横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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ペリー提督の還暦イベント 奥津弘高氏

2021-09-23 20:37:09 | コロナ巣ごもりレポート

ペリー提督の還暦イベント

横浜黒船研究会会員 奥津弘高

 

ホーウィッツアー砲の献納

1854年4月6日、かねてより日本側役人が献納を希望したホーウィッツアー砲がミシシッピ号から陸揚げされ、井戸対馬守と伊澤美作守の両人へ贈呈された。4月7日ホーウィッツアー砲をウィリアムズが試射して見せ、与力・合原操蔵に大砲の扱い方を教えた。

この砲は上陸用ボートの先端に据付け、提督が上陸する際に接岸して祝砲を放った大砲で、陸戦に使用する時はボートから外して二輪掛けの砲車に乗せて移動することができた。

「ワシントン海軍博物館所蔵」

ワシントンのアメリカ海軍国立博物館に砲車に乗せたホーウィッツアー砲が保存されている。

1871年ワシントンの合衆国海軍造兵工廠(こうしょう)で鋳造され、重砲技術将校フランシス・M・ラムセイが最終検査した12ポンドのホーウィッツアー砲で登録番号168番と砲身に刻印されている。

 

ペリー江戸参府を希望

 フィルモア大統領は国務省からペリー提督に日本遠征の命令書を出している。1852年11月5日付けコンラッド国務長官代理からケネディ海軍長官宛の書簡には、「皇帝(将軍)に面会して大統領からの書簡を手渡すように」との訓令が書かれていたことから、ペリーは江戸を訪れ将軍に謁見することを強く希望した。

 ホーウィッツアー砲が献納された日に交わされたペリー提督と林大学頭との問答が、森田健司著『現代語訳・墨夷応接録』に掲載されているので抜粋して引用する。

 ペリー―「かねて、私が本国の大統領から申し付けられたのは、必ず江戸に行って対談に及ぶようにということだった。そのため、一応は江戸に行きたいという思いがある。他国の例でいえば、使節が派遣される場合、どうあろうとその国の首都に行き、国王に拝謁し話をするのが普通だ。しかし、日本には旧来の法があり、そのようにすることは難しいため、ただただ江戸に行くことができれば、それで申し訳が立つ。」

大学頭―「我が国において国都へ外国人を入れることは、オランダ人を除いて、決して許されないことである。そのために、われわれがこの地に出張して来て応接しているのであって、談判が済んだにもかかわらず、また江戸へ向われては、われわれが政府に対し申し訳が立たない。よってこの件は許可できない。」

江戸参府を許されなかったペリーは、4月9日通詞の森山栄之助を通じて、翌日は蒸気船を湾の奥に進め水深の許す限り江戸に接近すると予告していた。

4月10日ペリーは江戸を一目見ようと、ポーハタン号とミシシッピ号が午前8時に抜錨して先行し、帆船を含む全艦が水深の許す限り江戸に近づいた。

ペリーが江戸の海岸に接近し祝砲を発射することを恐れ、ポーハタン号に乗船していた平山謙二郎、合原猪三郎、森山栄之助らは、これ以上艦隊が進むと武力衝突の危機に陥ると訴え後退するよう抗議した。もし発砲の兆しが見えたなら、砲身の前に立って命を捨てても阻止して日本を守る覚悟であった。

4月10日はペリー提督の記念すべき60歳の誕生日で、この日の出来事について自身の日記に記している。

 

ペリー提督自身の日記(抜粋)

「(4月)10日には全艦隊を発進させ、江戸南郊の品川近くまでポーハタン号とミシシッピ号を進めた。かくして、このあまりにも有名な帝都を見渡せる位置に達したのだが、この沿岸によく発生する霧か靄のために、残念ながらあまりはっきりとは見えなかった。とはいえ、都市の輪郭は見分けることができ、建物の種類や特徴は、艦隊が訪れた浦賀その他の場所と大差ないこともわかった。・・・蒸気船を江戸市沖に錨泊させて、宮殿に礼砲で挨拶しようというのが私の当初の目論見だったのだが、そのせいで市中に混乱が起きたら、彼ら(日本人役人)個人が責めを負うことになると君侯らが繰り返し主張するので、それを多少は信用しようとも思ったし、もっとも、彼らがハラキリ(切腹)をさせられるというのはやや眉唾であるが。そういうわけだから、当初の決意にあまりこだわり過ぎて、せっかく築いた大変友好的な関係を危うくするのは得策でないと考えた。無益な好奇心をみたすために、われわれのよき友である委員たちに不幸をもたらしてしまったら、一生の後悔の種になり、自分で自分を許せないだろうと思う。そこで、私は艦隊にアメリカ錨地まで戻るよう命じた。」

 

漢文通訳ウィリアムズは日記に「横浜から10マイルほど進んで品川の郊外をはっきり認めた」と書いている。しかしペリー艦隊が停泊していた横浜沖から10マイル進んだとすると約18キロメートル先の川崎か羽田沖に到達したのである。品川まではさらに12キロメートル程あり、ペリーやウィリアムズは川崎や羽田の町並みを品川の郊外と誤認したのであろう。

