先日の東京行きでの食事――神保町のキッチン南海でひらめしやうが燒きライス
先日の東京行きでの食事――ラーメン二郎三田本店で小豚
青春
世の中では、不惑抔と云ふが、そのくらゐの歳になつて、やうやく、少しは人生に就て、考へるやうになつた氣がする。尤も不惑抔と云ふ歳になつても、惑ひ續けてゐる者が、得てして、責任者になつてゐ、責任を取れないのが、この世の一幕であつたりする。歳を取るのは、やはり、嫌なものです、と云つたところ、それは違ひます、歳を重ねるのですわ、と若い人が云つたけれども、その若い人にいはせれば、私は大學生のやうに見えるのだと云ふ。然し、私は、決して無責任でも、未熟でもないと自負してゐるし、その事は、多分、恐らく、若い人も首肯してくれる事と思ふ。ぢやあ、何故、私は大學生のやうに見えるのだらうかと云へば、大學を出て大分經つといふのに、尊敬する先生方に肖らうとしてゐるその理想ゆゑに相違ない。仕事が、すなはち、學問や文業であればいいが、大半の人間にとつての仕事とは、さういふものとは懸け離れたもので、日々の讀書さへも儘ならない。小林秀雄は、還暦になつて、自分の青春はをはつたと書いたけれども、今もなほ、この私が大學生のやうであるとしても、現實的な仕事を選び、出來る限り繼續して行くしかない。
世の中では、不惑抔と云ふが、そのくらゐの歳になつて、やうやく、少しは人生に就て、考へるやうになつた氣がする。尤も不惑抔と云ふ歳になつても、惑ひ續けてゐる者が、得てして、責任者になつてゐ、責任を取れないのが、この世の一幕であつたりする。歳を取るのは、やはり、嫌なものです、と云つたところ、それは違ひます、歳を重ねるのですわ、と若い人が云つたけれども、その若い人にいはせれば、私は大學生のやうに見えるのだと云ふ。然し、私は、決して無責任でも、未熟でもないと自負してゐるし、その事は、多分、恐らく、若い人も首肯してくれる事と思ふ。ぢやあ、何故、私は大學生のやうに見えるのだらうかと云へば、大學を出て大分經つといふのに、尊敬する先生方に肖らうとしてゐるその理想ゆゑに相違ない。仕事が、すなはち、學問や文業であればいいが、大半の人間にとつての仕事とは、さういふものとは懸け離れたもので、日々の讀書さへも儘ならない。小林秀雄は、還暦になつて、自分の青春はをはつたと書いたけれども、今もなほ、この私が大學生のやうであるとしても、現實的な仕事を選び、出來る限り繼續して行くしかない。
先日の東京行きでの食事――としをか(としおか、新宿區辯天町、早稻田)で鹽ラーメン竝
鹽ラーメン
我が母校、早稻田大學戸山キャンパス
鹽ラーメン
我が母校、早稻田大學戸山キャンパス
先日の東京行きでの食事――日本一の豚カツ成藏(成蔵、高田馬場)でディナー
年に一度の成藏だから、どうしても看板メニューのシャ豚ブリアンを食べて了ふが、次に來る事があれば、ロースを頼まうと思ふ。勿論、相變らず、シャ豚ブリアンは旨いのだけれども。二人以上で來店するならば、シャ豚ブリアン(ヒレ)とロースとを兩方共に頼んで、シェアするのが正解だらう。
白ワインと定食につく小鉢
雪室熟成豚のシャ豚ブリアン定食
高田馬場驛前
年に一度の成藏だから、どうしても看板メニューのシャ豚ブリアンを食べて了ふが、次に來る事があれば、ロースを頼まうと思ふ。勿論、相變らず、シャ豚ブリアンは旨いのだけれども。二人以上で來店するならば、シャ豚ブリアン(ヒレ)とロースとを兩方共に頼んで、シェアするのが正解だらう。
白ワインと定食につく小鉢
雪室熟成豚のシャ豚ブリアン定食
高田馬場驛前
東京
毎年一度、それも偶々、十一月頃に上京してゐる事になるが、その際には、東京都廳の眞横にあるハイアットリージェンシー東京を利用してゐる。
廣島から東京は、距離としては遠いが、精神的には近く感ずると云ふよりも、東京は、私の第二の故郷だと云へば、東京人から嗤はれるかも知れない。けれども、私の人格形成に深く關つたのは、東京であり、新宿であり、早稻田であり、早大である。
西新宿も思ひ出深い街である。
東京で孤獨を感ずる人も、少からずゐるのであらうが、私は、新宿や西新宿や高田馬場や早稻田を歩いてゐるだけで、生き生きとして來る。東京を歩くスピードと云ふものが、私にはよく合ふ。
上京と云へば、漱石の「三四郎」を聯想する人がゐようが、私が早大に入學した際も、當時の總長は、「三四郎」から引いてゐた。美禰子と「ワセジョ」を重ねるやうなイメージもあるが、實際、人間と云ふものは、そんな風にステレオタイプ化出來るものではない。
