横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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山口県行政文書、明治17年山本修身作成の 『蔚陵島一件録』が論文に引用不可の件

2021-06-21 19:39:35 | コロナ巣ごもりレポート

『竹島ノ真偽ヲ探リ松島ヲ一廻ス』
見出し画像は、明治11年6月の天城艦の航泊表の拡大図

2021年6月18日

『山口県行政文書、明治17年山本修身『蔚陵島一件録』が論文に引用不可の件』

著者 横浜黒船研究会会員 中山昇一

 山口県文書館に、山口県庁役人、山本修身が明治十七年に作成した『蔚陵島一件録』という行政文書が保管されています。この文書を引用していくつかの論文が作成されています。その代表的な論文の一つに『山陰地方民の鬱陵島侵入の始まり』(北東アジア文化研究、第30号)という論文があります。この論文では、山本の『蔚陵島一件録』から3箇所引用して榎本武揚と鬱陵島との関係を論じています。この引用箇所に登場する榎本武揚に関する記述を検証し、さらに、言及された軍艦などを当時の海軍省報告書の「艦船航泊表」などと対照してみます。

・山本修身が明治十七年に作成した『蔚陵島一件録』とは

 かつて鬱陵島には倭寇の基地があり、朝鮮半島沿岸を荒らしました。この倭寇は日本人だけでなく、雑多な地域の人々で構成されていました。そこで、1417年に朝鮮王朝は、鬱陵島の住民を半島への移住を命じ、鬱陵島を無人島にする「空島政策」(くうとう)を取りました。時を経て、その後、日本人は、鬱陵島は元々無人島だったと考えるようになり、1618年に幕府は現在の鳥取県米子市の商人に当時「竹島」と呼ばれていた鬱陵島への渡海免許を与えました。鬱陵島へ渡った日本人たちは、鬱陵島へ半島から密漁にやってきた朝鮮人を見つけ、幕府へ突き出す事態が生じました。これをきっかけに、朝鮮と幕府は対馬藩を仲介して外交交渉をした結果、幕府は鬱陵島が朝鮮領であることを融和的に認め、1697年に日本人が鬱陵島(当時は日本では竹島と呼んでいた)へ出漁することを禁じた旨、朝鮮に伝達しました。


 その後、西洋人の艦船が東シナ海から日本海へ活動を広げ、西洋による鬱陵島の発見が行われました。
 1787年、フランス海軍が鬱陵島を発見し、ダジュレー島と命名。
 1789年、英国船が鬱陵島を発見し、アルゴノート島と命名。
 1849年、フランス捕鯨船リャンクールが現在の竹島、当時の松島を発見し、リャンクール島と命名。

 しかし、鬱陵島の位置の測量誤差から鬱陵島は異なる二つの島であると判断され、西洋で出版される地図には、アルゴノート島、ダジュレー島、リャンクール島という三島が存在することになりました。

  
 1840年に日本から帰国したシーボルトが発行した「日本図」には、西洋により新発見されたアルゴノート島とダジュレー島が描かれていました。朝鮮半島側にアルゴノート島を置き、その東側にダジュレー島を置き、アルゴノート島にはローマ字でタカシマと加筆し、ダジュレー島にはマツシマと加筆しました。架空の島が半島側に追加されたため、島名が西に一つずつずれてしまいました。以前より日本国内に普及していた長久保赤水(ながくぼせきすい、1717-1801、現在の高萩市の出身)の日本地図(『改正日本輿地路程全図』、1779年初版)には鬱陵島が竹島として描かれていたことは無視され、西洋から入ってくる知識には間違いが無いと信奉する人々に、西洋による発見こそ正しい情報として扱われました。


 一方、1853年と翌年、日本へ艦隊を引き連れ遠征したペリー提督が1856年に出版した『日本遠征記』に挿入された地図は、シーボルトの地図をベースに作成されましたが、1854年にロシアの軍艦による測量結果により、アルゴノート島は実在しないと注記され、ダジュレー島(松島)だけが描かれていました。しかし、その後も西洋から出版される地図には、アルゴノート島とダジュレー島の二島が描かれ続けられました。そのため、シーボルトの日本地図をコピーして販売された地図だけを見ていた西洋人や日本人は、ペリー提督の修正した地図があるにも関わらず、鬱陵島は半島側に位置するアルゴノート島(竹島)として存在し、その東側に位置するダジュレー島は元々日本領の松島だという誤解を持ち続けました。


