小さな旅を愉しむための情報PLUS

生活圏での小さな旅を愉しむために、暮らしの歴史に目を向けた情報発信を目指します。

葉山嘉樹文学碑 切石公園😐😐😐長野県に移住し工事現場で働きながら生活した葉山嘉樹の一文を刻む文学碑

2020-10-29 11:00:00 | 文学 美術 音楽
「葉山嘉樹(はやま よしき)」(1894/明治27年~1945/昭和20年)は、「文藝戰線」(1924/大正13年6月~1932/昭和7年7月 1925/大正14年1~5月休刊)同人で、「淫売婦」(「文藝戰線」1925/大正14年)「セメント樽の中の手紙」(「文藝戰線」1926/大正15年)長編「海に生くる人々」(改造社 1926年/大正15年)など、新鮮な内容と文体で既成文壇にも衝撃を与える作品を発表し、プロレタリア文学の先駆者として活躍した作家だ。特に、読み手の想像力や判断力が試される「セメント樽の中の手紙」は、高等学校「国語」の教科書にも採録されている瓊玉の作品と言える。
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我が国のプロレタリア文学の代表的作家には、ほかに「黒島傳治(くろしま でんじ)」(1898/明治31年~1943/昭和18年)「小林多喜二(こばやし たきじ)」(1903/明治36年~1933/昭和8年)「徳永直(とくなが すなお)」(1899/明治32年~1958/昭和33年)「平林たい子(ひらばやし たいこ)」(1905/明治38年~1972/昭和47年)などの名前があがるが、過酷な労働で虐げられた労働者階級の立場に立って、社会主義思想に基づき現実を描こうとした文学だ。
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1921(大正10)年の文芸雑誌「種蒔く人」創刊を出発点とするが、激しい弾圧で社会主義運動は壊滅的打撃を受け、『種蒔く人』も廃刊となって、プロレタリア文学は一時まったく沈滞したという。1924(大正13)年の「文藝戰線」創刊を契機に新たな高揚期を迎えたものの、弾圧により1934(昭和9)年には壊滅したという。
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「葉山嘉樹」は、同年に長野県に移住し工事現場で働きながら、庶民性の濃い短編「氷雨」「窮鳥」「馬鹿気た話」などを書いている。その後、「満州国」の開拓団運動に積極的にかかわるようになって、1945(昭和20)年6月に満州に渡ったが、敗戦後の引き揚げ途中の列車内で、1945(昭和20)年10月18日、病死したという。「葉山嘉樹全集」全6巻(筑摩書房 1975/昭和50年~1976/昭和51年)がある。

 ❖ 葉山嘉樹文学碑 切石公園  1934(昭和9)年9月から1938(昭和13)年1月まで、「長野県上伊那郡赤穂村」(現在の「駒ヶ根市赤穂」)に生活し、工事現場での労働を通して、文芸評論家「小田切秀雄(おだぎり ひでお)」(1916/大正5年~2000/平成12年)いうところの「工事場物」といわれる作品を書いた
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この期の作品は、初期作品の評価に比すると見落とされていると言えるが、在住50年を追想し、当処での一文「よし、毎日の生活が不足であり、迫害が絶えず襲ひかゝらうとも、人間の生活から『善』を奪はれることを私たち信州文化の同人たちは、守らうではないか。文学とはそのやうなものと私は思ってゐる。 葉山嘉樹」を刻した文学碑が、県道75号線沿いの駒ヶ根高原で、包丁で切ったかのようにきれいに割れた巨石が名前の由来という「切石公園」内に、1984(昭和59)年に建立された。
〈参考〉 「セメント樽の中の手紙」全文(「青空文庫」)

日夏耿之介記念館と句碑😐😐😐余生を送った住居を移転復元した記念館と晩年の心境を詠んだとされる句

2020-10-27 17:00:00 | 文学 美術 音楽
「日夏耿之介(ひなつ こうのすけ)」本名「樋口國登(ひぐち くにと)」(「圀登」は通称)は、1890(明治23)年2月22日「長野県下伊那郡飯田町」(現在の「長野県飯田市」)に生まれ、象徴詩人として活躍する一方、翻訳や評論などにおいても独自の美意識に貫かれた活動を展開し、母校「早稲田大学」や「青山学院大学」の教授を歴任、1953(昭和28)年には飯田市名誉市民第1号に選ばれた文学者だ。
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1956(昭和31)年に脳溢血で倒れて以後、療養のために郷里の「飯田市大久保町」の新居に転居したが、1971(昭和46)年6月13日に81歳で没している。

