フンボルトは、言語のうちに、絶えざる活動を見ることの重要性を主張したが、これは正当である。「言語とは実体にあらず出来上ったものにあらず、活動なり」という(Sie〔die Sprache〕selbst ist kein Werk,ergon,sondern eine Tatigkeit,energeia)[エルゴンとは作られたるもの、産物、エネルゲイアとは作り出す力、はたらき]。故に、言語は、発生論的にしか定義できない。言語とは、心の繰り返してやまぬ努力であり、文節された音を、思想をあらわすに用いるはたらきである。厳密に言うと、これは各個べつべつのことば行為に対する定義である。しかし言語とはまさしく本質的に、かかることば行為の総体と見なされなければならない。なんとなれば単語と規則は、われわれの平生の観念よりすれば言語を作るものではあるが、それが真に存在するのは、連続したことば(connected speech)の行為においてのみである。言語を単語や規則に分解するのは、われわれのへまな科学的分析から生ずる、死んだ産物にすぎない。言語にあっては、静的なものは一つもなく、すべては動的である。言語は、いずこにも(文字の上にすらも)、永住の処をもたない。その死せる部分は、不断に、心の中で再創造されなければならない。言語が存在するためには、それは話され、もしくは理解されなければならず、総体として、主体の中へ入らなければならない。
「言語」O.イェスペルセン著 三宅鴻訳 岩波文庫 1981年
富翁
「言語」O.イェスペルセン著 三宅鴻訳 岩波文庫 1981年
富翁