小さな旅を愉しむための情報PLUS

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大御食神社😐😐😐神代文字による「神代文字社伝記」を社宝として伝える神社

2020-09-15 18:00:00 | 神社仏閣

中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約10分の「美女ヶ森(びじょうがもり)」と通称される「大御食神社(おおみけじんじゃ)」は、神代文字による「神代文字社伝記(じんだいもじしゃでんき)」を社宝として伝える旧社格「郷社」で、「献幣使(けんぺいし)参向(さんこう)指定神社」だ。
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その由緒は、第12代「景行天皇(けいこうてんのう)」の皇子で、九州「熊襲(くまそ)」東国「蝦夷(えぞ)」の征伐を行ったという記紀伝説の英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」(「古事記」では「倭建命」)東征の帰途、当処で饗応した里長「赤須彦」が、118(景行天皇48/皇紀778)年に「日本武尊」を祀り、「大御食ノ社(おおみけのやしろ)」と名付けたことに始まるという。「清々しく弥栄えて丈高く奇杉なり」と愛でた大杉の元で、「日本武尊」は酒餞の饗応を受けたとされ、以来「御蔭杉」と称す御神木として、現在まで3代にわたって植え継がれて来ているという。
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地元が「美女ヶ森」と呼ぶ所以は、「日本武尊」が東征の帰途尾張で娶った「宮簀姫(みやずひめ)」(「古事記」では「美夜受比賣」「五郎姫」とも)を、307(応神天皇38/皇紀967)年に迎えて祀ったことによるという。さらに879(元慶3)年には、「応神天皇」の諡号で武運の神とされる「誉田別尊(ほんだわけのみこと)/八幡大神(ハチマンダイジン/ヤハタノオオカミ)」を、山城国より迎えて合祀しているという。
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9月第3日曜日には、旧赤須村の9行政区を5年番区に編成して、獅子練りが大規模に行われる例大祭がある。なお、柳田國男「一目小僧その他」(昭和9年7月 小山書店)に、「上伊那郡赤穂の美女森の社の神を五郎姫神といひ、即ち日本武尊に侍かれた熱田の宮簀姫の御事だと申してゐるが、これなどは姫神を五郎といふので殊に珍しく感ぜられる。」の記述がある。
 ❖ 拝殿  現在の「拝殿」は、「平之内大隅守(へいのうち おおすみのかみ)」がおこした流派で、神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻の宮彫を流派として最初に完成させ、「日光東照宮」「湯島聖堂」などの造営にあたったという「大隅流」の棟梁「小口平助」により、1923(大正12)年10月22日に竣工したという。1911(明治44)年辛亥改築のものと、構造様式は凡そ同じと記録されているという。現地に「流し造入母屋、唐破風御拝入母屋、千鳥破風、間口二十九尺七寸六分、奥行二十三尺五寸二分」の案内がある。
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なお、宮大工集団として並び立つ「江戸立川流」は、大隅流から分かれた流派で、のち幕府御用になったという。

