小さな旅を愉しむための情報PLUS

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光前寺 伽藍(十王堂 弁天堂 経蔵 など )😐😐😐伽藍配置をふくめ「国の名勝」指定を受ける境内の景趣で知られる寺院

2020-07-30 12:30:00 | 神社仏閣
中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約3分、中央アルプス山麓に広がる「宝積山(ほうしゃくざん)無動院(むどういん)光前寺(こうぜんじ)」は、860(貞観2)年に開基されたとする天台宗の「別格本山」で、信濃五山に数えられた比叡山延暦寺末の寺院だという。作庭が「蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)」(1213/嘉定6年~1278/弘安元年)とも「夢窓疎石(むそう そせき)」(1275/建治元年~1351/正平6年)とも言われ、極楽浄土の庭園とも言われる「池泉庭園」が本堂前にある。その庭園や、樹齢数百年の杉巨木と光苔の参道、伽藍配置までをふくめ「光前寺庭園」として、1967(昭和42)年に「国の名勝」指定を受けているが、その境内の景趣で知られている寺院だ。
 ❖ 苔の古道  「仁王門」から「三門」に向かって、「光苔(ひかりごけ)」が自生する石垣と杉巨木の参道を進むと、「本坊」への入口を過ぎて右手に「苔の古道」が開ける。
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森々として聳立する杉巨木に、現在に至る悠遠の時間の今も息づくのを感じる一方で、鬱蒼と繁る木々の中の「苔の古道」は、苔に覆われて深い眠りに入っているかのような停止してしまった時間を、思いがけず感じてしまう眺めだ。ただし、保存のため「苔の古道」に立ち入ることはできない
 ❖ 十王堂  切妻屋根、高床、板壁、瓦葺きの簡素な「十王堂/奏楽堂」は、かつて後方の池に舞台があった時に雅楽器を演奏する建物だったというが、現在は江戸初期の制作と考えられる「地蔵菩薩坐像」「十王(じゅうおう)像」が安置されている
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その「十王」とは、仏教などで亡者の審判を行う10尊「秦広王(しんこうおう)」「初江王(しょこうおう)」「宗帝王(そうていおう)」「五官王(ごかんおう)」「閻魔王(えんまおう)」「変成王(へんじょうおう)」「泰山王(たいざんおう)」「平等王(びょうどうおう)」「都市王(としおう)」「五道転輪王(ごどうてんりんおう)」を言う。すべての衆生は没後、来世に生を受けるまでの期間を言う「中陰(ちゅういん)」において、「初七日」「七七日(四十九日)」「百か日」「一周忌」「三回忌」に、順次「十王」の裁きを受けるという。
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衆生が生存中の行為の結果として、おもむくことになる「六道(ろくどう)」(「天道」「人間道」「畜生道」「修羅道」「餓鬼道」「地獄道」の六界)への輪廻を掌る「十王」は畏怖の対象となり、生きているうちに「十王」を祀ることで、死して後に罪を軽減してもらい、死後の冥福を祈るという仏事「預修(よしゅ)」を営む信仰が生まれたという。
 ❖ 弁天堂  1967(昭和42)年に「国の名勝」指定を受けた境内を「本堂」に向かって進むと、その石段手前参道をはさんで、左手の「十王堂」と対面する右手に、一間四方の簡素な小堂宇がある。
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1971(昭和46)年「国の重要文化財」に指定された「弁天堂」で、1759(宝暦9)年の記録には、現在の「十王堂」の位置にあって、その後現在地に移されたというが、1576(天正4)年/別の史料では1661(寛文元)年に建立されたという建物だ。
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兵禍などでの度重なる火災によって、建物や古記録が失われている「光前寺」にあって、最も古い建物だという。上部が「切妻」のように二方へ傾斜し、下部は「寄棟」のように四方へ傾斜する屋根の形式「一重入母屋造」で、薄くはいだ板で葺いた屋根「杮葺(こけらぶき)」から、1963(昭和38)年に銅板葺に葺き替えられたという。堂内には、室町時代末期に造られた厨子があり、1500(明応9)年「七条大倉法眼作之」の墨書きがある「弁財天(べんざいてん)像」と、眷属として従う「十五童子(じゅうごどうじ)像」が、安置されているという。
 ❖ 経蔵  参道を進み「三門」を過ぎると、右手に同寺が「霊木」とする樹齢約700年と伝えられる「三本杉」があって、その奥に1802(享和2)年に再建されたという「唐破風(からはふ)造り」(屋根の張出した向拝に用いる中央部が弓形で三角形部分の破風が左右両端ともに反り返って曲線状になっている妻側の造形をいう)の端正な「経蔵」がある。
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古くは1316(正和)年の経から、「早太郎(はやたろう)伝説」由来1822(文政5)年の「大般若経」などの経文が、収蔵されているという。
 ❖ 上穂十一騎の碑  「三重塔」西の石碑群は、「上穂衆(うわぶしゅう)」の十一騎「駒ヶ岳大貮坊」「春日昌義」「小林義國」「鹽木九四郎」「湯原三四郎」「田中員近」「北村政明」「荒井圖書之助」「横山五郎」「北原春之助」「木下大隅」が、「真田幸村」麾下に入り、1614(慶長19)年「大坂冬の陣」における出城「真田丸」での奮闘と、1615(元和元)年「大坂夏の陣」で、徳川方本陣まで迫る奮闘をするも「真田幸村」とともに討死したことが語られる「上穂十一騎伝説」の祠だ
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その石祠・伽藍塔十一基は1888(明治21)年、石灯籠一対は1920(大正9)年に建立されたという。11名はすべて次男や三男だったというが、その追惜は長子に生まれなかった者が、時代に生きる道を求めて散っていった姿を偲ぶよい機会となるだろう。

