人間に對する、自らに對するリアリズム
まづ斷つて置くと、私はピューリタンでも、カトリックでもない。然し、私は、人間とは、例外なく、不完全で、憐れで、悲慘な存在に過ぎないと考へてゐる。普通、さう云ふ風に實感する爲には、全智全能の絶對と云ふ存在を戴いてゐなければならない訣だが、私に絶對に對する信仰があるかどうかは定かではない。が、少くとも、自分なりに絶對を理解しようとは、思つてゐる。そんな私だから、この世に對して、肯定的には考へてゐないし、この世を信ずると云ふ事も、まづないし、この世や他者と云ふ以前に、まづ、私は、この自分と云ふものを信じてゐない。自分と云ふもの程、怪しい存在はないとさへ考へる。何となれば、人間は例外なく、不完全で、憐れで、悲慘な存在に過ぎないからである。それゆゑ、自らをより善くする爲には、自らに對して、批判精神を懷き、自らを少しづつ修正して行く事が必要と考へる。が、日本人の多くは、人間を、誰一人、例外なくして、信じ込み、人類と云ふものを信仰してゐる。そして、彼等は人間の不完全と云ふ事から、目を背ける。彼等には、リアリズムが決定的に缺けてをり、彼等は、ロマンティシズムに醉つてゐる。日本全體が、昔も今も、醉つ拂つてゐると見て差支へない。私は、精神に於て、歐米人でもなければ、日本人でもない。と、このやうに書けば、愚かな日本の政治主義者達は、「はゝん。こいつはきつと日本に住み、日本語を語つてゐるけれども、何だか怪しい日本語を綴るし、本當に日本人かどうか怪しい」抔と考へるに相違ない。全くの的外れである。私は出自としても、政治的にも、日本人であるし、正統表記(正漢字歴史的假名遣)を綴つてゐるのだから、文化と云ふ點でも、日本人である。が、日本人の歐米化と云ふ事を考へ、自らを實驗してゐる日本人である。然し、それでゐて、魂と云ふ考へに就いては、神道的な魂を信じてゐる。そんな私が、理解されると云ふ事は、まづなからう。と云ふ訣で、私は、自らの立場を絶望と評してゐる。この立場から、自らを向上させて行きたいと考へる。
まづ斷つて置くと、私はピューリタンでも、カトリックでもない。然し、私は、人間とは、例外なく、不完全で、憐れで、悲慘な存在に過ぎないと考へてゐる。普通、さう云ふ風に實感する爲には、全智全能の絶對と云ふ存在を戴いてゐなければならない訣だが、私に絶對に對する信仰があるかどうかは定かではない。が、少くとも、自分なりに絶對を理解しようとは、思つてゐる。そんな私だから、この世に對して、肯定的には考へてゐないし、この世を信ずると云ふ事も、まづないし、この世や他者と云ふ以前に、まづ、私は、この自分と云ふものを信じてゐない。自分と云ふもの程、怪しい存在はないとさへ考へる。何となれば、人間は例外なく、不完全で、憐れで、悲慘な存在に過ぎないからである。それゆゑ、自らをより善くする爲には、自らに對して、批判精神を懷き、自らを少しづつ修正して行く事が必要と考へる。が、日本人の多くは、人間を、誰一人、例外なくして、信じ込み、人類と云ふものを信仰してゐる。そして、彼等は人間の不完全と云ふ事から、目を背ける。彼等には、リアリズムが決定的に缺けてをり、彼等は、ロマンティシズムに醉つてゐる。日本全體が、昔も今も、醉つ拂つてゐると見て差支へない。私は、精神に於て、歐米人でもなければ、日本人でもない。と、このやうに書けば、愚かな日本の政治主義者達は、「はゝん。こいつはきつと日本に住み、日本語を語つてゐるけれども、何だか怪しい日本語を綴るし、本當に日本人かどうか怪しい」抔と考へるに相違ない。全くの的外れである。私は出自としても、政治的にも、日本人であるし、正統表記(正漢字歴史的假名遣)を綴つてゐるのだから、文化と云ふ點でも、日本人である。が、日本人の歐米化と云ふ事を考へ、自らを實驗してゐる日本人である。然し、それでゐて、魂と云ふ考へに就いては、神道的な魂を信じてゐる。そんな私が、理解されると云ふ事は、まづなからう。と云ふ訣で、私は、自らの立場を絶望と評してゐる。この立場から、自らを向上させて行きたいと考へる。