叶ひさうにない。
それにしても、先月、櫻臺のとある理髪店に行つたが、矢張り、一般的な人達の認識として、文學とは小説の事らしい。評論や批評と云ふのは、中々、世に受け入れられないのが現状のやうだ。眞つ當な評論と云ふのは、優れた創造だと云ふのに!