二本足の學者を目指して

賢を見ては齊しからん事を思ふ

平成二十九年一月二十九日(日)人間に對する、自らに對するリアリズム

2017-01-29 07:07:07 | 文學、精神、そして魂
 人間に對する、自らに對するリアリズム

 まづ斷つて置くと、私はピューリタンでも、カトリックでもない。然し、私は、人間とは、例外なく、不完全で、憐れで、悲慘な存在に過ぎないと考へてゐる。普通、さう云ふ風に實感する爲には、全智全能の絶對と云ふ存在を戴いてゐなければならない訣だが、私に絶對に對する信仰があるかどうかは定かではない。が、少くとも、自分なりに絶對を理解しようとは、思つてゐる。そんな私だから、この世に對して、肯定的には考へてゐないし、この世を信ずると云ふ事も、まづないし、この世や他者と云ふ以前に、まづ、私は、この自分と云ふものを信じてゐない。自分と云ふもの程、怪しい存在はないとさへ考へる。何となれば、人間は例外なく、不完全で、憐れで、悲慘な存在に過ぎないからである。それゆゑ、自らをより善くする爲には、自らに對して、批判精神を懷き、自らを少しづつ修正して行く事が必要と考へる。が、日本人の多くは、人間を、誰一人、例外なくして、信じ込み、人類と云ふものを信仰してゐる。そして、彼等は人間の不完全と云ふ事から、目を背ける。彼等には、リアリズムが決定的に缺けてをり、彼等は、ロマンティシズムに醉つてゐる。日本全體が、昔も今も、醉つ拂つてゐると見て差支へない。私は、精神に於て、歐米人でもなければ、日本人でもない。と、このやうに書けば、愚かな日本の政治主義者達は、「はゝん。こいつはきつと日本に住み、日本語を語つてゐるけれども、何だか怪しい日本語を綴るし、本當に日本人かどうか怪しい」抔と考へるに相違ない。全くの的外れである。私は出自としても、政治的にも、日本人であるし、正統表記(正漢字歴史的假名遣)を綴つてゐるのだから、文化と云ふ點でも、日本人である。が、日本人の歐米化と云ふ事を考へ、自らを實驗してゐる日本人である。然し、それでゐて、魂と云ふ考へに就いては、神道的な魂を信じてゐる。そんな私が、理解されると云ふ事は、まづなからう。と云ふ訣で、私は、自らの立場を絶望と評してゐる。この立場から、自らを向上させて行きたいと考へる。
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平成二十九年一月二十八日(土)「型無し」の日本人

2017-01-28 08:47:35 | 語學
 「型無し」の日本人

 「英語達人塾」(中公新書)に於て著者の齋藤兆史が、批判乃至嗤つてゐる事だが、文法をマスターせずして、「ペラペラ」と英語を喋る癖がついて了ふと、いづれ英語の力は頭打ちになるし、樂しい英會話教室のやうな處で、英語が出來るやうになる訣がない。何でもさうだが、一つのものを極めようと思へば、樂しいと云ふ事は、まづない。アスリートの毎日のトレーニングと同樣、語學のトレーニングも、辛く、苦しく、單調なものだ。

 それなのに、英語が全く出來ない輩は、既存の英語教育を批判して、「文法をやつてゐるから、英語が出來ない」だの、「文法のやうな詰らない勉強は廢(よ)して」「樂しい英語學習をしたい」と云ふ。然し、文法を勉強し、自らの血肉と化すトレーニングを行はない限り、英語を聽く事も、讀む事も、話す事も、書く事も出來ない。たゞ、知つてゐる單語を竝べて、「ペラペラ」と喋る、そして、「意味が相手に傳はればいゝ」と云ふが、それは英語ではない。が、大抵の日本人はそれでいゝと云ふ。さう云ふ誤つた語學に對する認識を、日本人の多くが懷いてゐるからこそ、多くの日本人は、語學が出來ない。

