中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約3分、中央アルプス山麓に広がる「宝積山(ほうしゃくざん)無動院(むどういん)光前寺(こうぜんじ)」は、860(貞観2)年に開基されたとする天台宗の「別格本山」で、信濃五山に数えられた比叡山延暦寺末の寺院だという。作庭が「蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)」(1213/嘉定6年~1278/弘安元年)とも「夢窓疎石(むそう そせき)」(1275/建治元年~1351/正平6年)とも言われ、極楽浄土の庭園とも言われる「池泉庭園」が本堂前にある。その庭園や、樹齢数百年の杉巨木と光苔の参道、伽藍配置までをふくめ「光前寺庭園」として、1967(昭和42)年に「国の名勝」指定を受けているが、その境内の景趣で知られている寺院だ。
❖ 苔の古道 「仁王門」から「三門」に向かって、「光苔(ひかりごけ)」が自生する石垣と杉巨木の参道を進むと、「本坊」への入口を過ぎて右手に「苔の古道」が開ける。
❖ 苔の古道 「仁王門」から「三門」に向かって、「光苔(ひかりごけ)」が自生する石垣と杉巨木の参道を進むと、「本坊」への入口を過ぎて右手に「苔の古道」が開ける。
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森々として聳立する杉巨木に、現在に至る悠遠の時間の今も息づくのを感じる一方で、鬱蒼と繁る木々の中の「苔の古道」は、苔に覆われて深い眠りに入っているかのような停止してしまった時間を、思いがけず感じてしまう眺めだ。ただし、保存のため「苔の古道」に立ち入ることはできない。
❖ 十王堂 切妻屋根、高床、板壁、瓦葺きの簡素な「十王堂/奏楽堂」は、かつて後方の池に舞台があった時に雅楽器を演奏する建物だったというが、現在は江戸初期の制作と考えられる「地蔵菩薩坐像」「十王(じゅうおう)像」が安置されている。
❖ 十王堂 切妻屋根、高床、板壁、瓦葺きの簡素な「十王堂/奏楽堂」は、かつて後方の池に舞台があった時に雅楽器を演奏する建物だったというが、現在は江戸初期の制作と考えられる「地蔵菩薩坐像」「十王(じゅうおう)像」が安置されている。
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その「十王」とは、仏教などで亡者の審判を行う10尊「秦広王(しんこうおう)」「初江王(しょこうおう)」「宗帝王(そうていおう)」「五官王(ごかんおう)」「閻魔王(えんまおう)」「変成王(へんじょうおう)」「泰山王(たいざんおう)」「平等王(びょうどうおう)」「都市王(としおう)」「五道転輪王(ごどうてんりんおう)」を言う。すべての衆生は没後、来世に生を受けるまでの期間を言う「中陰(ちゅういん)」において、「初七日」「七七日(四十九日)」「百か日」「一周忌」「三回忌」に、順次「十王」の裁きを受けるという。
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衆生が生存中の行為の結果として、おもむくことになる「六道(ろくどう)」(「天道」「人間道」「畜生道」「修羅道」「餓鬼道」「地獄道」の六界)への輪廻を掌る「十王」は畏怖の対象となり、生きているうちに「十王」を祀ることで、死して後に罪を軽減してもらい、死後の冥福を祈るという仏事「預修(よしゅ)」を営む信仰が生まれたという。
❖ 弁天堂 1967(昭和42)年に「国の名勝」指定を受けた境内を「本堂」に向かって進むと、その石段手前参道をはさんで、左手の「十王堂」と対面する右手に、一間四方の簡素な小堂宇がある。
❖ 弁天堂 1967(昭和42)年に「国の名勝」指定を受けた境内を「本堂」に向かって進むと、その石段手前参道をはさんで、左手の「十王堂」と対面する右手に、一間四方の簡素な小堂宇がある。
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1971(昭和46)年「国の重要文化財」に指定された「弁天堂」で、1759(宝暦9)年の記録には、現在の「十王堂」の位置にあって、その後現在地に移されたというが、1576(天正4)年/別の史料では1661(寛文元)年に建立されたという建物だ。
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兵禍などでの度重なる火災によって、建物や古記録が失われている「光前寺」にあって、最も古い建物だという。上部が「切妻」のように二方へ傾斜し、下部は「寄棟」のように四方へ傾斜する屋根の形式「一重入母屋造」で、薄くはいだ板で葺いた屋根「杮葺(こけらぶき)」から、1963(昭和38)年に銅板葺に葺き替えられたという。堂内には、室町時代末期に造られた厨子があり、1500(明応9)年「七条大倉法眼作之」の墨書きがある「弁財天(べんざいてん)像」と、眷属として従う「十五童子(じゅうごどうじ)像」が、安置されているという。
❖ 経蔵 参道を進み「三門」を過ぎると、右手に同寺が「霊木」とする樹齢約700年と伝えられる「三本杉」があって、その奥に1802(享和2)年に再建されたという「唐破風(からはふ)造り」(屋根の張出した向拝に用いる中央部が弓形で三角形部分の破風が左右両端ともに反り返って曲線状になっている妻側の造形をいう)の端正な「経蔵」がある。
❖ 経蔵 参道を進み「三門」を過ぎると、右手に同寺が「霊木」とする樹齢約700年と伝えられる「三本杉」があって、その奥に1802(享和2)年に再建されたという「唐破風(からはふ)造り」(屋根の張出した向拝に用いる中央部が弓形で三角形部分の破風が左右両端ともに反り返って曲線状になっている妻側の造形をいう)の端正な「経蔵」がある。
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古くは1316(正和)年の経から、「早太郎(はやたろう)伝説」由来1822(文政5)年の「大般若経」などの経文が、収蔵されているという。
❖ 上穂十一騎の碑 「三重塔」西の石碑群は、「上穂衆(うわぶしゅう)」の十一騎「駒ヶ岳大貮坊」「春日昌義」「小林義國」「鹽木九四郎」「湯原三四郎」「田中員近」「北村政明」「荒井圖書之助」「横山五郎」「北原春之助」「木下大隅」が、「真田幸村」麾下に入り、1614(慶長19)年「大坂冬の陣」における出城「真田丸」での奮闘と、1615(元和元)年「大坂夏の陣」で、徳川方本陣まで迫る奮闘をするも「真田幸村」とともに討死したことが語られる「上穂十一騎伝説」の祠だ。
❖ 上穂十一騎の碑 「三重塔」西の石碑群は、「上穂衆(うわぶしゅう)」の十一騎「駒ヶ岳大貮坊」「春日昌義」「小林義國」「鹽木九四郎」「湯原三四郎」「田中員近」「北村政明」「荒井圖書之助」「横山五郎」「北原春之助」「木下大隅」が、「真田幸村」麾下に入り、1614(慶長19)年「大坂冬の陣」における出城「真田丸」での奮闘と、1615(元和元)年「大坂夏の陣」で、徳川方本陣まで迫る奮闘をするも「真田幸村」とともに討死したことが語られる「上穂十一騎伝説」の祠だ。
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その石祠・伽藍塔十一基は1888(明治21)年、石灯籠一対は1920(大正9)年に建立されたという。11名はすべて次男や三男だったというが、その追惜は長子に生まれなかった者が、時代に生きる道を求めて散っていった姿を偲ぶよい機会となるだろう。