 ❖ 日夏耿之介記念館  昭和の時代を彷彿とさせるこの記念館は、余生を送った「飯田市大久保町」の住居を移転復元し、1989(平成元)年に隣接の国登録有形文化財「柳田國男館」とともに「飯田市美術博物館」付属施設として開館したもので、本人蒐集の書籍・書画などが展示されている。観覧(無料)希望の場合は、「飯田市美術博物館」受付に申し込む必要がある。
 ❖ 「日夏耿之介記念館前」句碑  「日夏耿之介記念館」前には、「黄眠道人」「黄眠堂主人」などの号をもつ「日夏耿之介」の句碑「秋風や狗賓の山に骨を埋む 黄眠道人」がある。1989(平成元)年2月の建立だが、同じ句の刻まれた句碑が「風越山(かざこしやま)」にもあり、その句碑には1959(昭和34)年の古希記念に友人たちの勧めで建立したと記される。
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「狗賓(ぐひん)」とは、天狗としての格は低いといわれる「土着の神に近い妖怪」をいうが、この句は「風越山」に重ねて晩年の心境を詠んだと解されている。「わが墓は信南風越山のいただき奥の院の摩崖の下」と定めたとおり、浄土宗「松林山 宝樹院 柏心寺」(「飯田市箕瀬町」)に眠っている。

東山魁夷記念碑 心の旅路館😐😐😐風景画を描いた東山魁夷の原点に建つ美術館と記念碑

2020-10-25 15:00:00 | 文学 美術 音楽
「東山魁夷(ひがしやま かいい)」(本名「東山新吉/ひがしやま しんきち」 1908/明治41年~1999/平成11年)は、東京美術学校(現在の「東京芸術大学」)日本画科で、写実的で穏やかな作風で知られた「結城素明(ゆうき そめい)」(1875/明治8年~1957/昭和32年)に師事、静謐で深い郷愁をたたえた装飾的な風景画を描いた現代日本画を代表する画家だ。
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1968(昭和43)年に制作の「皇居新宮殿壁画」の「朝明けの潮」や、1971(昭和46)年~1982(昭和57)年に描いた「唐招提寺 御影堂」の「鑑真和上坐像厨子扉絵」「襖絵」「障壁画」などが広く知られているが、1987(昭和62)年に所蔵していた自作品を長野県に寄贈し、1990(平成2)年「長野県信濃美術館 東山魁夷館」が開館している



 ❖ 東山魁夷記念碑 心の旅路館  国道19号線「岐阜県中津川市山口」の「道の駅 賤母(しずも)」併設施設に、「東山魁夷」から版画作品約500点を寄贈され、1994(平成6年)に開館した美術館「東山魁夷 心の旅路館」がある
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その同館前には、「ローテンブルグ城シュピタール門」(ドイツローテンブルグ市)に刻まれた「PAX INTRANTIBVS SALVS EXEVNTIBVS(訪れる者には安らぎを 去りゆく人には安全を)」を「東山魁夷」が「歩み入る者に安らぎを 去りゆく人にしあわせを」と訳したことで、ひろく知られることとなった言葉が刻まれた記念碑が建立されている
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この言葉は「川端康成」が「ホテルオークラ」にふさわしい言葉として、色紙で同ホテルに残したといわれ、また「群馬県吾妻郡草津町民憲章」に採用されている言葉だともいうが、この言葉と当処との所縁は「東山魁夷」が、1926(昭和元)年の「東京美術学校」1年生の夏休みに、友人と「御嶽山(おんたけさん)」に登った旅に始まるという。
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途中この地「賤母」(当時「長野県西筑摩郡山口村」現在「岐阜県中津川市山口」)で大変な夕立に遭遇し難渋した「東山魁夷」は、一夜の宿を求めた村はずれの農家から、思いがけずうけた温かいもてなしに、深く感じ入ったという。また、信州で知ることになった雄大な自然にも心打たれて、風景画家への道を決心したといい、信州と結びつく第一歩がここに始まったのだという。