 齋藤も云つてゐる事だが、既存の文法讀解中心の英語教育が駄目だつたのではなくして、文法讀解の教育が、トレーニングに迄、行き屆かなかつたのが問題なのである。が、實は、トレーニングとは、教師が教へるものではなく、生徒なり學生が、自らの意志で、習慣的に行ふべきものである。トレーニング方法は教授出來るが、その實行は、個人の意志に據る。

 昨今の日本人は、「自由」と云ふ言葉を好み、「型破り」が恰好いゝと云ふ。さう云ふ事を世に知らしめてゐる一つが、新聞で、以前、廣島の地方紙の中國新聞も、「型破り」と云ふ事で、廣島東洋カープの二壘手(菊池涼介)を取上げてゐた。が、本來、「型破り」とは、破る爲の型があると云ふ事である。昨今の日本人は、破る爲の型を有しない「型無し」に過ぎない。そして、無論、型があるとしても、矢鱈に型を破つていゝものではない。

 語學に關しても、文法や構文や語法とは、型である。この型を重視し、秩序を實現するのが、言葉である。一體、「秩序抔どうでも良く」「相手に意味が傳はればいゝ」とはどう云ふ事か。成程、秩序を學び、秩序を體現する事は、樂しい事ではない。が、本來、家庭や學校に於ては、秩序を押附けられるものだし、社會にあつては、秩序が求められる。言葉の型を重視しない輩は、「秩序抔どうでも良い」と云つてゐる訣で、兔角、外國語に就いては、さうであると云つてゐる訣だが、それは外國の文化としての秩序を否定してゐる事である。それでゐて、日本人の多くは、「國際的」と云ふ言葉を好むのだから、之はもう出來の惡い漫畫である。
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平成二十九年一月二十六日(木)憲法

2017-01-26 07:07:07 | この世を概觀する
 憲法

 きのふの記事の續きである。

 日本國憲法前文と第九條に就いて、否定的と云ふ點で、私は潮匡人と同じである。が、潮に對してのみならずであるが、私と他者とが、凡てに於て、意見が同じである筈がない。勿論、潮は自衞隊に就いてのプロで、私は素人だから、私が潮から學ぶ事は多々あるに相違ない。が、憲法に就いての根本的な考へ方は、私と潮とでは違ふ。今、該當する記事を探し出せないので、正確な引用は出來ないが、彼は改正派と云ふ點では、日本國憲法を認めてゐる。と云ふのも、同憲法は、「昭和天皇によつて、裁可されてゐるがゆゑ、正統性を有するのだ」と云ふやうな事を、以前、彼は「時事評論石川」に書いてゐたと記憶する。一方で、私は、大日本帝國憲法の復元改正が當然と考へる。これは、福田恆存の「當用憲法論」(※1)を讀んで、納得したが爲である。と云ふ訣で、大日本帝國憲法の正統性と、同憲法が自然に復活する道理に就いては、福田の論攷に讓る。と云ふよりも、福田以上の事を、私は書けない。因みに、大日本帝國憲法と日本國憲法に就いては、先日、神社新報が「論説」(※2)に於て、僅かながら言及してゐた。處で、Kindleの青空文庫のコンテンツには、日本國「日本國憲法」と云ふものがあるが、これは日本國ではなくして、正しくは米國である。

 (※1)「福田恆存評論集〈第8卷〉教育の普及は浮薄の普及なり」(麗澤大學出版會)所收
 (※2) 「論説 王政復古百五十年迎へ 改憲は獨立自主の精神で」『神社新報』(平成29年01月23日付 2面)
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平成二十九年一月二十五日(水)日米關係概略(追記)

