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旧馬島家住宅😐😐😐江戸時代中期から昭和に至る「ひな人形」を公開する住宅遺構

2021-03-25 15:00:00 | 史跡
「月遅れ」で行われるご当地の「ひな祭り」にあわせて、伊那市高遠町「旧馬島家住宅(県宝 高遠藩藩医馬島(まじま)家旧住宅)」座敷で、「ひな人形展」が開かれている。
 ❖ 旧馬島家住宅 
馬島家は、はじめ「松本藩水野家」に仕える眼科医だったが、水野家の改易にともなう浪人を経て、1727(享保12)年から5代にわたり眼科医として「高遠藩内藤家」に抱えられ、廃藩後も3代にわたってこの地で眼科医を継いでいたという。
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江戸時代の武士の住宅らしさを感じさせる簡素な外観の屋敷は、1836(天保7)年前後に建てられたとするが、玄関は診療室として使われていたという。藩医の住宅遺構として貴重で、2003(平成15)年に長野県宝として指定を受けている。
 ❖ ひな人形展 
八代将軍「徳川吉宗」の時代「享保年間」(1716~1736)に京都で生まれ各地に広まったという「享保雛(きょうほうびな)」、安永年間(1772~1781)に江戸の人形師「原舟月」が創始し、目に玉眼を用いたのが特徴といわれる「古今雛(こきんびな)」、小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾った「屋形雛(やかたびな)」、平安時代から始まった決め事「有職故実(ゆうそくこじつ)」に基づいて公家の装束を忠実に模して作られたという「有職雛(ゆうそくびな)」、高価な雛人形を購入できない一般家庭で、近所の人たちが小さな人形をつくり持ち寄って始めたという庶民の「つるし雛(つるしびな)」などが展示されている。




尖石遺跡 与助尾根遺跡🙂😐😐縄文時代の遺跡としては全国で四ヶ所に限られる「特別史跡」の指定を受けている集落遺跡

2020-09-08 20:00:00 | 史跡

「八ヶ岳」西側山麓の扇状台地を割る沢を挟んで、隣接する南側「尖石(とがりいし)遺跡」と、6棟の竪穴式住居が復元される北側「与助尾根(よすけおね)遺跡」は、約5,000年~4,000年前とされる「縄文時代中期」の竪穴住居の跡が200ヶ所以上発掘されている集落遺跡だ。
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「縄文時代」とそれ以前の「旧石器時代(きゅうせっきじだい)」を分けるものは、「土器」の存在だと言われているが、土器が発明され約13,000年前に始まったとされる「縄文時代」は、寒暖差の激しい期間を経て、約2,300年前まで約1万余年続き、稲作と金属器使用の「弥生時代」へと続くことになる。
 ❖ 尖石遺跡  中央自動車道「諏訪インターチェンジ」から車約20分、「茅野市豊平」にある「尖石遺跡」は、我が国を代表する縄文時代の遺跡だ。
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その「尖石遺跡」への注目は、「湖東村」(現在の「茅野市」)で生まれ、「東京高等師範学校」で、我が国初の人類学者「坪井正五郎(つぼい しょうごろう)」(1863/文久3年~1931/大正2年)に考古学を学んだ「小平小平治(こだいら こへいじ)」( ~1895/明治28年)が、1891(明治24)年「東京人類学会雑誌」誌上で初めて「広見の遺跡」として現在の「尖石遺跡」を紹介し、1893(明治26)年に学会へ報告したことに始まるという。
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1928(昭和3)年、東京で開催された「石器時代文化展覧会」において「龍谷文庫」(「小平小平治」のコレクション)に興味を持った「伏見宮博英王(ふしみのみや ひろひで おう)殿下」が翌年発掘を行って、「尖石遺跡」の発掘調査が始まったという。
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本格的な発掘調査に取り組んだのは、「豊平村」(現在の「茅野市」)出身の考古学者「宮坂英弌(みやさか ふさかず)」(1887/明治20年~1975/昭和50年)で、1930(昭和5)年から独力で発掘を始めて、1952(昭和27)年まで続けたという。
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日本で最初の縄文時代の集落の存在が確認されたという同遺跡は、1942(昭和17)年に「尖石石器時代遺跡」の名称で国の「史跡」に指定され、1952(昭和27)年には国の「特別史跡」を受けたという。「特別史跡」とは、学術上の価値が特に高いとされる「史跡」で、縄文時代の遺跡はここ「尖石石器時代遺跡」と、「三内丸山遺跡」(青森県青森市)「大湯環状列石」(秋田県鹿角市)「加曽利貝塚」(千葉県千葉市)の四ヶ所に限られている。
   ❖ 尖石  遺跡の南斜面に住民から「とがりいしさま」と呼ばれる三角錐状の先端が尖った石がある。高さ約1メートルのこの石は、古くからの信仰対象らしく祠も祀られているが、「尖石遺跡」の名前の由来になった石だという。
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現地に「この一帯は、明治25年頃桑畑にするために開墾され、その時見馴れない土器や石器が多量に出土しましたが、祟りを恐れて捨ててしまったといわれています。」「この『とがり石』の下には宝物がかくされているとの言い伝えから、ある時こっそり村人が掘ったところ、その夜立ちどころにおこり(熱病)にかかって死んでしまったとのことです。この石を神聖視する信仰から生じた言い伝えでしょう。」と案内される。
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また、「八ヶ岳の墳出岩(ママ)の安山岩で」「右肩の桶状の凹みは磨り痕から人工のものと思われます。縄文時代に磨製石斧を製作した際に、共同砥石に使用されたものとも、また縄文時代には石を重要な利器としたところから、地中から突き出したこの石を祭祀の対象としたものであろうともいわれています。」と続けられている。
 ❖ 与助尾根遺跡  「尖石遺跡」から「茅野市尖石縄文考古館」経て徒歩約5分にある「与助尾根遺跡」は、開墾中の1935(昭和10)年に、ほとんど手つかずのままで、その存在が発見されたという。
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1946(昭和21)年には、「尖石遺跡」の本格的発掘に取り組んでいた「宮坂英弌」が、縄文時代の集落全体を発掘する目的で、「与助尾根遺跡」の調査に取り掛かり、その全容がほぼ解明されて、縄文時代の集落研究の出発点となったという。
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現在の竪穴式住居6棟は、同時に建っていた可能性のある6棟で、当時の集落のようすを感じることの出来る復元だという。なお1993(平成5)年には、国の「特別史跡」の「尖石石器時代遺跡」に、「与助尾根遺跡」が追加指定されている