泉鏡花旧居跡と泉鏡花揮毫筆塚😐😐😐神楽坂芸妓「桃太郎」との同棲を始めた借家跡と「湯島天満宮」の筆塚

2020-10-23 22:00:00 | 文学 美術 音楽
「尾崎紅葉(おざき こうよう)」(1868/慶応3年~1903/明治36年)門下の「泉鏡花(いずみ きょうか)」(1873/明治6年~1939/昭和14年)は、処女作「冠弥左衛門」(1893/明治26年)を紅葉の幇助で完成、その後「外科室」「夜行巡査」(1895/明治28年)などの所謂「観念小説」で好評を得たが、やがて繊細優美な独自の浪漫的境地を開いて、晩年まで旺盛な執筆を続けた作家だ。
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その独特の文体とともに、少年時代の追懐、母性崇拝、幻想、エロチシズムなどが織り込まれた300編以上の作品で、近代小説史に異彩を放つが、自然主義隆盛期には文壇的に不遇の時期もあったという。師の紅葉を超える人気作家の地位を獲得し、岩波書店「鏡花全集」(1973/昭和48年~1976/昭和51年)は全29巻にもなる。 
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代表作には「照葉狂言」(1896/明治29年)「化鳥」(1897/明治30年)「湯島詣」(1899/明治32年)「高野聖」(1900/明治33年)「婦系図」(1907/明治40年)「草迷宮」(1908/明治41年)「歌行燈」(1910/明治43年)「天守物語」(1917/大正6年)「眉かくしの霊」(1924/大正13年)「縷紅新草」(1939/昭和14年)などがあげられる。


 ❖ 泉鏡花旧居跡  「泉鏡花」が1903(明治36)年3月から暮らしたという借家「泉鏡花旧居跡」が、東京メトロ「有楽町線/南北線/東西線」都営地下鉄「大江戸線」の「飯田橋駅」B3出口から徒歩約1分、JR総武線「飯田橋駅」から徒歩約3分で、「東京理科大学」裏手「新宿区神楽坂2丁目」の「小栗通り」に面して残る。
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「泉鏡花旧居跡」は、1899(明治32)年の「硯友社」新年会で、「神楽坂(かぐらざか)」の芸妓「桃太郎」(本名「伊藤すず」1881/明治14年~1950/昭和25年)と出会い、落籍し同棲を始めたという場所だ。二人の同棲を知った師「尾崎紅葉」の激怒は、「婦系図」の中で「俺を棄てるか、婦を棄てるか」と迫る恩師の言葉となって描かれる。現実に一旦は別離を余儀なくされたが、紅葉が没すると復縁し、1906(明治39)年7月までここで生活したという。
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「伊藤すず」を苦しめたこの顛末は、「婦系図」の名台詞として知られる「お蔦」の「別れろ切れろは芸者の時にいう言葉。私には死ねとおっしゃってくださいな」を生んだとされている
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なお、「泉鏡花旧居跡」は、「北原白秋旧居跡」でもある。白秋は鏡花の後、1908(明治41)年10月から翌年10月まで、約一年をここで過ごしたという。

 ❖ 湯島天満宮 泉鏡花揮毫の筆塚  東京メトロ千代田線「湯島駅」から徒歩約6分の「湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)」は、旧社格が1868(明治18)年に「郷社」から「府社」へ昇格した「江戸/東京」を代表する「天満宮」で、神社本庁「別表神社」だ。
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由緒は、458(雄略天皇2)年 「雄略天皇」の勅命により「天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)」を祀る神社として創建され、1355(正平10)年に「菅原道真(すがわらのみちざね)公」を勧請合祀したという。合格祈願の受験生やその家族の参詣は、年間を通して絶えることないが、「小畑実」の出世曲、1942(昭和17)年の「湯島の白梅」で歌われた境内の梅の花も知られている。
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1899(明治32)年に刊行された「神月梓」と神楽坂の芸者「蝶吉」の恋を、戯曲的構成で描く小説「湯島詣」の作者「泉鏡花」揮毫の「筆塚」が境内に建立されている

井上井月句碑 上伊那郡内(全昌寺 聖徳寺 飯島町文化館 大草城址)😐😐😐井月有縁の地に建つ句碑

2020-10-22 14:00:00 | 文学 美術 音楽
「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、1822(文政5)年に「越後長岡藩」で生まれたとされるが、生い立ちや俳人になった経緯は知られていない。
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1858(安政5)年、忽然と「伊那谷」に姿を現したと言われ、いたるところで昼寝もすれば野宿もする浮浪の生活を続けて、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んでいたという俳諧趣味人の家や旧家から、酒食のもてなしを受けて日を暮したが、晩年には乞食の風体極まり、その風体から女性や子どもたちには、「乞食井月」と忌み嫌われていたとも伝えられる。
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「柳の家井月」「北越漁人」などとも号し、近世の俳諧沈滞期「月並俳句の時代」にあって、芭蕉の再評価を目指していたという。同地の趣味人の男性たちの中には、師事する者もいたというが、影響を受けた後の時代の文人に「芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)」(1892/明治25年~1927/昭和2年)「種田山頭火(たねだ さんとうか)」(1882/明治15年~1940/昭和15年)「つげ義春(つげ よしはる)」(1937/昭和12年~ )などの名前もあがる。
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1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する「塩原折治(梅関)」の配慮により、「上伊那郡美篶村末広太田窪」(現在の「長野県伊那市」)の「塩原家」厄介人として付籍し、「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。「伊那谷」で句や書の理解者を得て、同地の土になった俳人だ。