2017-01-25 09:27:48 | この世を概觀する
 日米關係概略

 これ迄、日本(政府)がアメリカに對して求めて來た内容は、凡そ以下のやうなもの。

 「アメリカさんは損するかも知れないけれども、日本にとつては、旨味がありさうなので、アメリカさん、TPPの件、御願ひします」

 「集團的自衞權を行使しようと思ひましたが、公明黨や野黨によつて、骨拔きにされて了ひました。アメリカさんは日本を守つて呉れても、日本は、フェアな同盟關係をアメリカさんと結べません。亦、憲法改正の目處は立つてゐません。そんな感じですが、日米同盟の深化を宜しく御願ひします」

 要は、日本は、今迄どほり、アメリカに軍事的、經濟的な負擔を強ひようと云ふ事。然し、アメリカ人とて人の子。幾ら、神やイエスを氣に掛けてゐるとは云へ、常に神の子のやうに振舞へる訣ではない。人には限度があるから、アメリカ人が自分を大事に考へるやうになつても、何等不思議ではない。

 要は、日本はアメリカに甘えてゐるのだ。これが駄目だと思へば、中共に甘えようと云ふ輩が出て來さうだが、一黨獨裁の共産主義國家に甘えようとすれば、どうなるか。

 繰返すが、新聞やテレヴィでマスコミ人や識者が、偉さうな事を語り、やれ、グローバリズムだの、やれ、自由主義だのと云ふが、要は、グローバリズムだの、自由主義だのを利用して、アメリカに甘え續けたいだけの話なのである。かう云ふ事を云ふと、「戰爭に勝つたアメリカが、日本がさうなるやうに仕向けて來たのだ」と開き直る日本人が必ず出て來るが――「負けたのが惡い」と云ふのは分るが、「勝つたから惡い」と云ふのは、狂人の言ひ分である、と松原正が書いてゐた事を思ひ出す――、要は、さう云ふ日本人は、何時迄も敗戰後の儘でゐるのが、樂と云ふ事だ。安倍首相は、戰後體制からの脱卻と云つてゐたが、之を實現する意志はあるのか。實は、私のやうな一般人が知らない處で、話が好轉してゐる事を切に望む。

 日米同盟がフェアではない事は、以下の記事を參照。

 【仙臺「正論」懇話會】潮匡人氏講演「9條改正は全自衞隊員の願ひ」

 日米同盟、「公平」にしなければ

 米國の次期大統領のトランプ氏は選擧期間中、日米同盟は「フェア(公平)ではない」と言つた。(日本の100%負擔を求める)在日米軍の駐留經費ばかりが焦點となつてをり、「日本は75%も出してゐる。トランプもいづれさうした事實を知るだらう」といふ見方を日本の學者などが示してゐる。だが、すでに75%出してゐるのだから、殘りの25%を出せばいいではないか。お金を拂つて濟むなら、それだけのことだ。

 しかし、トランプ氏が日米同盟は「フェアではない」と問題提起したことはもつと深刻なことを含んでゐる。彼はかう言つた。「日本が攻められたら、われわれは日本を守らなければならないが、われわれが攻められたときに日本は何もしてくれない」

 今囘の安保法制で日本は「存立危機事態」と政府が認定したときに限つて集團的自衞權を行使できるやうになつた。だが米國が攻撃されたときに自衞隊は助けに行けない。(限定的でない)フルの集團的自衞權が行使できる状態で初めてフェアな日米同盟になる。

 そして、アメリカ人の正義感は「フェア」と云ふ事と密接に繋つてをり、彼等は「アンフェア」と云ふ事を蛇蝎の如く嫌ふのである。
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平成二十九年一月二十四日(火)正義とは精神の方向性である