 ❖ 本殿  1733(享保18)年癸丑6月造営、1748(寛延元)年戊辰10月改築遷営された「本殿」は、さらに1864(元治元)年甲子10月に改築遷営されて、現在に至っているという。
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間口が4.2メートルの母屋正面に、4本の柱を用いて柱間が三つある「三間社(さんげんしゃ)」、屋根の前が長く伸びて向拝を覆い庇と母屋を同じ流れで葺く「流造(ながれづくり)」で、現在は「銅版葺」だが、元は屋根を木の薄板で葺く「杮葺(こけらぶき)」、軒の一部について中央部は弓形で両端が反り返った曲線状の屋根「軒唐破風(のきからはふ)」の社殿だが、2011(平成23)年12月27日「駒ヶ根市有形文化財」に指定されているという。
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見るべきものとして、正面や繋ぎに立川流による彫刻があるが、建物造営の由緒などを記して棟木に打ち付ける木札「棟札(むなふだ)」は、1枚に1863(文久3)年9月の「釿始め」が、もう1枚には1864(元治元)年4月の「地鎮祭」が、記録されているという。その「大工キソ斉藤常吉 彫工下スワ立木音四郎」の記述から、「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築により、競合する「大隅流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」の子どもで、卓越した彫刻技術により、単なる装飾彫刻を芸術性高い彫刻へ押し上げたといわれる「立川和四郎冨昌(たてかわ わしろう とみまさ)」の高弟「斎藤常吉英知(さいとう つねきち ひでとも)」が大工棟梁、同じく弟子の「立木音四郎種清(たつぎ おとしろう たねきよ)」が彫工で上棟したことが確かめられるという。
 ❖ 神饌殿  「拝殿」奥の左手にある檜造りの建物が、間口十一尺六寸、奥行八尺三寸の「神饌(しんせん)所」だ。「御饌(みけ)/御贄(みにえ)」とも言われる神前に供える供物「神饌」を、調理し格納する所をいう語が「神饌所」だが、天皇と皇后の写真「御真影」と、「教育勅語」などを納めていた太平洋戦争までの「赤穂小学校」の建物「奉安殿(ほうあんでん)」として、大隅流の棟梁「小口平助」が、1926(大正15)年に造営したものを、戦後の1947(昭和22)年に「神饌所」として移築した社殿だという。
 ❖ 神楽殿  「拝殿」手前で右手奥にある社殿が「神楽殿(かぐらでん)」で、神の来臨や神託を願って、神と人が酒食をともにし、歌舞する鎮魂呪術と、この時行われる神事芸能をいう「神楽」を奏するために、神社の境内に設けた社殿をいう。1920(大正9)年に旧「拝殿」を改造し「神楽殿」としたが、2009(平成21)年に現在の「神楽殿」に改築したという境内で最も新しい建物だ。
 ❖ 御神木 御蔭杉  「日本武尊」(「古事記」では「倭建命」)東征の帰路の112(景行天皇42)年、里長「赤須彦」が杉の大樹の元に仮宮を設けて、酒饌を饗したというその杉について、現地で「『尊 大いに悦ばれ この杉の樹蔭 清々しく弥栄えて丈高く 奇杉なりと愛で給ひぬ 以後 この杉を御蔭杉と称せし』と社宝『神代文字社伝記』に記述される」と案内される。
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しかし、204(神功皇后4)年春に枯れて、翌年春に中枝の大虚に実生の杉の植継を行ったとされ、さらに856(斉衡3)年5月に枯れて、858(天安2)年春に再び植継を行って現在に至ると伝えられている。3代目だが伝「樹齢千百余年」というみごとな大樹だ。
 ❖ 二木社  境内社「二木社/日本岐社」の祭神は、天地開闢時に最初に現れた神で「造化三神(ぞうかさんしん)」のひとり「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と「清和源氏」の祖となった平安中期の武将「六孫王経基(ろくそんおうつねもと)」だ。
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さらに境内社としてミシャクジ信仰に端を発したものが多いと言われる「社宮司社(しゃぐうじしゃ)」のほか「神若衆社」「甲子社」「齊殿社」「清和荒神社」が祀られる。
 ❖ 天神地祇  境内の「覆屋(おおいや)/鞘堂(さやどう)」に「天神地祇(てんじんちぎ)」額が架かる。その「天神地祇」とは、天界「高天原(たかまがはら)」に属する神とその子孫をいう「天津神/天つ神(あまつかみ)」(「つ」は古語で所属・位置を表す語)と、記紀神話で「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の命を受けた「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が、記紀神話での地上界であり我が国の古称である「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を治めるため、「高天原」から「日向国(ひゅうがのくに)」の「高千穂峰(たかちほのみね)」に天降ったことをいう「天孫降臨(てんそんこうりん)」の以前から、「葦原中国」を治めていた土着の神「国津神/国つ神」とをいう。
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「天神」は「天照大神」「素戔嗚尊(すさのおのもこと)」など、「地祇」は「大物主神(おおものぬしのかみ)」「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」などをさし、「天神地祇」ですべての神々を言う。