光前寺 伽藍(仁王門 三門 本堂 三重塔)😐😐😐伽藍配置をふくめ「国の名勝」指定を受ける境内の景趣で知られる寺院

2020-07-28 22:41:36 | 神社仏閣
中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約3分、中央アルプス山麓に広がる「宝積山(ほうしゃくざん)無動院(むどういん)光前寺(こうぜんじ)」は、860(貞観2)年に開基されたとする天台宗の「別格本山」で、信濃五山に数えられた比叡山延暦寺末の寺院だという。作庭が「蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)」(1213/嘉定6年~1278/弘安元年)とも「夢窓疎石(むそう そせき)」(1275/建治元年~1351/正平6年)とも言われ、極楽浄土の庭園とも言われる「池泉庭園」が本堂前にある。その庭園や、樹齢数百年の杉巨木と光苔の参道、伽藍配置までをふくめ「光前寺庭園」として、1967(昭和42)年に「国の名勝」指定を受けているが、その境内の景趣で知られている寺院だ。
 ❖ 仁王門  一般に「仁王像/二王像(におうぞう)」と呼ばれる「金剛力士像(こんごうりきしぞう)」は、仏法と仏教徒を守護する神「護法善神(ごほうぜんじん)」で、裸身像の存在もあるが、守護のため甲冑を身に着け、口を開いた「阿形(あぎょう)像」と、口を結んだ「吽形(うんぎょう)像」の二身となって寺門に立つ仏像だ。
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ここ「宝積山(ほうしゃくざん)光前寺(こうぜんじ)」のエントランスにあたる現在の「仁王門」は、1941(昭和41)年の突風で大破し、1944(昭和19)年に再建されたというが、安置される「仁王像」は、頭部の銘文から1528(大永8/享禄元)年に造られたものだと言われ、檜の寄木造(よせぎづくり)で、赤色顔料による朱塗りが残り、一部には制作当時の金泥(きんでい)も残っている。

 ❖ 三門  「三門」とは、欲深くむさぼる「貪(とん)」、自分の心に逆らうものを怒り恨む「瞋(しん)」、俗念に妨げられ真理を悟ることが出来ない「痴(ち)」の三つの煩悩を解脱する境界の門「三解脱門」にたとえて言った「本堂」の前にある正門で、楼上内部に仏教の開祖の尊称「釈迦如来(しゃかにょらい)」と、この世にとどまって仏法を守り衆生を導くと誓った16人の弟子「十六羅漢(じゅうろくらかん)」ほかの仏像を祀っているという。
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ここ「光前寺」の「三門」は、1818(文政元)年の焼失後、1848(嘉永元)年に再建された「三間三戸」「入母屋」「杮葺」「間口30尺(約9メール)」の「八脚二重楼門」で、2011(平成23)年に「駒ヶ根市指定文化財」に指定されているという。