 幕末に、従来の竹島(鬱陵島)を日本領に取り戻し、開拓をするべきだと吉田松陰が主張しました。松陰が処刑された翌年、1860年に松陰の考えに基づき、桂小五郎と村田蔵六が連名で幕府に「竹島開拓建言書草案」を提出しました。この時点では鬱陵島を竹島と言っています。「かつて鬱陵島を朝鮮に渡したという風聞があるが、今無人島であるし、世界地図では日本と同じ色に着色されているし、西洋で用いる名前にタケエイと書かれていて、日本語が当てられているから、外国人に植民されないうちに、今早急に我々が開拓するべきである」といった主張が書かれていました。この建言書草案は藩主からの建白書では無いことを理由に、幕府から却下されました。


 開拓願のような文書を幕府や官庁へ提出する人々とは別に、役人の目を盗んで鬱陵島へ行き、仕事をする人々がいました。商人は鬱陵島を密貿易の交易場に用いました。島根県浜田の商人家族は、航海中に漂流して得た海外の知識を用い、鬱陵島を密貿易の交易場に使っていましたが、大坂町奉行が知るところとなり、1836年に関係者一同、大坂で処刑されました。金沢の豪商、銭谷五兵衛も鬱陵島で密貿易をしていましたが、金沢藩から請け負った工事のトラブルが原因で1852年に処刑されました。勝海舟は、幕府は銭谷五兵衛がしていた密貿易のことは全部お見通しで大目に見ていたのに、金沢藩のほうで勝手に心配して、処刑したんだと金沢藩を呆れていました。


 また、山口、鳥取、島根の沿岸の漁民たちの中には、隠岐の島経由で鬱陵島へ行くか、直接鬱陵島を目指すかして、鬱陵島へ通漁や、伐木の仕事をしに出掛けたものもいました。


 明治初めのころは福岡藩や島根県から竹島開拓として願いが官庁に提出されました。明治9年、瀬脇寿人が初代ウラジヴォストークの貿易事務官に赴任するため、長崎からウラジヴォストークへ向かう途中に実見した島を同乗していた外人たちから「松島」という日本領の島だと言われ、瀬脇は周辺の人々に松島開拓を勧めたので、ウラジヴォストークの書記官らは外務省の本省へ松島開拓願を提出しました。また、長崎からウラジヴォストークへ来た貿易商、下村輪八郎にも松島開拓を勧めた結果、下村輪八郎は明治12年6月に松島に上陸し、現地調査をし、標柱二本を建てました。調査記録は西海新聞に掲載されました。


 日本に於ける松島(鬱陵島)の開拓願が止まず、ついに海軍は、明治13年に釜山方面へ向かう軍艦天城に海路局の測量員を搭乗させ、松島の位置を測量させることにしました。その年の6月には、当時の海軍卿、榎本武揚に測量作業終了の報告書が届き、さらに、9月には海路局から正式な測量結果が報告されました。報告書では、鬱陵島、日本名、松島の位置を測量したとありました。海軍は分かっていました。竹島、松島の測量は、明治11年にも天城によって測量されているので、海軍としてはダメ押しの測量だったようです。


 しかし、それでも、鬱陵島への日本人の出入りが止まらず、明治15年に鬱陵島を巡検した朝鮮の役人が、日本人が鬱陵島に入り込んでいるところに出くわし、そのことを政府に報告すると、朝鮮政府から日本政府に厳重抗議が行われました。明治16年10月、日本側は、内務省、外務省、警察の職員から成るチームが、政府がチャーターした越後丸で鬱陵島へ渡り、鬱陵島にいた日本人を越後丸に乗せ、引き揚げました。


 そして、鬱陵島にいた日本人や国内にいる関係者らへ聞き取り調査が行われました。聞き取り調査の報告書の一つが、山口県の山本修身作成の明治17年『蔚陵島一件録』でした。

 

(参考文献: 島根県総務部総務課 『Web竹島問題研究所』掲載の論文、https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/)

 

・明治17年『蔚陵島一件録』から引用された箇所での誤り

・論文での引用―1

・誤り―1.1 「榎本公使魯国へ渡航之際発見」

 榎本武揚は南回り航路でペテルブルクに向かったので、「魯国へ渡航之際松島(鬱陵島)を発見する」、はあり得ません。帰国時は、明治11年10月にウラジヴォストークで函館丸に乗船し、三日後は小樽にいました。三日間ではウラジヴォストークから鬱陵島(松島)経由で小樽へ行くことはできません。山本修身作成の『蔚陵島一件録』に収録された聞き取り調査結果には、根本的な間違いを含んでいました。


 鬱陵島を発見というのは欧米的な世界の見方です。本稿冒頭で説明したように、鬱陵島は極東、日朝間では古くから知られている島で、改めて発見するような島ではありません。


 論文、杉原隆(前島根県竹島問題研究顧問)『明治4年提出の二つの「竹島(鬱陵島)渡海願」』(Web竹島問題研究所)によると、明治4年すでに2件の鬱陵島の開拓願いが出されていたことが紹介されています。さらに、明治12年に旧秋田藩主佐竹家当主や越後村上藩主、越前鯖江藩藩主らと大阪の深見信治ら4人が「海産起業願」を伊藤博文内務卿に提出しようとしていたことを論じています


 これらの開拓願とは別に島根県から山口県沿岸にかけ、漁村からは隠岐の島経由または直接に鬱陵島へ出かけ、伐木や漁業をする人々がいることは冒頭紹介しました。


・誤り―1.2 「榎本之妻弟林紳二郎東京府平民近松松二郎」

 榎本の妻、多津の弟は、紳二郎ではなく、紳六郎です。紳六郎(1860年生―1933年没)は、幕府奥医師の林洞海の六男で、1869年(明治2年)に西周の養子になりました。明治17年作成の資料なら、「西紳六郎」と書かれるべきですが、「林」姓となっている点は不思議です。1878年(明治11年)、西紳六郎は18歳で、海軍の兵学校に在学していました。

 近松松二郎は特定されませんが、近松松次郎であるなら、旧旗本で榎本の従者として箱館へ行き工兵隊に属した者がおりました。榎本が牢にいる間、榎本家へ相当の仕送りをしました。その後、鉄道建設業者として知られ、明治10年代には既に大手業者と肩を並べて仕事をしていました。土木工事史に登場する人物です。西紳六郎と近松松次郎であったとして、兵学校の学生が事業に関し、話し合うことは考えられません。

・誤り―1.3 「明治11年中 先つ試しに・・・汽船高尾丸に乗り込み該島へ渡り」

 海軍省報告(明治10年7月-明治11年6月)には高尾丸は存在しません。輸送艦高雄丸なら海軍の艦船として記録に載っています。高雄丸は、英国製の外輪船でしたので一目見れば汽船と分かります。1878年(明治11年)2月6日に高雄丸は水路局に所轄が変更され測量船に修理改造されることになりました。しかし、修理箇所が多すぎるため、3月27日に横須賀造船所所轄になり、修理は翌年の1879年(明治12年)2月25日まで続き、3月13日に水路局へ引き渡しが行われました。明治10年7月から明治11年6月までの間の海軍省報告書に記載された艦船表では、修羅艦という分類に入れられ、横須賀造船所に渡されていました。つまり修理中でした。

 尚、前年の1877年10月に、高雄丸は長崎港で花房義質弁理公使一行を乗せ釜山に向い、釜山で乗組員がコレラに感染し、死者も出しました。コレラ感染の対応を取りながら、翌年1878年(明治11年)の1月末に横浜港へ帰港しました。