子安神社😐😐😐底の抜けた柄杓を奉納し安産祈願と健康な子どもの誕生を祈るという神社

2020-09-13 14:00:00 | 神社仏閣

「諏訪大社上社前宮」から徒歩約5分、「諏訪大社上社本宮」から徒歩約20分/車約5分の「茅野市宮川」にある「子安神社(こやすじんゃ)」は、古くから縁結び・安産・子育ての守護神として「お子安様」と親しまれて来た「諏訪大社上社前宮」の末社だ。
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全国に鎮まる「子安神社」は、神話の中でもとりわけ美しいとされる女神で、「天照大神」の孫「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の妃神「木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)/木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)/木花咲弥姫命(このはさくやひめのみこと)」を祭神とする安産子育ての信仰の神社だが、ここ「諏訪大社」末社の「子安神社」は、「諏訪大社」主祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の母神「沼河比賣神(ぬなかわひめのかみ)/高志沼河比賣命(こしのぬなかわひめのみこと)」が祭神だ。
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同社の例祭日は、12月22日だが、妊娠5ヶ月目の戌の日に、祈祷に続いて底の抜けた柄杓を奉納し、水が軽く抜ける柄杓にあやかって楽なお産が出来るようにとの安産祈願と、健康な子どもの誕生を祈るという社だ。もとより「お諏訪さま/建御名方神」は、十三柱(資料によっては最大二十三柱)の御子神をもうけたとされ、古くから子授けの信仰がある神社で、「上社本宮」と「下社秋宮」で午前9時から午後4時まで、祈祷を受け付けているという。
〈補記1〉 新潟県糸魚川市では、「大国主神」と「越(古志/高志とも)の国」(古代の北陸地方の国名)の「沼河比賣/高志沼河比賣」との間に生まれた「建御名方神」が、「姫川」をさかのぼって諏訪に入ったとの伝承が残っているという。
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〈補記2〉 「古事記」で「神阿多都比売(かむあたつひめ)/木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」、「日本書紀」で「神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)/木花開耶姫(このはなのさくやびめ)」と記されて、神話に登場する国津神「大山津見神/大山祇神(おおやまつみのかみ)」の娘は、皇祖神「天照大神(あまてらすおおかみ)」の孫[「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の妻だ。第1子が「海幸彦(うみさちひこ)」として知られる「火照命(ほでりのみこと)」で、第2子は「山幸彦(やまさちひこ)」として知られる「火遠理命(ほおりのみこと)」で、初代天皇「神武天皇(じんむてんのう)」の祖父になる。神話の中でもとりわけ美しいとされる女神「木花之佐久夜毘売」を妻とすれば、桜とされる木の花が咲くように咲き栄えるが、御子の命は木の花のようにはかなく、故に子孫となる天皇の命は神々ほどに長くはなく儚いと語られる。

洩矢神社😐😐😐上海アリス幻樂団制作「東方風神録」のモデルとして聖地の一つになっている神社

2020-09-11 17:00:00 | 神社仏閣

JR中央本線「岡谷駅」から徒歩約15分、長野自動車道「岡谷インターチェンジ」から車約15分の「旧橋原村」(現在の「岡谷市川岸」)にある「洩矢神社(もりやじんじゃ)」は、土着神「洩矢神(もりやのかみ/もりやしん)」と、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の異名ともされる「藤島明神」を祭神とする旧社格「村社」の神社だ。
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地域の伝承では、「古事記」の説話「国譲り(くにゆずり)」において、力競べに敗れた「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神」率いる出雲系稲作民族が、諏訪へ進出したので、「洩矢神」を長とする狩猟系先住民族は、「天竜川」辺り(他説に「諏訪大社上社本宮」周辺の「守屋山」麓とも)で対峙したという。当時、「天竜川」辺りにあったそれぞれの陣地跡が、「岡谷市川岸」にある「洩矢神社」と「藤島神社」だったと伝えられている。
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凌駕された狩猟系先住民族は、共棲の道を選ぶことになり、「洩矢神」子孫「守矢氏」は世襲神職「神長官(じんちょうかん)」として「建御名方神」子孫で神霊が宿る対象「依代(よりしろ)」とされる世襲神職「大祝(おおほうり)」の「諏訪氏」、1601(慶長6)年の祭政分離後は「諏方(すわ)氏」(惣領家が「諏訪氏」を名乗った)に仕えることになったのが顛末だという。

 ❖ 阿像(獅子)吽像(狛犬)  神聖な場所を邪気から守る役割をもつという空想上の守護獣像で、向かって右の角がなく開口するのが「阿(あ)像」の「獅子」、左の角があって(簡略化され角がないものも多い)口を結ぶのが「吽(うん)像」の「狛犬(こまいぬ)」だ。現在は「獅子と狛犬」という呼称が、魔除けのために置かれる像「拒魔犬(こまいぬ)」から、「狛犬」という言い方で定着して来ているという。
〈追記〉 上海アリス幻樂団「東方風神録(とうほうふうじんろく)」で、「東風谷早苗(こちや さなえ)」「八坂神奈子(やさか かなこ)」「洩矢諏訪子(もりや すわこ)」の住む「守矢神社」のモデルとして聖地の一つになっているというが、作者「ZUN氏」は聖地巡礼するファンに「派手なことをして地元民に嫌われないようにしてほしい」と、節度をわきまえるようにコメントしているという。

