【「快樂と幸福」/福田恆存著「私の幸福論」(ちくま文庫)】
標題の章から文章を引用します(原文は略字新假名)――。
といふのは、將來、幸福になるかどうかわからない、また「よりよき生活」が訪れるかどうかわからない、が、自分はかうしたいし、かういふ流儀で生きてきたのだから、この道を採る――さういふ生きかたがあるはずです。いはば自分の生活や行動に筋道たてようとし、そのために過ちを犯しても、「不幸」になつても、それはやむをえぬといふことです。
私はいま「自信」と申しましたが、それは結局は、自分より、そして人間や歴史より、もつと大いなるものを信じるといふことです。それが信じられればこそ、過失を犯しても、失敗しても、敗北しても、なほかつ幸福への餘地は殘つてゐるのであります。この信ずるといふ美徳をよそにして、幸福は成り立ちません。もちろん、自分を「不幸」な、あるいは「不快」な目にあはせてゐる人間を、私たちは直接に信頼することはできない。ですから、私たちはかれらと戰ふでせう。が、それで敗北しても、あるいはその「不幸」な状態をすこしも改良できなくても、人間といふものを信じてゐなければならない。といふのは、最後には神を信じることです。私は別に何々教といふものを意味してはをりません。が、特定の宗教に歸依できなくても、さういふ信仰は誰しももてるものではないでせうか。
自分や人間を超える、より大いなるものを信じればこそ、どんな「不幸」のうちにあつても、なほ幸福でありうるでせうし、また「不幸」の原因と戰ふ力も出てくるでせう。もし、その信仰なくして、戰ふとすれば、どうしても勝たなければならなくなる。勝つためには手段も擇ばぬといふことになる。しかし、私たちは、その戰ひにおいて、始終、一種のうしろめたさを感じてゐなければならないのです。なぜなら、その戰ひは、結局は自分ひとりの快樂のためだからです。あるいは、最後には、勝利のあかつきに、自分ひとりが孤立する戰ひだからです。さういふ戰ひは、その過程においても、勝利の時においても、靜かな幸福とはなんのかかはりもありません。
まづなによりも信ずるといふ美徳を恢復することが急務です。親子、兄弟、夫婦、友人、そしてさらにそれらを超えるなにものかとの間に。そのなにものかを私に規定せよといつても、それは無理です。
――引用をはり。超自然の存在である絶對者に關する信仰が私達日本人にはないとしても、部分である私達一人一人も、全體に通じてゐると云ふ實感は持ち得る筈です。