2017-01-24 07:07:07 | 文學、精神、そして魂
 正義とは精神の方向性である

 魂を信ずるならば、美しい言葉に終始するのは、自ら、魂となつてからでいゝ。茲で云ふ魂とは、日本的な、神道的な魂である。生きてゐるうちは、肉體と精神の組合せ。肉體を有するがゆゑ、精神は、善から惡、惡から善へと搖れ動く。その精神的葛藤こそが、道徳的とは、慥か以前に書いた。さう云ふ精神の在り樣に於て、精神とは何等かを志向するものだから、その方向が定まつた時、當人は力を欲す事となる。何となれば、パスカルが云ふやうに、力を伴はない正義とは無意味で、吾々は正義に力を與へねばならない訣だが、力を正義と爲すのは容易でも、正義に力を與へるのは、頗るむづかしい、それゆゑ、人間は正義に力を與へる事を諦めた。そんな中でも、自ら、目的と云ふ正義を見出だせば、力を得る爲、當人は足掻くしかない。無論、その努力が報われるとは限らない。この世に勝者がゐるとは、敗者がゐる事を證す。日本の平和主義者達は、力を否定し、勝ちも負けもないと云ふのだが、日本に於ては、さう云ふ力を否定する人間らしからぬ在り方が、力を得てゐると云ふ矛楯が生じてゐる。そんな中、正義を主張し、力を求める者は、世間から除外される傾向にある。それでもなほ、何等かの正義を見出だし、力を得ようと生きる事は可能か。この力とは、肉體的な力のみならず、知と云ふ力に就いても當嵌る。肉體、精神、善、惡、その他の二元論的事柄、凡てに亙つて認識すると云ふ事。生きてゐるうちに、どの程度、出來るものか。謂はゞ、凡てに亙つて認識せんとする事こそが私が志向する正義であり、精神の方向性である。
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平成二十九年一月二十三日(月)犧牲的精神を有せず、正義をも有せず、それゆゑ、無力な日本人(追記)

2017-01-23 07:07:07 | この世を概觀する
 犧牲的精神を有せず、正義をも有せず、それゆゑ、無力な日本人

 日曜日のNHKテレヴィニューズを聞いてゐて、知つた事だが、何やら日本政府筋の人間にしても、トランプ政權に對しては、「云ふべき事は云つて行く」らしい。詳しくは聞けなかつたが、どうせ、日本の事、經濟關聯に就いて、懸念してゐるのであらう。が、經濟を經濟のみで考へる事は不可能。經濟と軍事力とは、密接な關係にある。そして、軍事的小國である日本と軍事的經濟的大國であるアメリカとでは、アメリカの言ひ分がとほるのが、道理と云ふものである。日本に對してのみに限らないが、アメリカは、今迄――少くともオバマ政權下にあつて――、他國に對して寛容であり過ぎたのだ。他國に對してとは、同盟國に對しても、假想敵國に對しても、發展途上國に對してもである。

 「アメリカファースト=保護主義」は駄目だと、産經新聞の記者や論者迄語る爲體だが、自國の都合を最優先するのは、當然の事であり、個人に於ては、個人は自らの都合を最優先する。實際、以下に引用するやうに、日本人にしてからが、そのやうに正直に考へてゐるではないか。と云ふのも、渡辺和子著「置かれた場所で咲きなさい」(幻冬舎)と云ふ本には、以下のやうな否定的なレヴューがある――。

 キリスト教のおしつけ

 私は、このようなキリスト教独特の「犠牲的精神」や「正義のおしつけ」が大嫌いです。キリスト教徒は、異教徒に対して「神のみ恵みを知らない可哀そうな子羊」として、さげすんでいるような気になります。

 こちらが文句を言っているのに、微笑みかけられると「ゾッ」とします。「犠牲的精神」や「正義のおしつけ」は「ありがた迷惑」です。

 キリスト教の「正義」を「異教徒」におし付けるから争いが起こるのです。他国にちょっかいを出すな。欧米人はそのことにまだ気づいていない。

 線路に転落したAさんを助けようとして、自ら線路に降りたBさんとCさんがいました。結果として3人とも亡くなったのですが、自分の命を犠牲にしてAさんを助けようとしたBさんとCさんを、ヒーローのように褒めていました。

 しかし私は、BさんとCさんを褒めようとは思いません。他人を助けようとして、自らが命を落とす事があってはならない。Aさんを助け出せる自信が無い場合、自分の命を危険にさらしてはいけないと考えます。