矢彦神社😐😐😐「小野神社」と合同で行われる「御柱祭」が衣装の煌びやかさで語られる神社

2020-09-04 16:00:00 | 神社仏閣
国道153号線沿い、JR中央本線「小野駅」から徒歩約15分の「矢彦神社」(上伊那郡辰野町)は、かつて一つの神社だったと伝えられる隣接「信濃国二之宮」の「小野神社」(塩尻市)と同じ社叢に鎮まる「信濃国二之宮」旧社格「県社」の神社で、「上伊那郡」五十四ヶ村の総鎮守だという。
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創建については不詳だが、伝承にその「建御名方命(たけみなかたのみこと)」が、諏訪の土着「洩矢神(もりやのかみ/もりやしん)」のため諏訪へ進めず、この地で暫く留まったことに由緒があるともいう。
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両社の分割は、飯田城主「毛利秀頼(もうり ひでより)」(1541/天文10年~1593/文禄2年)と、深志城(後の「松本城」)主「石川数正(いしかわ かずまさ)」(1533/天文2年~1593/文禄2年)による領地争いに遡るという。争いは、「小野」を「南小野」と「北小野」に分割という1591(天正19)年の「豊臣秀吉」裁定で、神社も「矢彦神社」と「小野神社」に分割され、分けられた「矢彦神社」の境内は、「北小野」における「南小野」の飛び地になって現在に至ることとなった。
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なお、同社維持へ氏子の尽瘁が感じられる「矢彦神社」境内だが、神職非常駐の寂しさは広がる。折屈ある参拝者が増え、境内の輝きを取り戻してほしいものだ。
 ❖ 正殿・副殿・南殿・北殿  祭神は、「正殿」に「大己貴命/大国主命」と、「大国主命」「神屋楯比賣命(かむやたてひめのみこと)」の間に生まれた「建御名方命」の兄神「事代主命」、「副殿」に「大国主命」「高志沼河姫」の間に生まれた「事代主命」の弟神「建御名方命」と、その妃神「八坂刀賣命(やさかとめのみこと)」、「南殿」に「天照大神(あまてらすおおかみ)」の曾孫神で尾張氏の祖神とされる「天香語山命(あめのかごやまのみこと)」と、その妃神「熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)」、「北殿」に「神倭磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)/神武天皇(じんむてんのう)」と、「誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)/応神天皇(おうじんてんのう)」、ほかに「明治宮」に「明治天皇」が祀られる。
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縁起について年代は明らかでないとされているが、「社伝」では「大己貴命」の国作りにおいて、「事代主命」「建御名方命」を従え当地に立ち寄ったことに始まり、欽明天皇年間(539~571)に祭祀が整ったとされる
 ❖ 拝殿 廻廊  1987(昭和62)年、「長野県指定有形文化財(長野県宝)」に指定された「拝殿・廻廊」は、寺社建築「立川(たてかわ)流」の代表建築とされる建物だ。「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築において、競合する「大隅(おおすみ)流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁の初代「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)によって、1782(天明2)年に完成したという。
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木地のままの材でつくる「白木造り/素木造り(しらきづくり)」、屋根最上部の大棟から両側へ斜めに葺き下ろす屋根の形式「切妻造り(きりづまづくり)」、「銅板葺き」で、「三つ巴」紋の幕が張られ、多くの彫刻装飾を見る拝殿は、棟木と直角の面の「妻」ではなく平行の面の「平」に入口のある建物「平入り(ひらいり)」、正面は軒先の三角形部分に装飾としてつけられた中央部が凸形、左右両端が凹形に反り返った曲線状の造形「軒唐破風(のきからはふ)」で、廻廊の前面は壁がなく内部空間が外部に開放されている「吹放ち(ふきはなち)」になっており、「諏訪大社」に類同する社殿だ。
 ❖ 神楽殿  1987(昭和62)年、「長野県指定有形文化財(長野県宝)」に指定された「神楽殿」は、「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築において、競合する「大隅流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)の子どもで、二代「立川和四郎冨昌(たてかわ わしろう とみまさ)」(1782/天明2年~1856/安政3年)によって1842(天保13)年に完成したという。「立川和四郎冨昌」は、卓越した彫刻技術により、単なる装飾彫刻を芸術性高い彫刻へ押し上げたと言われる棟梁で、この「神楽殿」も「立川流」の代表的建築に数えられるという。
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「切妻造り(きりづまづくり)」で、棟木と直角の面を「妻」平行の面を「平」といい、「妻」に入口のある建物「妻入り(つまいり)」「銅板葺き」の見事な社殿だ。
 ❖ 勅使殿  「神楽殿」後面で「拝殿」手前に位置する「勅使殿」は、674(白鳳2)年の「天武天皇(てんむてんのう)」(不詳~686/朱鳥元年)勅使下向を受けて造営されたのが始まりだと伝えられるが、「切妻造」「平入」「白木造/素木造」「銅板葺」の現存する同殿は、江戸中期の完成で、1987(昭和62)年に「長野県指定有形文化財(長野県宝)」の指定を受けた社殿だ。
 ❖ 御柱  周知「諏訪大社」の「御柱祭」は、寅と申の年の七年に一度行われるが、ここ上伊那の総鎮守と呼ばれる「矢彦神社」の「御柱祭」は、隣接の東筑摩の総鎮守と呼ばれる「小野神社」とともに、翌年の卯と酉の年に行われている
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社伝によれば、第38代「天智天皇(てんぢてんのう)」(626/推古天皇34年~672/天智天皇10年)弟で、672年「壬申の乱」において第39代「弘文天皇(こうぶんてんのう)」(648/大化4年~672/天武天皇元年)を倒し、翌年即位した第40代「天武天皇」の時代の674(白鳳2)年に、勅使下向を受けて、御遷宮と御柱祭を七年に一度の式年祭として行うことに定められたという。
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かつて「人を見るなら諏訪御柱、綺羅(きら/華やかで美しいこと)を見るなら小野御柱」と、その煌びやかな衣装が両社の「御柱祭」として語られたと伝わる。