 ❖ 茅野市尖石縄文考古館  「豊平村」(現在の「茅野市」)出身の考古学者「宮坂英弌」を初代館長に、「茅野市尖石考古館」として1955(昭和30)年に開館し、2000(平成12)年に至って新装再開館した考古博物館だ。
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同館は、「八ヶ岳」西側山麓に広がる我が国屈指の縄文遺跡群の出土品を中心とした考古学資料を展示しているが、主な展示品では土偶で通称「縄文のビーナス」「仮面の女神」や、土器「蛇体把手付深鉢」「蛇殻状突起付深鉢」「有孔鍔付土器」などが知られている。
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市内最大規模の「棚畑(たなばたけ)遺跡」(茅野市米沢埴原田)から、1986(昭和61)年に出土した「縄文のビーナス」は、遺跡の中央部から寝かせるような状態で、完全な形で出土したという。切れ長のつり上がった目などに縄文時代中期の土偶特有の顔を見せ、張り出した腹部と臀部が妊娠した女性を思わせると言われているが、同土偶は1995(平成7)年に、縄文時代の遺跡からの出土品として、初めての「国宝」に指定された
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「中ッ原(なかっぱら)遺跡」(茅野市湖東山口)から、2000(平成12)年に出土した大型土偶で、中が空洞の中空土偶「仮面の女神」は、約4,000年前の縄文時代後期前半に作られたとされる。遺跡の墓が集中する場所から、人為的に右足を胴体から外された状態で出土したというが、顔面が逆三角形の仮面がつけられた表現になっている土偶で、2014(平成26)年に同館2点目の「国宝」に指定された
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「土偶」は約11,000年前に登場したと考えられているが、女性を表現したものが圧倒的に多く、「縄文時代中期」以降、顔や妊娠を表現するものになってきたという。多く壊れた状態で出土し、小さいものはより壊れていると言われる「土偶」だが、精霊が宿るとして儀式に用いられ、壊すことで儀式が完遂した、あるいは怪我や病の治癒を祈って同じ部位を壊した、壊した土偶を台地に撒いて豊穣を願ったなど、諸説あるという。
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他に、土器の縁に口を開いた蛇体が塑造加飾され、器面に縄文がつけられた深鉢形縄文土器「蛇体把手付深鉢」など、尖石遺跡を代表する土器をはじめとして見るべきものは多い
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なお、同館の開館時間は、09:00~17:00(入館は16:30まで)で、月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始が休館となる。臨時休館や企画展などへの所蔵資料貸出もあるので、開館や展示などについては、HPあるいは電話で情報確認をしてから訪問するのが良いだろう。