 消防隊員、海難救助隊員、レスキュー隊員などは、相当の訓練を受けており、助け出す術を知り、自信をもって事に臨んでいます。

 教師が教え子のために、親が子のために危険を冒すのは、確かに理解できますが、それならば、教師や親は、そのような事がある事を想定して、ある程度の訓練をしておく必要があると考えます。それが教師である覚悟、親である覚悟です。

 助けようとして亡くなった方にも家族があったり、悲しむ方がいます。
仮に、私が線路に転落したAさんであった場合、自分の命を落としてまで助けようとしてくれなくても結構だと考えます。BさんCさんに、そしてBさんCさんの遺族に申し訳なくて死ぬに死にきれません。そこまでしてくれなくてもよいのです。迷惑なんです。

 次に、私がAさんの遺族であった場合も、BさんCさんに申し訳なく、かつ、BさんCさんの遺族に申し訳なくて、かける言葉が思い当たりません。大迷惑なんです。

 かくして、キリスト教という奇妙な教えは、ついに私には理解できませんでした。

 ――以上のやうに日本人が、アメリカに對して考へるならば、アメリカ人が「アメリカファースト」であつて、一向に構はないと云ふ事になる。然し、少し許り智慧のあるマスコミ人や知識人は、それでは「損」だと考へるから、「アメリカファースト=保護主義」は、グローバリズムや自由主義の否定だと云ひ、グローバリズムや自由主義を利用して、之迄どほり、アメリカに對して、軍事的經濟的な犧牲を強ひようと云ふ魂膽なのである。

 アメリカによる「キリスト教独特の『犠牲的精神』や『正義のおしつけ』」によつて、敗戰後の日本の平和は維持されて來た訣である。「犠牲的精神」を體現するのが、軍人であり、アメリカによる「正義のおしつけ」によつて、日本には「戰後民主主義」や紛ひの「自由」が配給された訣である。上述のレヴュー者は、その事實を認識してゐるのかどうか、頗る怪しい。さう/\、アメリカは、憲法さへも、違法な形で、吾國に「おしつけ」て來た訣だが、その「おしつけ」憲法に對して日本人の多くはどのやうに考へてゐるのか。少からず護憲派がゐるではないか。

 「他人を助けようとして、自らが命を落とす事があってはならない」と云ふが、そのやうな人命尊重主義では、軍人は軍人たり得ないのである。何故ならば、幾ら訓練を積み、實戰經驗が豐富な軍人にしても、有事に於ては、「確實」と云ふ事はあり得ないからである。抑、件のレヴュー者は、「消防隊員、海難救助隊員、レスキュー隊員などは、相当の訓練を受けており」云々と書き、自衞官を省いてゐるのは、偶々か、それとも何らかの意圖あつての事か。加へて、(他にも同樣のレヴュー者がゐるが)キリスト教を、左迄、拒否するのは、何らかのイデオロギイが背景にあつての事か。その邊の事が氣になる(譬へば、他のレヴュー者の中には、「宗教は阿片」と明言してゐる者もゐるのである)。

 トランプ政權に對しては、平和の「象徴の街」らしい被爆地・廣島でも不安の聲があがつてゐると云ふ。曰――

 トランプ大統領就任 被爆地では不安の声も

 これまで「アメリカの核能力の強化」を主張するなどしていたトランプ氏が、大統領に就任しました。

 被爆地・広島では不安の声も上がっています。

 トランプ大統領は、就任前の去年12月、自身のツイッターに「アメリカの核能力の強化」を主張する投稿をしていましたが、就任演説では核政策については言及しませんでした。

 「世界の人がみんな平和で幸せになるように心から願っていますので、核の使用を心配しています。不安と期待と半々です」

 「当然平和は誰であろうと大事なことではないかと思う。広島は象徴の街ですので、それだけは絶対に揺らいでは困るという感情を持っています」(以上 市民)

