おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番・第3番」から「ピアノ協奏曲第4番」までの哀しい軌跡

2024-07-26 07:07:41 | 日記
三島由紀夫は『天人五衰』のなかで、本多繁邦に
「ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全くの無意識のうちに、湧き立たせていたすばらしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに。」
と、考えさせている。

私は、この台詞の在る頁の前後を読むときに、『天人五衰』を考えるときに、よく、ラフマニノフを想い起こす。

一体どうして、美しく生まれついた人間は、美しいままに終わりをむかえることができないのであろうか。

ラフマニノフが哀しいほど明るく凡庸極まる「ピアノ協奏曲第4番」で意図せずして示したのは、人間のこうした根源的悲劇なのかもしれない。

セルゲイ・ラフマニノフは、紛れもなく天才であった。

チャイコフスキーを慕い、ロシアの大地に根ざした叙情性溢れ、その1曲々々には「濃度があり、酩酊さえ具わっている」。
そのような音楽を作っていた。

例えば、自らも優れたピアノ演奏者であったラフマニノフの最も人気が高い「ピアノ協奏曲第2番」の冒頭は、荒涼たりながらも、慈悲深いロシアの大地の夕暮れに、教会の鐘が甚深と響き渡るように始まる。

出だしから、いきなり、聴く者をロシアの精神性そのものへと誘う紛れもない名曲である。

この時、ラフマニノフは慥かに、ロシアの大地に根ざし、自分の作曲活動は、ロシアなしには、有り得ないという、自己認識のうちに作曲をしていたのであった。

しかし、ロシア革命が訪れるや、彼は、すぐに亡命した。

勿論、ロシア革命の前後に亡命した作曲家は、他にもいる。

グラズノフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフなど錚々たる作曲家たちが、亡命している。

彼らが新天地でも、故郷を想いながら作曲活動に従事したのに対して、ラフマニノフは、アメリカでの演奏活動という名の巡業に終始してしまい、自らの音楽を掘り下げるということが、できなかったのようだ。

ラフマニノフは、昔作曲した協奏曲を演奏する、巡業芸人として日銭を稼ぐことに専心したのである。

ラフマニノフは、
「あの有名なカッコいいところをもう一度弾いて」
と聴衆が要求すれば、恥ずかしげもなく「ハイライトだけ」を演奏してチップをもらう日々なのであった。

その巡業の日々は、理想も信念も、プライドも捨て去り、類い希なる才能を二束三文で切り売りして銭を乞う日々に他ならなかった。

時代が少々ずれるのだが、ナチスの迫害から逃れて、ハンガリーから、同じく、アメリカに亡命したバルトーク・ベラは、むしろアメリカで生活するなかで、マジャール人としての自己意識を強め傑作を作ったのとは、対照的である。

だんだんに、ラフマニノフの巡業公演も飽きられてきたため、ラフマニノフには、新曲が要請される。

それは、すなわち、聴衆が求める曲である。

それまでのピアノ協奏曲第2・第3番の「ような」、「気持ちの良い旋律」に満ちた曲が求められた。

それは、作曲家の精神性を無視して、兎に角、「おカネになる」新作が要請されたことに他ならない。

そのようにして、ラフマニノフは、ピアノ協奏曲第4番を作曲するのであるが、すでに彼の才能は、「からからに枯渇して」いたのである。

もはや、ラフマニノフは、かつての栄光を博した自分の音楽を、それが何を意味していたのかも忘れて、醜悪に自己模倣をせざるを得なかったのであろう。

そのようにして作られた音楽は、内的必然性を欠いて、まったく無意味に盛り上がり、前後の脈絡などなく
「これならば、聴衆を惹きつけ られるだろう」
という商売的意図が見え透いた、甘い旋律が、デタラメに、配置される。

この音楽を、私は、聴いていて哀しくなってしまうのである。

オーケストラは徒に咆哮し、ピアノはただ単に全く意味のない曲芸的な超絶技巧の音階を奏でるだけなのだ。

すなわち、ここには、かつてラフマニノフが書いたような、人の心に触れるような「音楽」は存在しないことを感じ、私は、哀しくなるのである。

(私のみならず)ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番・第3番」を続けて聴いた後に、「ピアノ協奏曲第4番」を聴くとき、哀れさと無残さのあまり涙することになる人も、少なくはないように、思う。

一体、どうして、素晴らしい能力を持って生まれたならば、堕落してしまうのであろうか。

どうして、美しく生まれついたならば、美しいままに終わりを迎えることが出来ないのであろうか。

ラフマニノフが、哀しいほど明るく凡庸極まる「ピアノ協奏曲第4番」を意図せずして示したことは、やはり、人間のこのような根源的悲劇である。

ラフマニノフは、ピアノのひどく上手な巡業芸人として、その人生を、カリフォルニア州のビバリーヒルズで、ひっそりと、終えた。

彼は、おカネを得たのかもしれないが、「ピアノ協奏曲第4番」を作曲したことにより、彼が作った名曲の数々による名声を凌ぐ汚泥をかぶったのかもしれない。

三島は、『天人五衰』のなかで、本多に
「一分一分、一秒一秒、二度とかえらぬ時を、人々はなんという稀薄な生の意識ですりぬけるのだろう。」
と述べさせている。

忘れないようにしよう、と、「また」思った。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、また、数日間、不定期更新になります^_^;

よろしくお願いいたします( ^_^)

また、DSMが「バイブル」になってしまうまでシリーズの⑤~は、また次回以降のどこかに描く予定です。
相変わらず計画性が無くてごめんなさい(>_<)

毎日、暑いですが、体調管理に気をつけたいですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

【追記】
代官山の蔦屋書店のイベントは楽しく、また頑張る気力を貰えました(*^^*)

これからも、頑張りすぎず、頑張りますので、よろしくお願いいたします( ^_^)



(→代官山蔦屋書店のイベント会場での記念撮影)


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