年末恒例の演奏会と言えば、ベートーヴェンの第9交響曲です。
私も毎年年末にはお気に入りの演奏をCDで聴きます。何枚も持っているから今年はどれとどれにしようかな?などと考えながら。
もちろん、クリスマスにバレエ音楽「くるみ割り人形」をブルーレイで鑑賞して感動したばかりです。
さて、第9交響曲ですが、
その第4楽章に合唱があります。
出だしはこうです。
O Freunde,nicht diese Töne!
Sondern laβt uns angenehmere anstimmen
und freudenvollere!
おお友よ、この調べではなく
さらに楽しく、喜びに満ちた歌を
歌おう!
交響曲第九番ニ短調作品125≪合唱≫
この合唱は「シラーの頌歌(しょうか)《歓喜(かんき)に寄す》に曲をつけた」ものですが、出だしの上記の歌詞だけはベートーヴェンが書き加えたものです。
シラーが1785年、26歳の年にドレスデンで書いた詩。フランス革命の4年前です。ベートーヴェンは哲学書や詩を友人と読みあさっていて、1786年の16歳頃にはシラーの詩も読んでいたのです。
この曲は1824年2月に完成しているので、ベートーヴェンは53歳。ボンを出てウィーンに移る21歳の頃、友人にこの詩に曲をつけたいと話しているから約32年後に実現したことになる。
何故ベートーヴェンは冒頭の歌詞を付け加えたのか?
第4楽章の冒頭は、ワーグナーが「恐怖のファンファーレ」と呼んだように不協和音の激しい始まりとなる。第4楽章の前半は器楽で演奏される(第一提示部)。
恐怖のファンファーレの後には、低弦(チェロとコントラバス)がレチタティーヴォ風(話しかけるように)に静かに演奏する。このメロディーは実は
恐怖のファンファーレの後には、低弦(チェロとコントラバス)がレチタティーヴォ風(話しかけるように)に静かに演奏する。このメロディーは実は
「おお友よ、この調べではなく
さらに楽しく、喜びに満ちた歌を
歌おう!」
と、合唱部(第二提示部)の冒頭にベートーヴェンが付け加えた歌詞をバリトンが歌うその後に続くメロディーだと言うことが後になって分かる仕組みとなっている。
つまり、恐怖のファンファーレに続いて「それ、違うよ!こうだよ。」と話しかけている。「否定のレチタティーヴォ」と呼ばれている。
第一提示部では第1楽章から第3楽章までの3つの楽章主題が次々と回想されるけど、それらも同じように「否定のレチタティーヴォ」のメロディーによって否定されていくのです。
第一提示部では第1楽章から第3楽章までの3つの楽章主題が次々と回想されるけど、それらも同じように「否定のレチタティーヴォ」のメロディーによって否定されていくのです。
そして、最後になって分かる。歓喜主題としてシラーの《歓喜(かんき)に寄す》の一部が歌われ、これこそがこの交響曲のメインだと感じるようになっている。そして大きな感動と盛り上がりをみせていくのです。
何か舞台の演出みたいです。
私は第1楽章から第3楽章までみんな大好きです。
第1楽章の冒頭は、第1主題の根幹となる4度と5度の下行音型で「あっ!」と心が揺さぶられる。「何だこれは!?」神様が空の彼方から下りてきたのか?と思ってしまう。何と神々しい響き。
「あなたはとうとうこの作品を神にささげることができるほど、その芸術的価値を高めたのですね!」
私はベートーヴェンにそう語りかける。
思えば、フランス革命の時、ボンからウィーンへ移ってからも難聴は進み、ハイリゲンシュタットで遺書を書いた時、その身を音楽に捧げる大きな決断をした。
市民が自由を勝ち取ったと思ったのもつかの間、すぐに王政が復古する。その後も混乱は続き、ベートーヴェンの苦悩も続く。
音楽を芸術と呼べるものにして、その音楽を王侯貴族だけのものではなく、広く一般の市民に聞いてほしいというベートーヴェンの願いがこの第9で完全に実現したと言える。
シラーの詩の最初の出だしは、
「よろこびよ、美しい神の火花よ、楽園に生まれた少女よ、われわれは情熱的に酔い、お前の天にある聖堂に進む!お前の不思議な力は世の慣習が断ち切ったものを結び合わせる。その柔和な翼の下で、全ての人びとが兄弟となる。」
ついでに次も
「幸いにも友の中でまことの友を得たもの、いとしい妻を得たものは、すべてよろこびの声を合わせよ!そう、世にひとつでも、人の心を自分のものとしたものはともに歌え!それを拒むものは泣きながらこの結束から去れ。」
第4楽章の「恐怖のファンファーレ」の不協和音は、私は単に曲を構成する上でのシナリオ的な試みにとどまらず、社会の混乱から市民が自由を手にして「個」を確立していくためにともにこの困難に立ち向かい喜びを共有しようと主張するアンチテーゼになっているのではないかと思う。
ベートーヴェンが交響曲第1番を作曲したときの第1楽章を思い出す。
彼のユーモアが感じられた。かれのユーモアはこの第9の時もまだ持続してるんだなぁ!と感慨深い。けど、第1の時とは全く異なる人生の重みと厚みの中に隠され軽々しく現れては来ない。
恐怖のファンファーレと否定のレチタティーヴォは、芸術に終わりはない!ということをきっぱりと主張している。
さぁ、芸術家ベートーヴェンの第9を聴こう!!!
参考: