西から鎌倉に至る街道武蔵大路は、藤沢方面から梶原の南を経て桔梗山のある山並みの北へと谷戸道を進み、葛原ヶ岡を経て源氏山、化粧坂の切通しを降り、海蔵寺の前辺りに出る道筋である。また、鎌倉への要路としては、同じ武蔵大路を円久寺の辺りで南に折れ、大仏坂切通しを経て長谷の谷戸に至る道筋もあった。
この地域でおもしろいのは、政村邸のある御所ノ内の南側、現在は宅地とされている北側の斜面が腰巻と呼ばれる垂直に切り立つ崖面とされ、その上に幾つもの平場が設けられている点。平場は、西へと連続しており、大仏坂切り通しの入り口辺りにまで設けられていたと思われる。すなわち、周到に計画された防御のための施設である。西から攻め入ったものの、行く手をふさがれ、背後からの攻撃と山の上からの攻撃があってはひとたまりもなかろう。
桔梗山は、西に展望が良いことから、西から攻撃されることを想定した、街道の守りの要であったと思われる。
円久寺の背後は、現在では水利が整備されていないことから湿地帯に変じているが、ここも元来は北条氏の館跡で、現在は殿入と呼ばれている。常盤の谷戸群、即ち北条館への入口に当たる地としての呼称のようだ。竹が繁茂して谷戸の奥へはすすめないが、数段に高さの異なる平地が整備されていた。
このように鎌倉には竹林が多い。鎌倉石が切り出し易い性質であることは脆弱な証し。実際に鎌倉の急斜面は各所で崩落があるためコンクリートで覆われている崖面も多い。この脆弱な斜面を竹林で堅固なものにしたのであろう、今では丈の高い笹で覆われて分け入ることさえ難しい尾根筋がいたるところにある。
桔梗山への石段や尾根伝いの道は無数にある、というより、各谷戸の屋敷から直接尾根に出られるような構造とされていたと考えられる。尾根が平地に設けられている道路とは意味合いを異にする通路であったことは間違いない。いざという場合、山襞の合間を縫って遠回りをしなければならない平地より、尾根筋に出て山越えする、あるいは尾根を経て御所の置かれている中央へ直接向かうことは、鎌倉における山襞の巧みな利用方法の一つである。即ち、鎌倉を包んでいる尾根筋は、それらのすべてが要路であった。
この地域でおもしろいのは、政村邸のある御所ノ内の南側、現在は宅地とされている北側の斜面が腰巻と呼ばれる垂直に切り立つ崖面とされ、その上に幾つもの平場が設けられている点。平場は、西へと連続しており、大仏坂切り通しの入り口辺りにまで設けられていたと思われる。すなわち、周到に計画された防御のための施設である。西から攻め入ったものの、行く手をふさがれ、背後からの攻撃と山の上からの攻撃があってはひとたまりもなかろう。
桔梗山は、西に展望が良いことから、西から攻撃されることを想定した、街道の守りの要であったと思われる。
円久寺の背後は、現在では水利が整備されていないことから湿地帯に変じているが、ここも元来は北条氏の館跡で、現在は殿入と呼ばれている。常盤の谷戸群、即ち北条館への入口に当たる地としての呼称のようだ。竹が繁茂して谷戸の奥へはすすめないが、数段に高さの異なる平地が整備されていた。
このように鎌倉には竹林が多い。鎌倉石が切り出し易い性質であることは脆弱な証し。実際に鎌倉の急斜面は各所で崩落があるためコンクリートで覆われている崖面も多い。この脆弱な斜面を竹林で堅固なものにしたのであろう、今では丈の高い笹で覆われて分け入ることさえ難しい尾根筋がいたるところにある。
桔梗山への石段や尾根伝いの道は無数にある、というより、各谷戸の屋敷から直接尾根に出られるような構造とされていたと考えられる。尾根が平地に設けられている道路とは意味合いを異にする通路であったことは間違いない。いざという場合、山襞の合間を縫って遠回りをしなければならない平地より、尾根筋に出て山越えする、あるいは尾根を経て御所の置かれている中央へ直接向かうことは、鎌倉における山襞の巧みな利用方法の一つである。即ち、鎌倉を包んでいる尾根筋は、それらのすべてが要路であった。
たちんだい近くの谷戸
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