 県被団協の坪井直理事長は、「現時点ではトランプ大統領の核政策についてのスタンスがはっきりしない。今後しっかりと見極めていく必要がある」と述べました。

 「予想ではトランプ大統領は我々と同じ道ではないと思う。オバマ前大統領は同じ道。これからトランプ大統領が具体的にどういうことをやっていくかを注目していく」(県被団協・坪井直理事長)[2017.1.21 17:59]

 ――「平和の『象徴の街』らしい被爆地・廣島」と先述したが、原爆ドームとは、日本國や日本人の無力の象徴に過ぎず、それを觀光資源にしてゐる廣島人とは、自らの無力は、アメリカに補つて貰ひながらも、自身は、平和で飯を食ひ、その矛楯に氣附かない日本人を代表してゐる縣民、市民である。

 一體、軍事的に無力な日本人、廣島人が、「しっかりと見極めて」「注目してい」き、それで、一體、何が出來ると云ふのか。

 「犧牲的精神」を有せず、亦、その大事を理解も出來ず、他者や他國に「押附け」たいと思ふくらゐの「正義」を有しない日本人が、土臺、力を有するやうになる筈がない。そして、無力であり續ける日本人であれば、アメリカを「しっかりと見極めて」「注目してい」つた處で、無意味である。

 と、茲迄、書いて、「押附け」と云ふ點で、先日書いた事と矛楯するではないかと云はれさうだが、結局の處、僞善的な言辭と云ふのは、長續きせず、眞實ではないと云ふ事である。自ら、感ずる事だが、矢張り、人間が人間である限り、正義に拘らざるを得ないのである。「正義を疑ふ」と云ふ日本人の多くこそが、人間性を失つてゐるのである。では、この私の正義とは何か。この大事に就いては、今後、考へて行きたい。
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平成二十九年一月二十二日(日)絶對に就いてとConscienceに就いて(追記)

2017-01-22 06:38:32 | 文學、精神、そして魂
 絶對に就いてとConscienceに就いて

 「松原正全集 第二卷 文學と政治主義」(圭書房)には「福田恆存の思ひ出」と云ふ文章がある。その中に、以下のやうな話がある。

 そこで、ニューヨーク滯在中に激論を戰はせました。
 「日本人はよく『絶對に』といふ言葉を氣易く使ふけれども、私たちに絶對といふものは無いんですよ」(※松原)。「そんなことは無いよ。日本には天がある」(※福田)。「天知る、地知る、子知る、我知る」の天です。「しかしそれは絶對者ではないでせう、相對的なものでせう」と私が食ひ下がつて、そこから激論になつた。

 扨、云ふ迄もない事だが、その「激論」の内容が、如何なるものであつたのか、私には分らない。私の知力は、福田松原兩先生のそれには遠く及ばないから、私の考へる事など、兩先生は、當然の如く、考へてゐたに相違ない。それでも、淺學菲才の身ながら、その事を踏まへ、敢て、云ふと、である。「絶對といふものは無い」と云ふのは、結局、「絶對は『絶對に』ない」と云ふ事ではないか。ならば、絶對と云ふ概念自體、存在すると云ふ事にならないか。「無い」と云ふ事が絶對であると云ふ事を、どう捉へるか。「無」に關しては、絶對と云ふ事であれば、絶對は存在する事にならないか。

 固より、善惡を司るのが、絶對だとして、それは有限の形ある存在ではあるまい。Conscience(良心)とは、人間が共有してゐる無限の無の存在であらう。人によつて、或は本人によつても時として、その精神が、善に傾くか、惡に傾くかと云ふ相違はあるものゝ。「御天道樣に顏向け出來ない」と、昔から、日本人は云つて來たけれども、結局、それは我が心に照し合はせてと云ふ事ではなかつたか。絶對と云ふ事に就いて、「絶對者」と云へば、それは日本に存在しないと云ふ事にもなりさうだが、「超自然」と云へば、どうだらうか。物質的な事物である自然に就いて、超自然と云ふのは、正に精神の事である。