 ❖ 「全昌寺」句碑  「医王山 全昌寺(いおうざん ぜんしょうじ)」は、国道153号信号交差点「宮田村役場前」から車約5分の「上伊那郡宮田村大字北割」にある曹洞宗の寺院だ。1449(宝徳元)年、僧「八玄破(はちげんぱ)」により、現在地の西方500m「堂平」に天台宗祈願寺として開基、正保年間(1644~1647)に、現在は中央自動車道になっている地に移転し、1653(承応2)年に「真慶寺」2世僧「閑説」によって再興されて、以来同寺末寺として現在に至っているという。1972(昭和47)年に「中央自動車道」建設によって、現在地に新築移転されている。宮田村指定有形文化財の本尊「薬師如来像」は、鎌倉時代中期の制作と考えらる檜寄木造立像で高さ89.1cmだが、秘仏で60年に1度の御開帳での公開だ。
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現在は住職不在で、無人のお堂脇には、句碑「雁鳴くや町の明かりの小田にきく 井月」(かりなくやまちのあかりのおだにきく)が、1988(昭和63)年に建立されている。「上伊那の地」のいたるところで、昼寝をすれば野宿もする浮浪の生活を続け、旧家や俳諧趣味の家などから酒食のもてなしを受けて日を暮らしたという井月の日記に、「明治17年7月16日全昌寺御開帳の祭礼にやって来」ての顛末が書き留められていることから、「井月百年忌に当りこの有縁の地に碑を建て」たという。

 ❖ 「聖徳寺」句碑  JR飯田線「田切駅」駅前の山号「石上山」院号「太子院」寺号「聖徳寺(しょうとくじ)」は、本尊が「阿弥陀如来」、本山が「知恩院」(京都市)の浄土宗の寺院だ。はじめ、聖徳太子自作という「聖徳太子像」を安置した「太子堂」だったが、寛永年間(1624~1645)に「相誉了頓和尚」が、現在の「飯島町田切北河原」で「太子院聖徳寺」として興したと伝わる。
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1715(正徳5)年「中田切川」の洪水で流失し、1717(享保2)年に現在地に移転再建した。その後、2度の火災で「聖徳太子像」などを焼失したというが、1961(昭和36)年の宗祖750年忌記念事業で、ほぼ現在の寺観になった。「法身(ほっしん)」(真理そのもの)、「報身(ほうじん)」(修行して成仏した姿)、「応身(おうじん)」(人々の前に現れる姿)の「三身(さんじん/さんしん)」(仏の身のあり方をいう)をなぞった三つの石を配した枯山水の庭園を持つ、「伊那七福神福禄寿の寺」だ。
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井月が、寄宿寄食の放浪の中で立ち寄ったという同寺の「鐘楼門」手前左に、「井上井月百回忌記念」として、「霜除る菊や小庭のしき松葉 井月」(しもよけるきくやこにわのしきまつば)の句碑が、1987(昭和62)11月に建立されている。

 ❖ 「飯島町文化館」句碑  井月の日記の1884(明治17)年2月26日に「申刻時分聖徳寺へ寄、茶漬無心。日陰坂寄。六時過七久保新花亭投じ泊、馳走。肴北海の如し。 灰に書く西洋文字や榾明り」の記述がある。「新花」は「松村伝平」の俳号で、井月を手厚くもてなしたというが、井月の満足し悦ぶ様子が思われる。
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ここ「飯島町文化館」敷地内にその句碑「灰に書く西洋文字や榾明り 井月」(すみにかくせいようもじやほたあかり)が、1993(平成5)年3月に建立されている。

 ❖ 「大草城址」句碑  国道153線で、伊那市方面からは信号交差点「坂戸峡」左折、飯田市方面からは信号交差点「中川中学校入口」右折、車約5分の「上伊那郡中川村大草」にある「大草城址」は、南北朝時代「後醍醐天皇(ごだいご てんのう)」(1288/正応元年~1339/延元4年)の第8皇子、南朝方「宗良親王(むねよし しんのう)」(1311/応長元年~1385/元中2年)を迎えて、手厚く守護したという「大河原城」主「香坂高宗(こうさか たかむね)」(生年不詳~1407/応永14年)が、重要拠点として南北朝時代初期に築城したと伝わる城址だ。
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その「大草城」は、1581(天正9)年の織田軍による伊那侵攻後に廃されたというが、現在は地元の熱心な取り組みで、中央アルプスの山なみを背景に、10種以上の桜を眺める景観がつくりあげられている
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ここ「大草城址公園」に、「われらの父祖たちの風雅」を追想し「井月を慕って」、1989(平成元)年に句碑「秋も良面白うなる瓢かな 井月」(あきもややおもしろうなるふくべかな)を建立したという。