 ❖ 本堂  1851(嘉永4)年に再建されたという「本堂」は、東アジアの伝統的屋根形式である上部が「切妻造」下部が「寄棟造」で四つの軒をもつ「入母屋造(いりもやづくり)」で、薄くはいだ板で葺いた屋根「杮葺(こけらぶき)」に、建物の妻側に出入口のある「妻入(つまいり)」(棟と平行する側に出入口のあるものは「平入」)、桁行五間正面一間で、妻側の三角形部分につけられた中央部が弓形で両端が反り返った曲線状の装飾板「軒唐破風(のきからはふ)」に、参詣者が礼拝する正面階段上のふきおろしの屋根「向拝(こうはい)」付きの建物だ。
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「破風板」の下で「棟木(むなぎ)」や「桁」の木口を隠す飾り板「向拝懸魚(けぎょ)」に鳳凰、「天井」と「鴨居(かもい)」の間の開口部「欄間(らんま)」に松、「頭貫(かしらぬき)」などの端が柱から突き出た部分「木鼻(きばな)」に獅子、海老のように湾曲した梁「蝦虹梁(えびこうりょう)」には龍で、その付根には力士の彫刻が施されている。
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安置される本尊は秘仏「不動明王(不動明王音日八大童子)」だが、宇宙の実相を仏格化した根本仏といわれる「大日如来(だいにちにょらい)」の命を受けて、仏道の妨げになるものを撃破する力をもつのが、「大日如来」の化身とも言われる五大明王の一員「不動明王(ふどうみょうおう)」だ。「不動明王」は、八人の金剛童子「慧光(えこう)」「慧喜(えき)」「阿耨達(あのくたつ)」「指徳(しとく)」「烏俱婆迦(うぐばか)」「清浄比丘(しょうじょうびく)」「矜羯羅(こんがら)」「勢多迦(せいたか)」を眷属として従えて造像されることが多いという。

 ❖ 三重塔  南信州唯一の「三重塔」は、鬱蒼と繁る木々を後景にして、「本堂」手前左方向に建つ県指定文化財だ。「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築により、競合する「大隅(おおすみ)流」を圧倒する評判を得たという「立川(たてかわ)流」の棟梁「立川和四郎冨棟(わしろうとみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)の子どもで、卓越した彫刻技術は単なる装飾彫刻から芸術性高い彫刻へ押し上げたといわれる棟梁「立川二代和四郎冨昌(とみまさ)」(1782/天明2年~1856/安政3年)と弟の「四郎治冨方」により1808(文化5)年に再建されたという。
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現在は銅板葺だが「杮葺(こけらぶき)」高さ17.635mの建物で、初層と二層は二重の平行垂木のうち間隔の密な「繁棰(しげだるき)」、三層は二重の放射状に配置した垂木「扇棰(おうぎだるき)」で、各層の組物と組物の間にあって桁を受ける支持材だが装飾的要素が強い「中備(なかぞなえ)」に彫刻を嵌め込んだ瀟洒な建築だ。
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内には宇宙の実相を仏格化した根本仏といわれる「大日如来(だいにちにょらい)」を中央に、「大日如来」のもとで発願修行して成仏したといわれる「阿閦如来(あしゅくにょらい)」、五智のうち「平等性智(びょうどうしょうち)」の徳をつかさどるという「宝生如来(ほうしょうにょらい)」、「阿弥陀如来(あみだにょらい)」をいう「無量寿如来(むりょうじゅにょらい)」、五智のうち「成所作智(じょうしょさち)」を受け持つ「不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)」の「五智(ごち)如来」を安置しているという。