 「Conscience」とは、手元の英英辭典(※1)には、以下のやうに定義されてゐる。「the part of your mind that tells you whether what you are doing is morally right or wrong」と。本來、道徳上の善惡とは、goodとevilであり、政治的法律的な正不正をrightとwrongとする。Conscienceの定義には、道徳的な正不正とある。因みに、wrongとはrightではないと云ふ事である。

 尤も「絶對者」を「超自然」と言ひ換へた處で、吾々は、「『超自然への信仰』を有たぬ」と、T.S.エリオットを論じて、臼井善隆は書いてゐる(※2)。

 政治的領域に於ける法に纏はる正不正とは、可變である。法は(無論、憲法も含め)、不完全な人間が拵へるもので、改正されたり、改惡されたりするものだからである。きのふ、正だつた事が、けふ、不正になつたり、亦、その逆もあり得る。それゆゑ、事後法の禁止が定められてゐる。この可變である法の正不正と事後法の禁止に就いては、譬へば、ポルノの販賣や所持と云つた法的問題に就いて考へて見ると、より話が具體的にならう。一方で、道徳に纏はる善惡とは、不變である。松原も云ふやうに、どのやうな時代、どのやうな政治體制の國にあつても、譬へば、親殺しは、道徳的惡なのである。そして、道徳の領域とは、エリオットが云ふやうに、「政治に先行する領域」なのである。

 (※1)「LONGMAN Active Study Dictionary 5thEDITION」 
 (※2)T.S.エリオット著、臼井善隆譯「教育の目的とは何か」(早稻田大學出版部)
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平成二十九年一月二十一日(土)大關稀勢の里、初優勝

2017-01-21 18:05:12 | Hyperlink
稀勢の里が悲願の初優勝「うれしい」涙で聲絞り出す

稀勢の里の優勝、我が事のやうに嬉しいです。

北の富士さんNHK解説見送り 昨年末に心臓手術
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平成二十九年一月二十一日(土)自分や人間を超える、より大いなるもの

2017-01-21 09:24:14 | 文學、精神、そして魂
 自分や人間を超える、より大いなるもの

 私のばあひ、昔は何を信ずるかと云ふ繊細な問題に就いても、自分の意見を相手に押附けようとする癖があつた。いや/\、「貴方は何を信ずるのか」と問ふ傾向、或は、其處迄は行かなくとも、さう問ひたいと云ふ衝動を、間歇的に有してゐる傾向があつた。今となつては、當然ながら、相手の心の自由を侵さうとは思はない。けれども、譬へば、男女の近い仲と云ふ事になれば、どうだらうか。尤もクリスト教の教へでは、飽く迄、神と「私」が優先され、親しい人達と「私」の關係は、神との關係に於て、考慮されないとも聞く。それは兔も角、慥か福田恆存は、凡そ、大いなる存在をとほして、相手を愛する事が必要だと云つてゐたと記憶する。さう云ふ風に、「私の幸福論」に書いてあつたと思ひ、全集に當つて見た。さう云ふ内容と關係があると思へる文章を、以下に引用して見る。

 (略)といふのは、最後には神を信ずることです。これは別に何々教といふものを意味してはをりません。が、特定の宗教に歸依できなくても、さういふ信仰は誰しももてるものではないでせうか。
 自分や人間を超える、より大いなるものを信じればこそ、どんな「不幸」のうちにあつても、なほ幸福でありうるでせうし、また「不幸」の原因と戰ふ力も出てくるでせう。もし、その信仰なくして、戰ふとすれば、どうしても勝たなければならなくなる。勝つためには手段も選ばぬといふことになる。しかし、私たちは、その戰ひにおいて、始終、一種のうしろめたさを感じてゐなければならないのです。なぜなら、その戰ひは、結局は自分ひとりの快樂のためだからです。あるいは、最後には、勝利のあかつきに、自分ひとりが孤立する戰ひだからです。さういふ戰ひは、その過程においても、勝利の時においても、靜かな幸福とはなんのかかはりもありません。
 まづなによりも信ずるといふ美徳を囘復することが急務です。親子、兄弟、夫婦、友人、そしてさらにそれらを超えるなにものかとの間に。そのなにものかを私に規定せよといつても、それは無理です。私の知つてゐることは、そんなものがこの世にあるものかといふ人たちでさへ、人間である以上は、誰でも、無意識の底では、その譯のわからぬなにものかを欲してゐるといふことです(略)。
 福田恆存著「私の幸福論」『福田恆存全集 第四卷』(文藝春秋)