 ❖ 阿像(獅子) 吽像(狛犬)  「獅子と狛犬」は、神聖な場所を邪気から守る役割をもつという空想上の守護獣像で、向かって右の角がなく開口するのが「阿(あ)像」の「獅子」、左の角があって(簡略化され角がないものも多い)口を結ぶのが「吽(うん)像」の「狛犬(こまいぬ)」だ。現在は「獅子と狛犬」という呼称が、魔除けのために置かれる像「拒魔犬(こまいぬ)」から、単に「狛犬」という言い方で定着して来ているという。
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起源は古代オリエントの「スフィンクス」まで遡り、ガンダーラを経由して中国に入り、遣唐使が我国に持ち帰って、寺院山門の仁王像の影響を受けながら、平安時代までに対の獅子像が「獅子と狛犬」という独自の「阿吽」形式に変ったのではないかとも言われている。
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神社によっては、著名彫刻家による作品に出会うこともある「獅子と狛犬」だが、その意匠が通俗の範疇になる石製も多い。しかし、この「獅子と狛犬」は愛敬があり、そういうことで言えば石製でありながら、他にあまり類を見ない印象に残る個性を持っている。ちなみに沖縄の「シーサー」は、「獅子」を沖縄語で発音した伝説の獣で、災厄をもたらす悪霊を追い払う魔除けとされている。