光前寺 賽の河原😐😐😐高遠石工の守屋貞治が制作したという親地蔵と三十余体の子地蔵が佇む森閑たる空間

2020-07-26 21:32:02 | 神社仏閣


中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約3分、中央アルプス山麓に広がる「宝積山(ほうしゃくざん)無動院(むどういん)光前寺(こうぜんじ)」は、天台宗の「別格本山」で信濃五山に数えられた比叡山延暦寺末の寺院だという。
◇ ◇ ◇
作庭が「蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)」(1213/嘉定6年~1278/弘安元年)とも「夢窓疎石(むそう そせき)」(1275/建治元年~1351/正平6年)とも言われ、極楽浄土の庭園とも言われる「池泉庭園」が本堂前にある。その庭園や、樹齢数百年の杉巨木と光苔の参道に、伽藍配置までをふくめ「光前寺庭園」として、1967(昭和42)年「国の名勝」指定を受けているが、その境内の景趣や、猿神退治「早太郎(はやたろう)伝説」でも知られている寺院だ。
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1808(文化5)年に再建されたという長野県宝「三重塔」の南西に、「賽の河原地蔵和讃(さいのかわらじぞうわさん)」で「幼く死んで、賽の河原で地獄の鬼に責め苛まれる子どもを、地蔵菩薩が救済し庇護する」話が謡われる「賽の河原」がある。
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親より先に死んだ子どもが、冥途の三途の川ほとりにある河原で、石積みをして塔をつくろうとしても、地獄の鬼が現れ、積んでも積んでも崩して、子どもを苦しめるという仏教説話は、他からの邪悪なものの侵入を防ぐ神「塞の神(さえのかみ)」と地蔵信仰の習合が、江戸時代に普遍化した俗信で、仏典には典拠がないと言われている。
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しかし、森々として聳立する杉の古木に囲まれるここ「光前寺」の「賽の河原」は、高遠石工「守屋貞治(もりや さだじ)」(1765/明和2年~1832/天保3年)が、文化年間(1804年~1818年)に制作したという坐高1.38メートルの親地蔵と、その周辺に並ぶ三十余体の子地蔵、そして積み上げられた小石によって、現世のなお果てぬパトスが治まる空間となって存在している。





光前寺😐😐😐「応天門の変」と同時代の860(貞観2)年に開基されたという猿神退治「早太郎伝説」の古刹

2020-07-25 15:08:20 | 神社仏閣



中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約3分、中央アルプス山麓に広がる「宝積山(ほうしゃくざん)無動院(むどういん)光前寺(こうぜんじ)」は、天台宗信濃五山に数えられた比叡山延暦寺末だ。本尊は「大日如来(だいにちにょらい)」の化身とも言われる「不動明王(ふどうみょうおう)」で、天台宗「別格本山」の寺院だともいう。
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四大絵巻物とされる国宝「伴大納言絵詞」の題材で、大伴氏没落と藤原氏摂関政治確立のきっかけとなった事件とされる866(貞観8)年の「応天門の変」と同時代の860(貞観2)年に、第3代天台座主「円仁(えんにん)慈覚大師(じかくだいし)」の弟子「本聖上人(ほんじょうしょうにん)」によって開基されたとする。時代は、905(延喜5)年奏上の「古今和歌集」や935(承平5)年頃の成立とされる「土佐日記」、あるいは10世紀半ばまでの成立とされる「竹取物語」などから遡ること半世紀から1世紀前のことだ。
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その古刹を舞台に語り継がれる「早太郎(はやたろう)伝説」は、かつて「市原悦子」「常田富士男」の語りによりTBS系列で放映された「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されたという「猿神退治伝説」で、遠州府中(現在の静岡県磐田市)の人身御供を要求する妖怪を退治する説話だ。平安時代後期「天永」から「保安」年間(1110~1124年)に成立とされる「今昔物語集」の「巻二十六 美作國神依猟師謀止生贄語」や鎌倉時代「建保」から「承久」年間(1213~1222年)の成立とされる「宇治拾遺物語」の「巻第十ノ六 吾妻人生贄を止むる事」などに収録され、各地でも語り継がれる説話のご当地版だ。なお「早太郎」を、駒ヶ根では「疾風太郎(しっぷうたろう)」 磐田では「悉平太郎(しっぺいたろう)」とも呼んでいるという。
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妖怪との戦いで息絶えたとされる光前寺で飼われていた山犬「早太郎」の供養に、「一実坊弁存(いちじつぼうべんぞん)」が奉納したとする「大般若心経」が、寺宝として現在に伝わるといい、本堂脇には墓として「早太郎」が祀られる
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格別の情趣を湛えているが訪問者の限られた以前の山寺から、現在は春の桜や秋の紅葉のライトアップに取り組む観光に傾斜した分かり易い姿に変貌した同寺ではあるが、機会あれば訪ねたい鄙なる寺院のひとつだろう。
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〈早太郎伝説の梗概〉 およそ700年前のこと、遠江国見附村(現在の静岡県磐田市)矢奈比賣神社(見付神社)の毎年の祭りでは、白羽の矢が立った村の娘を、人身御供として神に捧げねばならなかった。折しも通りかかった旅僧「一実坊弁存(いちじつぼうべんぞん)」は、神が人身御供を要求することを訝り、その正体が信濃国「早太郎」を忌避する妖怪であることを突き止めて、村人を救うために信濃国へ向かい「早太郎」を探し求めたという。光前寺で飼われている山犬が「早太郎」であると探しあてると、さっそく借り受けて見附村へと取って返した。再びやって来た祭りの夜、村の娘の代わりに長持ちに入って妖怪の前に捧げられた「早太郎」は、躍り出て激しい戦いの末に妖怪の老狒々を退治したという。しかし、戦いで深手を負い絶え絶えとなった「早太郎」は、光前寺へ帰り着くと、和上に一声吠えて息絶えてしまった。