然し、今、私と會へば、私の外見的な變りやうに、失望する人もゐるかも知れない。尤も精神的には私は幾分か當時より増しになつたと思ふのだけれども、それでも未だ「坊つちやん」のやうな處がある。
HYATT REGENCY TOKYO
早稻田大學戸山キャンパス
大隈講堂
大隈重信像
毎年一度、それも偶々、十一月頃に上京してゐる事になるが、その際には、東京都廳の眞横にあるハイアットリージェンシー東京を利用してゐる。
廣島から東京は、距離としては遠いが、精神的には近く感ずると云ふよりも、東京は、私の第二の故郷だと云へば、東京人から嗤はれるかも知れない。けれども、私の人格形成に深く關つたのは、東京であり、新宿であり、早稻田であり、早大である。
西新宿も思ひ出深い街である。
東京で孤獨を感ずる人も、少からずゐるのであらうが、私は、新宿や西新宿や高田馬場や早稻田を歩いてゐるだけで、生き生きとして來る。東京を歩くスピードと云ふものが、私にはよく合ふ。
上京と云へば、漱石の「三四郎」を聯想する人がゐようが、私が早大に入學した際も、當時の總長は、「三四郎」から引いてゐた。美禰子と「ワセジョ」を重ねるやうなイメージもあるが、實際、人間と云ふものは、そんな風にステレオタイプ化出來るものではない。
然し、今、私と會へば、私の外見的な變りやうに、失望する人もゐるかも知れない。尤も精神的には私は幾分か當時より増しになつたと思ふのだけれども、それでも未だ「坊つちやん」のやうな處がある。
HYATT REGENCY TOKYO
早稻田大學戸山キャンパス
大隈講堂
大隈重信像
近代化、西歐化、和魂洋才、二本足の學者、そして私
前囘の續きとして書く――。
如何にも舊乃木邱の邸内が撮影禁止なのは當然である。
乃木大將が自刃した際の血塗られた軍服を間近に見、簡單な解説も、その場にゐた女性に仰ぐ事が出來たけれども、乃木大將が、明治天皇に殉じ、夫人が、乃木大將に殉じた、抔と云つても、今の若い人達は理解し難いに相違ない。かく云ふ私も、この事を、分つた心算になつてゐるだけかも知れないが、「今」に限らず、當時の文士達も、漱石や鴎外と云ふ例外は除き、理解し難いと發言してゐるのである。
その例外たる鴎外は、乃木大將の殉死に際して、自らの襟を正し、「興津彌五右衞門の遺書」を一氣に書上げ、漱石は、明治の終焉を感じ取り、「こゝろ」に於て、「先生」を明治の精神に殉じさせてゐる。
近代化とは西歐化であり、日本が、西歐の文明に逢著した行爲自體が、明治の精神と云へようが、和魂洋才の痩せ我慢とは長續きせず、吾國文學の批評に於ては、小林秀雄、福田恆存、松原正と時代を重ねるに連れて、和魂の殘滓はつひに地を拂つたやうに思はれる――尤も松原氏自身、生前は無魂洋才と現代日本を評してゐた訣だが――。
以前の記事に書いた事だけれども、私のばあひ、「それから」の代助が云ふやうに、日本對西洋の關係が駄目なのではなく、日本も西洋もないのである。と云ふのも、私には、明治の文豪程の漢文や文語文の素養がなく、それでゐて、英語はネイティヴのレヴェルとは程遠いからである。T.S.エリオットは、人間一個人は、同時に二つの文化に跨る事は不可能と語つたけれども、最早、私は、一つの文化に就いても、自國の文化に就いても半可通なのである。吾國に「二本足の學者」が必要である事は、鴎外も漱石も荷風も、吾國の優れた先達が認めてゐる處だが、それはエリオットに云はせれば、不可能な事である。が、不可能な事に挑まねばならないのが、後進國の宿命であり、そのやうな宿命とエリオットとは、無縁なのである。そのやうなエリオットであるからこそ、小林秀雄が松原氏に語つたやうに、贅澤な事を云へる(※1)のである。それは、保守すべき傳統が、エリオットにはあり、吾々にはないと云ふ彼我の質的相違に外ならない。何せ、今の日本人の多くは、唯一の文化である正字正假名さへも保守してをらず、それでゐて、保守派は、自らを保守派と稱してゐる訣で、日本が保守して來た事があるとすれば、それは自らの傳統文化を棄て續けて來た「傳統文化」なのである。
(※1)「福田恆存の思ひ出」『松原正全集第二卷 文學と政治主義』(圭書房)所收
前囘の續きとして書く――。
如何にも舊乃木邱の邸内が撮影禁止なのは當然である。
