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青空ーすべてはバランス

縄文時代はどんな時代?part7 不動堂遺跡を見た!


縄文時代の「ひょっこりさん」が顔を出しそうな雰囲気。中に入ろうとすると出くわすんじゃない?ちょっと怖いかも。
これは、縄文時代の不動堂遺跡を公園に整備した敷地内にある復元された竪穴住居で、ここの遺跡の1号住居。残っている柱の穴をもとに想像して作っているから、屋根部分の形は実際にはどうだったか分からない。でも当時使っていたであろう材料を使い、植物から縄を作り、それで柱を縛りながら組み立てていくなど再現にはこれまでの研究成果と時間がかけられています。
敷地内はこうなっています。
上の写真の左側に写っている2号住居は何と大きい。この大型住居は長径17m短径8mもある日本最大級のものだという。周辺の集落の人たちの集会所のようなものであった可能性があり大変貴重なものとして国の史跡として指定を受けています。

ちょっと中に入ってみました。縄文人はいないか?
ここで何を相談していたのだろう?こういう住居を作るのも大勢の協力がないと建設できないと思う。
この縄文時代には翡翠(ヒスイ)がとても大切にされていたようですが、この近くの日本海の宮崎海岸ではヒスイの原石が取れる。ヒスイが取れる場所は日本列島の中でも数少ない。あの東北の三内丸山遺跡から発見されているヒスイもここのヒスイであるとされている。ということは、この辺りは重要な場所だったのだろうし、各地の縄文人が来ていたのか?どうやって?
言葉がないと相談もできない。どんな言葉をしゃべっていたんだろう?文字があった形跡はまだ発見されていないけど、文字はあったのだろうか?
弥生時代の遺跡にあった石が、これまでただの石だと思われていたけど「硯(すずり)」であると考えられるようになってきており(すずりの上に炭を置いて研石で上から押して砕き墨汁を作る。)、再調査が進んでいるようです。文字は何千年もの間残りにくいから、ひょっとしたら縄文時代にも文字があったかもしれない!

いろんなことが頭に浮かびます。

争いはなかったのだろうか?争いのない人間の社会なんて考えられないけど、平和だったのなら、どうやって平和を維持していたのだろうか?私にとって一番関心があるのはこの部分です。西日本の日本海側へ大陸から多くの弥生人が入ってきた弥生時代の遺跡からは多くの傷ついた人骨が発見され、規模の大きい争いがあったことがうかがわれるだけに、東日本の各地に多くの縄文遺跡が残り発掘され、長きにわたって同じ場所で少人数で生活を続けてきただけでなく、大規模な村社会の存在も明らかになってきた縄文時代に争いがほとんどなかったとすると、その理由を解明することは大きな大きな発見であり、日本人にとっての貴重な遺産となるだろう!

なんて考えていると、どんどん縄文時代に引き込まれていく!!!

ここは、出土された土器類及び資料が展示されている「まいぶんKAN」という立派な施設です。
新潟との県境にある小さな町にこんな立派な施設が建設されていることに感激です。昔の日本の歴史・文化を大切に保存する姿勢は大切だと思います。

今日は30℃を超える暑い日だったので、復元した住居の中に入ってみました。風が屋根の両端の穴から入ってくるので、風通しがよく強い日差しに照らされていても中は暑く感じなかった。

ここから先は不動堂遺跡の概要をまとめています。興味があればどうぞ。
 
9 不動堂遺跡
①場所
〒939-0723 富山県下新川郡朝日町不動堂5)
富山県東部の新潟県との県境付近。新潟県の糸魚川の姫川からヒスイ原石が海に流れ、海流で西に流される間に石が自然に磨かれ、宮崎海岸にたどり着き、普通に原石が取れるヒスイ海岸と言われている。山が迫り海が近い。ここから新潟方面に遺跡が多い。
②時代区分
縄文時代中期の集落遺跡
③内容
・国の史跡指定 昭和49年12月23日
昭和のはじめころから春の水田や用水路などから土器の破片が発見されていた。昭和36年4月、横水と不動堂の境界あたり古宮と称されるあたりで田なおしが行われた時、地下50㎝から炉跡が発見され、周囲から天神山式土器が出土されました。昭和48年、圃場整備事業が行われることになり、5月23日から7月18日にかけて、はじめて本調査が行われ、2号住居跡を発見。圃場事業からこの地域がはずされ町有地として保存される。その後も53年54年と発掘調査が続けて行われた結果、縄文中期の住居跡21基と食料貯蔵庫と推定される小穴9個が発見される。
住居跡の中で特に2号住居跡は小判形をした竪穴住居跡で長径17m短径8mもあり、普通の住居跡の4~5倍の大きさで日本最大級。周辺の集落の人たちの集会所のようなものであったのではないかと考えられ、縄文時代の社会構造を知る上で大変貴重なものであるとされました。そして、この2号住居跡を中心として9000㎡(東西100m南北90m)が国の史跡として指定されました。
その後、昭和53年度から56年度にかけて遺跡公園の造成が進められ、56年度には第2号・第1号・第4号の住居跡が復元されています。

・2号住居
中期前葉約5000年前の竪穴式大型住居(長径17m短径8m)。床面積115㎡。
住穴は周溝から約1.5m内側に14個が東西の線上を折り目として対称的に掘られている。
この住穴は直径1m深さ1m。ここに直径30㎝程の柱が立てられていたと推定され、東西の線上には4個の石組炉が等間隔に並んで作られている。東側の2個は長方形、西側の2個は円形でそれぞれ中央寄りの炉の南側には埋嚢が1個づつある。
東西に並ぶ柱は3m間隔、南北に向き合う柱は4m間隔で均等に並ぶ。
雪国など東北地方に大型の住居が多いようなので、冬季の公民館的集会所、共同作業所(土器・石器作り)、宗教的儀式などに使われていたのではないかと考えられている。
埋嚢は食料の保存に使われていたと考えられている。

・4号住居
 
平面積は約35㎡(南北7.5m 東西5.3m)。壁際には周溝がある。小型の石組炉が2つある。

1号住居・・・24㎡(長径6m 短径5.5m)。中期前葉の住居のあとに再び同じ場所に中期中葉の住居が建てられている。

・出土した土器類
中期前葉の深鉢形土器、中期中葉の台付土器や有孔鍔付(ゆうこうつばつき)形土器、火焔式土器、浅鉢形土器の口縁部分など
上記土器の型式
新崎(にんざき)式土器・・・石川県鳳珠郡穴水町新崎・新崎遺跡
主に福井県北部から新潟県北部に分布。山形県や秋田県でも出土。 
天神山(てんじんやま)・上山田(かみやまだ)式土器・・・富山県魚津市・天神山遺跡  石川県かほく市上山田 ・上山田遺跡
東海地方を中心に関東・中部・近畿に広く分布する。

・石器類
ここの遺跡では、石器類が大量に見つかっています。海岸に打ち上げられた石を利用した石器製作のムラが広がっていたようです。蛇紋岩(じゃもんがん)や透閃石岩(とおせんせきがん)の磨製石斧など。

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