 

日本側史料に見る当日の記録

ペリーはポーハタン号に同乗していた森山栄之助らの執拗な抗議に屈した。

これ以上江戸に接近し礼砲発射が挙行されれば、森山らは切腹を命じられると訴え、ペリー艦隊による江戸へ向けた祝砲の一斉射撃の暴挙を、身を挺して思い留まらせることができ、ペリー提督の還暦イベントは実現しなかった。

林大学頭を筆頭に応接掛の日米交渉を記録した『墨夷応接録』には、次のように記述されている。

(『大日本古文書』幕末外国関係文書付録之一、566頁)

 

追々二艘之火輪船相進ミ、大師河原沖ニ至り、羽田燈明台遥ニ相見候所にて船を止め申候て、ヘルリ、栄之助を呼て申候ハ、向に燈明台の見へ候所は江戸ニ候哉、栄之助申候ハ、彼地ハ最早江戸ニ御座候、其先き日本船の帆柱多く相見へ候は、皆々江戸中へ入居候船ニ御座候と申候得バ、ヘルリ同乗乗組之内、重立候者を悉く呼寄、遠眼鏡を出し、船先の高キ所に居へ、自ら是を見候て曰、如何様江戸は能く見へ候と申、重立候者も皆々見候て、ヘルリ曰、最早是ニて江戸一覧致候間、出帆可致候とて、船を南へ向ケ候て・・・

 

羽田燈明台

 次々と蒸気船や帆船が進み、大師河原(川崎)沖に至った。羽田燈明台を遥か彼方に見える所で船を止め、ペリーは森山栄之助を呼んで「向うに燈明台が見えるがあそこは江戸なのか」と質問した。栄之助は、「あの地は、もはや江戸であります。その先に日本船の帆柱が多くご覧いただけると思うが、あれらは全て江戸へ入ろうとしている船です。」と答えた。

森山栄之助のとっさの言い逃れにより、ペリーは江戸の町並みが見えたと思い込み、側近の士官らにも望遠鏡で確認させた。船先の高い所に立ち自ら江戸の方を遠望し「なるほど、江戸は良く見えた。もはやこれで江戸を一覧したので出帆しよう。」と言って世界最大都市の江戸を見たことに満足したペリーは、艦隊を横浜沖のアメリカ停泊地に戻らせた。

しかしこれはペリーらの思い違いで、霧がかかっていたこともあり、ペリーは旗艦ポーハタン号艦上から江戸の町並みが見えたと錯覚したのである。

ペリー艦隊が見たであろう羽田燈明台は、安政5年作成の歌川広重の版画、「名所江戸百景」の第72景「はねたのわたし弁天の社」に描かれている。

羽田弁天の常夜灯に関する記録には、「嘉永3年社殿から離れた羽田沖の浅瀬の突端に櫓を建て、周囲を油紙の障子で張った箱枠を置き、その中央へ魚油を入れた器を置き、糸灯心に点火して航行船の目印とした」とある。

『ペリー艦隊日本遠征記』の付録、ペリー艦隊が作成した海図「Bay of Yedo」に、艦隊が測量した水域の水深やアメリカ碇泊地が示されている。この海図には東経139度50分を表す経線付近の多摩川の河口南側先端に、灯台を意味する「Beacon」とアルファベットの右側に灯台の記号が描かれ、羽田燈明台が記録されている。

 

下田港で危険回避

この後ペリー艦隊は日米和親条約の未解決条項協議のため下田へ向け艦隊を移動させた。4月14日サザンプトン号とサプライ号、16日ヴァンダリア号とレキシントン号を下田に向わせ、ポーハタン号とミシシッピ号は18日抜錨して下田を目指した。

和親条約締結前に下田港は寄港に適しているかベント大尉に確認させたが、ペリーは念には念を入れて先行させた船に下田港内を詳細に調査させた。

ペリーは全艦船を同時に移動させなった理由を日記に次のように記す。

 

「このように順ぐりに出発させたのにはわけがある。つまり、先に着いた船に港を調査させて、あとからくる船のために適当な錨泊地を選定させようと考えたのである。用心したのが幸いだった。というのは、曳索に引かれて内港に向かっていたサザンプトン号が、水路の真ん中で岩に出くわしたからである。引き潮のときは海面までわずか12フィート(3.6メートル)しかなかった。ベント大尉は調査を急ぐあまりこの危険を見落としていたのだった。」

 

案の定、ペリーの信条である慎重な行動が功を奏した。サザンプトン号は下田港の水深調査を行い、水路の中央で危険な岩礁が水面下に存在することを発見し、ボイル艦長は危険回避の目的で岩礁の上に目印のブイを設置させた。

後続の蒸気船ポーハタン号の喫水は5.9メートル、ミシシッピ号の喫水は6.1メートル。もしこの情報を知らずに2隻の蒸気船が下田港に侵入していたら、再び座礁事故が発生した可能性もあり、再調査により後続の艦船は無事入港することができ、ペリーは胸を撫で下ろしたであろう。

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