井戸尻遺跡😐😐😐我が国を代表する縄文時代中期の遺跡群における遺跡

2020-09-06 22:00:00 | 史跡

中央自動車道「小淵沢インターチェンジ」から車約12分、「長野県富士見町境」にあって、約7,000年前の縄文時代早期に始まり、約5,000年~4,000年前の縄文時代中期に最も栄えたとされる集落遺跡が「井戸尻(いどじり)遺跡」だ。
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中小の河川が放射状に流れる八ケ岳の南麓、海抜800m~1000mの尾根や台地上に立地する一帯は、「井戸尻」「曾利(そり)」「藤内(とうない)」「九兵衛尾根(きゅうべえおね)」「居平(いだいら)」「唐渡宮(とうどのみや)」「向原(むこうっぱら)」などの遺跡が集中して、「井戸尻遺跡群」を形成する
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それまでの農作業で多く土器や石器が見つかっていたというが、1958(昭和33)年、地元上諏訪町(現在の「諏訪市」)出身の考古学者「藤森栄一(ふじもり えいいち)」(1911/明治44年~1973/昭和48年)や、「茅野市尖石縄文考古館」初代館長の考古学者「宮坂英弌(みやさか ふさかず)」(1887/明治20年~1975/昭和50年)の指導のもとで発掘調査が行われ、1965(昭和40)年に2回目の発掘調査を経て、翌1966(昭和41)年国の「史跡」に指定されたという。
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なお現地には、「復元家屋は、長らく第四号住居跡に設けられていたが、平成五年の全面改築を機に現在の場所に移した」「柱の配置や炉など、中期中葉の井戸尻期に標準的な形態を復元した」との案内がある。



 ❖ 井戸尻考古館  「井戸尻遺跡」から徒歩約4分の「井戸尻考古館」は、これまでの発掘調査の出土資料のうち約2,000点の土器や石器と、住居や装身具などを展示し、当時の宗教観や世界観などを解説する
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1963(昭和38)年、パリで開催された「日本古美術展」に展示されたという「水煙渦巻文深鉢」は、1972(昭和47)年「郵便はがき」の料額印面の意匠にも採用され、広く人々に紹介されるところとなったが、卓越した意匠を示す我が国の縄文土器の一つと言えるだろう。
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また、「藤内遺跡」から出土した「半人半蛙文有孔鍔付土器」を含む土器と石器は、「長野県藤内遺跡出土品」として国の「重要文化財」に指定されているほか、1975(昭和50)年「曽利遺跡」の第四号住居跡から出土した7点の土器も、県宝に指定されている。
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同館の開館は午前9時~午後5時で、月曜日(月曜日が祝日の場合は開館)と祝日の翌日、年末年始が休館となる。

 ❖ 富士見町歴史民俗資料館  「井戸尻遺跡」「井戸尻考古館」それぞれから徒歩約3分の「富士見町歴史民俗資料館」は、農業を中心とする生産用具と生活用具や古文書など民俗資料を、収集し展示公開する
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同地は、縄文時代中期に最も栄えたとされる「井戸尻遺跡群」に始まり、戦国時代には甲斐「武田信玄」の信濃攻略拠点となり、江戸時代には「甲州街道」の「蔦木宿」が置かれたというが、1955(昭和30)年に「富士見」「本郷」「落合」「境」の4村が合併し、「富士見町」として現在に至っているという。
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同館の開館は午前9時~午後5時で、月曜日と祝日の翌日、年末年始が休館となる。

茅野市尖石縄文考古館🙂🙂😐展示される国宝指定土偶も縄文土器も圧巻の博物館

2020-05-03 22:26:29 | 史跡

「茅野市尖石縄文考古館」は、特別史跡指定の「尖石遺跡」や「与助尾根遺跡」など八ヶ岳山麓に広がる縄文遺跡群から出土した発掘考古資料を保管・展示する博物館だ。
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現在よりやや高い気温だった縄文時代の八ヶ岳山麓は、落葉広葉樹の森が広がった豊かな自然の中で、食料になる動植物にも恵まれて、台地それぞれが、それぞれに集落を営むのに適した地形で、人口急増への条件が揃っていたという。
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茅野市内では、約5,000~4,000年前の縄文時代中期を中心に、現在までに約240ヶ所の縄文遺跡が発掘されているといわれるが、「古館」には完全な形の見事な縄文土器などが多数展示されていて圧巻だ。
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中でも必見は、全国唯一の国宝指定土偶の複数体展示になる縄文時代中期の「縄文のビーナス」と縄文時代後期の「仮面の女神だ。ただ、国宝2体は企画展への貸し出しなどで、レプリカ展示になることがあるので、訪問前に実物が展示されているかを、電話などで確かめるのがよいだろう。
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同館見学に併せて、隣接の「与助尾根遺跡復元住居群」に臨んだ時間は、1万3,000年以上前に遡って旧石器時代に始まる八ヶ岳山麓に連綿と続いた人々の生きる営み気が、時空を切り裂いて突然現出するという錯覚に包まれる時間となった。何万年かを費やして現在にたどり着いている人類の存在のかけがえなさを、あらためて受けとめ、現在に生きる自らの生にも深く感じ入る機会となった。