神坂神社😐😐😐境内に「萬葉集」防人歌の歌碑が建つ旧東山道の難所「御坂峠」信濃側登り口に鎮まり坐す神社

2020-07-23 19:17:35 | 神社仏閣


中央自動車道「園原インターチェンジ」(下り線入口と上り線出口のみ)から車約20分、「飯田山本インターチェンジ」から車約40分の「下伊那郡阿智村智里杉ノ木平」で、古代から中世にかけての幹線道路だった旧「東山道(とうさんどう/とうせんどう など諸説)」最大の難所「御坂峠/神坂峠(みさかとうげ)」の信濃側登り口を左脇にして鎮まり坐す旧社格「無格社」の神社だ。
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祭神は「住吉三神(すみよしさんしん)」と言われる「底筒男命(そこつつのおのみこと)」「中筒男命(なかつつのおのみこと)」「表筒男命(うわつつのおのみこと)」だが、海の神であり航海の神である三神が、この山中に祀られた経緯は不詳だという。
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ただ、「古事記」に「阿曇連はその綿津見神の子」と記され、「日本書紀」に「海人の宗に任じられた」と記される「海神族(わたつみぞく)」の有力氏族「阿曇氏/安曇氏(あずみうじ)」が、発祥の「筑前国糟屋郡阿曇郷」(現在の「福岡県福岡市東区」「福岡県糟屋郡新宮町」)から、やがて「信濃国安曇郡」(現在の長野県「安曇野市」「大町市」「北安曇郡」「南安曇郡」など)への定住に繋がる「御坂峠」越えで、要衝の地として祖神を祀ったとも伝わるという。
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江戸時代中期以降に、第12代「景行天皇(けいこうてんのう)」皇子で九州の「熊襲(くまそ)」や東国の「蝦夷(えぞ)」討伐に遣わされた古代史における伝承上の英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」(「古事記」では「倭建命」)、第15代「応神天皇」の諱「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」、「諏訪大社」の祭神「建御名方命(たけみなかたのかみ)」、「天照大神」の弟「須佐之男命(すさのおのみこと)」が合祀されたと言われており、現在の社殿は1889(明治22)年の建立になるという。
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境内には、755(天平勝宝7/皇紀1415)年に防人として徴用された信濃国の若者が、「御坂峠/神坂峠」を越える時に詠んだ4402番の歌(「万葉集 巻二十」所収)の刻まれた歌碑が1902(明治35)年に建立されている。
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その「防人歌」は、「萬葉集 知波夜布留賀美乃 美佐賀爾怒佐麻都 里伊波負伊能知波 意毛知知我多米 主帳埴科郡神人部子忍男」で「万葉集 ちはやふる神の御坂に幣まつり斎ふ命は母父がため 主帳埴科郡神人部子忍男(まんえふしふ ちはやふる かみのみさかに ぬさまつり いはふいのちは おもちちがため しゆちやうはにしなこおりかんとべのこおしお)」だ。「ちはやふる」は「神の枕詞」、「神の御坂」とは「東山道の難所と言われる御坂峠のこと」でその登り口に鎮まり坐すのが御坂神社になる。また、「幣」は「祈願するため神前に捧げる供え物」で、御坂峠からは幣の原型といわれる石製品が千数百点出土しているという。歌意「神の境域の御坂峠に幣を手向けて、祈る命の無事は、母と父のためです。」からは、残された両親のために生きて帰りたいと祈る思いが迫り来る。
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鬱蒼とした山中の境内は、樹齢1,000年を超えると言われる「日本杉(やまとすぎ)」や、樹齢500年を超えると言う「栃」の巨木を包む空間で、時間を切り裂いて現れる古代の空気が漂うかと、錯覚を呼ぶ空間となって存在している。