 以前の記事に於て、慥か私は、魂を信ずる事が大事と書いた覺えがある。最初に「私の幸福論」を讀んだ時、「自分や人間を超える、より大いなるものを信じればこそ」、「親子、兄弟、夫婦、友人」をも信ずる事が出來ると私は解釋したし、今もなほ、そのやうに解釋してゐる。
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平成二十九年一月十五日(日)自ら向上する爲には批判精神が必要である

2017-01-15 07:07:07 | この世を概觀する
 自ら向上する爲には批判精神が必要である

 先日の記事(「昔も今も日本人はエコノミック・アニマルである」)に就いても同樣の事が云へるのだが、過日、「こんな偉い先生が無名でゐるのだから、日本と云ふ國は駄目なのだ」と云つた處、「日本は駄目だ云々と云ふ輩はゐるけれども、おまへさんもそのお仲間か」と云つた風に近い人からかへされた。成程、たゞ日本を貶める事で快感を感ずる者や、(朝日新聞や毎日新聞のやうに)さう云ふ行爲自體を生業にしてゐる者も、この國にはゐる。が、私は左記したやうな者達とは違ふ。トマス・マンが眞に道徳的である事とは自己批判であると云つたやうに、私が母國を批判する際も、母國をより良くせんと思つての事なのである。尤も日本國を良くするなんて事が出來る人は、後にも先にも存在せず、吾々が出來る事とは、自らの向上と自らのまはりを少し許り良くする事に限られる、と先日書いた。とまれ、より良くと思へば、批判精神が契機にならねばならず、歐米精神の要とは、批判精神なのである。個人の向上にも、母國の向上にも――それが可能であるならば――、批判精神を必要とし、吾々が批判精神を身に附けようと思へば、歐米の優れた物書きから學ぶしかない。さう云ふ理由を話した處、近い人からは、理解して貰へた。が、このやうな誤解は、批判を行ふ限り、何時何處に於ても、吾國に於ては附纏はう。その都度、上述したやうに解説する訣には行かないから、向上を願つての批判者も、時として「賣國奴」と勘違ひされる可能性がある。何せ、この私は近い人からも誤解される處だつたのだから。今日の日本に於ては、マスコミが重寶する評論家や學者には、批判の爲の批判を行ふ者が多い爲、批判と云ふ言葉の評判は、頗る惡いやうだ。では、その批判の爲の批判を行ふ者とは、具體的に誰かと云へば、譬へば、「社會學者」古市憲寿のやうに、日本に根差してゐる訣ではなく、それでゐて、無論、日本以外に根差してゐる訣でもない、無文化的無國籍的な怪しい言辭を用ゐる、中途半端な學歴の「學者」がさうである。抑、三十そこらの青二才に「社會」の何たるかが分る筈もない。一體、「若者」と云ふ時、世間一般的には、十代二十代の男女の事を云ふが、この世を論ふ評論家や學者の類に就いて、若い評論家や學者と云へば、最低四十前後になつてゐる事が求められる。そのくらゐに達してゐない限り、この世の仕組と云ふものは分つて來ない。尤も世の中には學者馬鹿と云ふのがゐて、幾ら年齡を重ねてゐても、實社會に於ける經驗が皆無で、世の中の事が全く分らないと云ふ輩がゐる。
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