乃木大將が自刃した際の血塗られた軍服を間近に見、簡單な解説も、その場にゐた女性に仰ぐ事が出來たけれども、乃木大將が、明治天皇に殉じ、夫人が、乃木大將に殉じた、抔と云つても、今の若い人達は理解し難いに相違ない。かく云ふ私も、この事を、分つた心算になつてゐるだけかも知れないが、「今」に限らず、當時の文士達も、漱石や鴎外と云ふ例外は除き、理解し難いと發言してゐるのである。
その例外たる鴎外は、乃木大將の殉死に際して、自らの襟を正し、「興津彌五右衞門の遺書」を一氣に書上げ、漱石は、明治の終焉を感じ取り、「こゝろ」に於て、「先生」を明治の精神に殉じさせてゐる。
近代化とは西歐化であり、日本が、西歐の文明に逢著した行爲自體が、明治の精神と云へようが、和魂洋才の痩せ我慢とは長續きせず、吾國文學の批評に於ては、小林秀雄、福田恆存、松原正と時代を重ねるに連れて、和魂の殘滓はつひに地を拂つたやうに思はれる――尤も松原氏自身、生前は無魂洋才と現代日本を評してゐた訣だが――。
以前の記事に書いた事だけれども、私のばあひ、「それから」の代助が云ふやうに、日本對西洋の關係が駄目なのではなく、日本も西洋もないのである。と云ふのも、私には、明治の文豪程の漢文や文語文の素養がなく、それでゐて、英語はネイティヴのレヴェルとは程遠いからである。T.S.エリオットは、人間一個人は、同時に二つの文化に跨る事は不可能と語つたけれども、最早、私は、一つの文化に就いても、自國の文化に就いても半可通なのである。吾國に「二本足の學者」が必要である事は、鴎外も漱石も荷風も、吾國の優れた先達が認めてゐる處だが、それはエリオットに云はせれば、不可能な事である。が、不可能な事に挑まねばならないのが、後進國の宿命であり、そのやうな宿命とエリオットとは、無縁なのである。そのやうなエリオットであるからこそ、小林秀雄が松原氏に語つたやうに、贅澤な事を云へる(※1)のである。それは、保守すべき傳統が、エリオットにはあり、吾々にはないと云ふ彼我の質的相違に外ならない。何せ、今の日本人の多くは、唯一の文化である正字正假名さへも保守してをらず、それでゐて、保守派は、自らを保守派と稱してゐる訣で、日本が保守して來た事があるとすれば、それは自らの傳統文化を棄て續けて來た「傳統文化」なのである。
(※1)「福田恆存の思ひ出」『松原正全集第二卷 文學と政治主義』(圭書房)所收
舊乃木邸見學と中央乃木會への入會
今月の一日二日と上京してゐた。奇しくも(※1)、一日から三日のあひだ、舊乃木邸が公開されてをり、邸内を見學して來た。舊乃木邱に就いては、留守晴夫氏も評論「昔を今に爲す由もがな――『明治の精神』から林子平へ――」に於て、言及されてゐた事と記憶する。殘念ながら、邸内は撮影禁止であるが、禁止されてゐるのが當然であらう事は、常識的に考へれば分る事である。
乃木神社に於ては、中央乃木會入會に就いての告知があつた。その文章が正假名遣である事に好感を抱き、正會員となつた。會報誌「洗心」はその文章の殆どが正字正假名であるが、之は、この會の會長が小堀桂一郎・東大名譽教授であらせられる事が大きいと思はれる。
(※1)「奇しくも」と云ふのは、私のスケジュールがこの日にあつたと云ふ事で、明治節と明治節を控へる日々に、舊乃木邸が公開されてゐたのは、必然と云へるのではないか。
「洗心」本文、正字正假名。
「洗心」表紙。
「中央乃木會」封筒。此方も正字正假名。
舊乃木邸外觀。
乃木神社本殿。
今月の一日二日と上京してゐた。奇しくも(※1)、一日から三日のあひだ、舊乃木邸が公開されてをり、邸内を見學して來た。舊乃木邱に就いては、留守晴夫氏も評論「昔を今に爲す由もがな――『明治の精神』から林子平へ――」に於て、言及されてゐた事と記憶する。殘念ながら、邸内は撮影禁止であるが、禁止されてゐるのが當然であらう事は、常識的に考へれば分る事である。
乃木神社に於ては、中央乃木會入會に就いての告知があつた。その文章が正假名遣である事に好感を抱き、正會員となつた。會報誌「洗心」はその文章の殆どが正字正假名であるが、之は、この會の會長が小堀桂一郎・東大名譽教授であらせられる事が大きいと思はれる。
(※1)「奇しくも」と云ふのは、私のスケジュールがこの日にあつたと云ふ事で、明治節と明治節を控へる日々に、舊乃木邸が公開されてゐたのは、必然と云へるのではないか。
「洗心」本文、正字正假名。
「洗心」表紙。
「中央乃木會」封筒。此方も正字正假名。
舊乃木邸外觀。
乃木神社本殿。