 よって、明治11年に近松松二郎が乗り込んだ船「汽船高尾丸」が正しくは「輸送艦高雄丸」としても、高雄丸に乗り込んで、松島(鬱陵島)へ渡ることは不可能でした。

 

 ・論文での引用―2

 

 

 

 

・誤り―2.1 「十三年に至り ・・・ 軍艦磐城号を以て人夫職工等を渡島せしむ右軍艦借用せし」

「軍艦磐城号」は存在しません。「軍艦磐城艦」なら存在します。磐城艦は横須賀造船所で建艦され、明治13年7月6日に横須賀造船所より東海鎮守府に引き渡されました。日本海軍の黎明期であるが故、運用が始まってすぐ、7月15日から年内中修理が必要になりました。明治13年に磐城艦を借用して労働者を松島へ連れて行くことはできないのです。また、磐城艦の艦長は瀧野では無く長州出身の坪井航三少佐でした。

・誤り―2.2 「十四年十月に至・・・海軍省用船廻漕丸を以て」

 海軍省第一回漕丸、第二回漕丸の2隻は、明治14年3月に風帆船会社に貸し出されました。第二回漕丸は明治13年3月に、第一回漕丸は同年5月に商船免状を内務省から得ていました。明治14年2月2日に風帆船会社から第一と第二の回漕丸の貸出が海軍省に申請され榎本海軍卿は契約書に修正箇所を指摘して貸し出しを許可しました。つまり、海軍省用船回漕丸なるものは存在せず、民間企業用船の回漕丸が運航していました。

・論文での引用―3・・・万国公報と日本人

 

 

 

 

 

 

 

 

・誤り―『万国公報の名前すら一般にほとんど知られていない時代にあって、内田がそうした主張で切り返したことは驚嘆に値する。そうした知識を内田が身につけたのは榎本武揚の影響ではないかと容易に推測される。』


 
これは榎本と日本に対する重大な誤解です。まず、榎本にとって万国公報(国際法)は常識の範疇ですが、榎本のことで特筆される法律とは、海の外交法である海律全書で、特に戦時下の海上国際法規に関し、榎本は日本で比類なき第一人者だ、ということでした。ですから、万国公法(国際法)のことだから榎本だ、とはならないのです。江戸時代の日本国内で、万国公法がどれだけ普及し、また、利用されていたかを紹介します。


 幕末の海援隊の船と紀州の船の衝突事故、「いろは丸沈没事件」(1867)で、坂本龍馬は万国公法による解決を要求し、紀州藩は了解しました。また、岩崎彌太郎も同様に幕末に、長崎で勤務しているとき、鬱陵島は無人島だとそそのかされ、岩崎は国際法にのっとり無人島を掌中に収めようとして、仲間を集め、土佐藩の領土であるという標札をもって鬱陵島に上陸しましたが、島の住民から無人島ではなく朝鮮領であることを教わり、がっかりしました。


 万国公報(国際法)は、江戸時代、中国で漢語に訳され、日本に輸入されると、藩校や郷校(藩が運営管理する在の武家子弟や庶民の子供向けの学校)や寺小屋、手習いのテキストや書の手本として用いられました。輸入が追い付かず、海賊版が多数出回りました。西周は1868年に日本語の国際法(万国公報)を刊行し、日本の近代化に貢献しました。明治の学制では、大学でも小学校でも万国公報は教材として用いられました。

(尾佐竹猛『幕末外交物語』福永重勝、大正15年。尾佐竹猛『近世日本の国際観念の発達』東京共文社、昭和7年)

・結論

 以上のことから、山口県庁の文書館に保存されている、明治17年に山本修身が作成した『蔚陵島一件録』に登場する榎本武揚や軍艦への言及は、事実とは異なっているため、上記した箇所を元に、鬱陵島、竹島、松島と榎本武揚との関係を論ずることができないことは明らかです。

詳しくは、WEBサイトの『情報屋台』の以下の項を参照してください。
ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(前編)http://www.johoyatai.com/3816
ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(後編)http://www.johoyatai.com/3842
ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(余談)http://www.johoyatai.com/3863

以上

 

 


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