山内上杉家の祖は佐助ヶ谷に邸を構えていた。
その佐助ヶ谷の支谷戸の一つに佐助稲荷のある谷戸がある。
さらに支谷戸があって隠里と呼ばれていた。
銭洗弁財天のある谷戸だ。
現在は葛原岡まで車道が通り、トンネルを経て入るのだが、明治時代の地図にこの道路は描かれていない。
支谷戸の構造も複雑であり、まさに隠里であった。
今年は気温が高く、思ったより早くに色々な生物が冬眠から目覚めているだろう。
桜も咲いてしまった。
筆者の大嫌いなニョロニョロ系の生物が出そうなところが多い。
未だに「マムシに注意」の看板がある。
写真は衣張山の石切り場跡。犬懸ヶ谷の奥を登ったところにある。
衣張山周辺には石切り場跡がたくさんある。
犬懸上杉家の邸が設けられていたのが犬懸ヶ谷とその西の釈迦堂ヶ谷にかけての一帯。
鎌倉公方の補佐である関東管領の立場にあった犬懸上杉家の氏憲(禅秀)であったが、公方と対立して疎まれ、関東管領の地位をライバルの山内上杉家に取られてしまう。
そこで権力闘争、戦になる。
西では応仁の乱(1467年)があり、これが戦国時代の始まりと考えられているが、東国ではそれより前の応永23年(1416年)に上杉氏憲が大乱を起こしている。
上杉禅秀の乱である。
東国の方が権力構造の上では複雑であったようだ。
そもそも、将軍が京にいて、東国まで管理するのが面倒だから鎌倉に公方を置いて別管理しようなどと考えたことが間違い。
鎌倉公方は京の将軍と対立し始め、権力構造が複雑になってしまった。
そこに頼朝の頃からの在野の武家が加わって力の均衡を破ると、頼朝が目指した武家の規範などは一気に崩れる。
大乱を起こしたものの力及ばず、上杉氏憲は鎌倉の雪ノ下で自刃。犬懸上杉家の滅亡である。
写真は以前にも紹介したが、犬懸ヶ谷の小さな支谷戸。
権力闘争に敗れた犬懸上杉家に関わる念仏堂などが設けられていたところであろうか。
北条家が滅亡して以降の関東地方は、鎌倉に置かれた鎌倉公方と京都の幕府との権力争いによって彼らを取り巻く状況が目まぐるしく変化した。
時代が降ってくると足利家の力も衰えてくる。
頼朝が目指した武士の世の中、武士の規範というものが崩れ、混乱へとつき進んでゆき、戦国時代を迎えるわけだ。
その中での上杉家の存在が面白い。
上杉家は関東管領という、公方を補佐する立場であった。
上杉家にはいくつかの家系がある。
その中で力を発揮したのが山内上杉家だ。山ノ内明月院辺り参考
犬懸ヶ谷は、釈迦堂ヶ谷の東隣。
上杉家の中でも比較的早くに権力を失った犬懸ヶ谷上杉家が邸を設けた谷戸だ。
衣張山の北に位置し、現在、谷戸の最奥は杉木立が密集している。
ここもかなり台風、大雨の影響を受けて崩落している。
倒木が、まだかたずけられていない状態。