小野神社😐😐😐かつて一つの神社だったと伝えられる「矢彦神社」に隣接し同じ社叢に鎮まる神社

2020-09-02 20:00:00 | 神社仏閣
国道153号線沿い、JR中央本線「小野駅」から徒歩約15分の「信濃国二之宮」の「小野神社」(塩尻市)は、かつて一つの神社だったと伝えられる隣接「矢彦神社」(上伊那郡辰野町)と、同じ社叢に鎮まる旧社格「県社」の神社だ。
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創建については不詳だが、「建御名方命(たけみなかたのかみ)」が、諏訪の土着「洩矢神(もりやのかみ/もりやしん)」のため諏訪へ進めず、この地で暫く留まったことが由緒だという伝承がある。
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両社の分割は、深志城(後の「松本城」)主「石川数正(いしかわ かずまさ)」(1533/天文2年~1593/文禄2年)と飯田城主「毛利秀頼(もうり ひでより)」(1541/天文10年~1593/文禄2年)による領地争いに遡るという。争いは1591(天正19)年、「小野」を「北小野」と「南小野」に分割という「豊臣秀吉」の裁定で、神社も「小野神社」と「矢彦神社」に分割されたという。分けられた「矢彦神社」境内は、「北小野」での「南小野」の飛び地になって現在に至っている。
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「小野神社」社殿は1672(寛文12)年の焼失を受け、松本藩主「水野直忠(みずの ただなお)」(1652/慶安5年~1713/正徳3年)により再建されたが、「御柱祭」に際して遷座するため、「一間社流造(いっけんしゃ ながれづくり)」の同規模の本殿二棟が建てられている。その「本殿」に並列する「一間社流造」の「八幡宮本殿」と、「本殿」前方中央に「切妻造(きりづまづくり)」「四脚門(よつあしもん/しきゃくもん)」の「勅使殿(ちょくしでん)」が位置している。
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なお「御柱祭」は、寅年と申年の「諏訪大社」の「御柱祭」翌年に、両社合同で行われるが、「人を見るなら諏訪御柱、綺羅を見るなら小野御柱」と、その煌びやかな衣装が現在でも語られる。
 ❖ 本殿 副本殿 八幡宮本殿 勅使殿  主祭神は、「古事記」において「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の御子神で、「事代主命(ことしろぬしのみこと)」の弟神とされ、「諏訪大社」主祭神でもある「建御名方命(たけみなかたのみこと)」だ。
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社殿は焼失した1672(寛文12)年に、松本藩の第3代藩主「水野忠直」により再建・寄進されている。水野家大工頭「中村四郎右衛門」らによる造営は、右「八幡宮本殿」中央「本殿」左「副本殿」の三棟が、母屋正面の柱間が一つの社殿「一間社(いっけんしゃ)」、屋根の前が長く伸びて向拝を覆い庇と母屋を同じ流れで葺く建築形式「流れ造り(ながれづくり)」、屋根を木の薄板で葺く「杮葺(こけらぶき)」(現在は銅板葺)だ。手前中央「勅使殿」一棟は、屋根最上部の大棟から両側へ斜めに葺き下ろす屋根の形式「切妻造り(きりづまづくり)」、2本の本柱の前後に2本ずつ4本の柱がある「四脚門(よつあしもん/しきゃくもん)」、「杮葺」(現在は銅板葺)で、何れも1992(平成4)年に長野県宝に指定されているという。
 ❖ 拝殿  左右に廻廊を備えた「拝殿」は、「本殿」を奥に控えて中央に、神道の祭祀に用いられる幣帛の一種「御幣(ごへい)」を納める。張られる幕は、松本藩主だった水野家の家紋「丸に沢瀉(おもだか)」を標し、粛然たる社殿に華を添える存在となっている。
 ❖ 神楽殿  「拝殿」手前右にある建物が「神楽殿(かぐらでん)」だ。「神楽殿」とは、神の来臨や神託を願い、神と人々が酒食をともにして歌舞する鎮魂呪術と、このとき行われる神事芸能「神楽」を奏するために、神社境内に設けた建物を言う。
 ❖ 鐘楼  境内の「鐘楼」は、「武田信玄」次子で、諏訪氏を継いで「高遠城主」となるも、信玄の没後家督を相続した「武田勝頼(たけだ かつより)」(1546/天文15年~1582/天正10年)が、戦勝祈願で1564(永禄7)年に寄進した梵鐘を納めるため造られたという。
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現地掲示に、梵鐘は「青銅製、周五尺二寸、丈三尺」で、鐘銘について「刻字は針刻で浅く、細い楷書で、その書体は素朴で美しい。文章も立派であるといわれ、この文中に武田勝頼の寄進した鐘であることが記されている。」と案内される。なお、梵鐘は1974(昭和49)年「塩尻市指定文化財」に指定されている。
 ❖ 境内摂末社(稲荷社 など)  「拝殿」に向かって手前左に境内社の摂末社が、左から「天神社(てんじんしゃ)」「宗像社(むなかたしゃ)」「子安社(こやすしゃ)」「稲荷社(いなりしゃ)」の順に並ぶ。
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「天神社」は、天界の神霊「天津(『つ』は古語で所属・位置を表す語)神」を祀る御霊信仰として始まったという。「菅原道真(すがわらのみちざね)」の憤死後、その怨霊を鎮める信仰と結びつき、やがて学問の神として崇める信仰になって広まったという。「菅原道真」とは関係がない神社もあって、「あまつかむやしろ」の読みもある。
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「宗像社」は、旧社格「官幣大社」の「宗像大社(むなかたたいしゃ)」を総本社とする「多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)」「市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)」「多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)」の「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」を祀る海上交通の守護神として信仰されて来たが、現在は陸上交通安全の神としても信仰されている。
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「子安社」は、「天照大神」の孫「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の妻で、神話の中でもとりわけ美しいと語られる女神「木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)」を祭神とする安産子育ての信仰の神社だが、現在は「子安観音」「子安地蔵」などの信仰と結びついたものが多い。
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「稲荷社」は、稲を象徴する穀物・農耕の神だが、現在は商工業の神としても信仰されている。