横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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黒船艦隊来航―対米戦略の諮問について ――ある和歌山藩士上申書

2021-03-25 12:28:20 | コロナ巣ごもりレポート

黒船艦隊来航―対米戦略の諮問について ―― ある和歌山藩士上申書

 

著者 今津 浩一 (執筆20201001)

 

 嘉永6年、黒船艦隊を率いたペリー提督が江戸湾に来航した。彼は、フィルモア大統領の国書、ペリー提督の信任状ならびにペリー提督自身の書簡等を浦賀奉行に手渡し、来春、この国書に対する回答をいただきに、再度来航すると言い残して、江戸湾を出帆して日本から離れた。

 

 7月末、当時の老中首座阿部正弘は、大名・旗本から陪臣・町人に至るまで、この乱暴な野蛮人にどのように対応するべきか諮問をした。

 

 

 

 その陪臣の中に、少ない海外情報を活用して、対外戦略を組み立てた上申書があるので、ご紹介したい。

 

 『逷蛮彙議(てきばんいぎ)』[i]という多数の上申書をまとめた史料がある。この史料は、水戸徳川家に伝来した史料であり、水戸齊昭が収集・編纂させたといわれている。諮問を受けた大名はほぼ全員の上申書が集約されており、旗本・陪臣らのものも幅広く採録されている。ただし、町人のものは採録されていない。

 

 『逷蛮彙議』は、17巻にまとめられており、御三家、御三卿、大名家ならびに江戸城に勤務している役付きの旗本の上申書が中心である。その内、第16巻は異色である。この巻には、紀州藩家老の水野土佐守[ii]が和歌山藩(紀州藩ともいう)の家臣28人の上申書を集めて、8月30日に提出したものである。『逷蛮彙議』の第16巻以外に採録されている上申書には、上申者の氏名が記載されているが、この第16巻については、氏名が書かれていない。しかし、その中には、極めて優れたものがある。第23通目の上申書は、田舎の侍にしては、乏しい情報から読み解いた世界情勢が、かなり的確であり、それによって独自の対外戦略を述べている。

 

 この上申書は、23頁にわたるかなりの長文である。なお、『逷蛮彙議』は、維新史料編纂會が水戸徳川家のオリジナルを筆写したものである。史料編纂會と記された用紙にタテ20文字、ヨコ10列が丁寧に筆写されている。したがって、用紙に一杯記入すると200文字となり、23頁は4600文字分になる。

 

 

 さて、どのような上申書であったのか、要旨を紹介する。

 

 まず、最初に「亞墨利加船ゟ 公邊へ通商願出候付御處置御尋之對(こたえ)」と表題をつけている。これを現代語に直すと、「アメリカ船から幕府へ通商を願い出たので、これにどのように対処するべきかとの諮問に対する答え」との意味である。

 

 本文は、次のように始まる。

 

 此度北亞墨利加夷酋ゟ公邊江通商願出候書翰二通右使節の者ゟ差出し候書翰三通都合五通之趣得と熟慮仕り御處置之宜き所を奉申上旨・・・

 

 今回、北アメリカの酋長(フィルモア大統領である)から、幕府へ通商の願いが提出された。その書翰2通と、これを持参した使節(ペリー提督である)の書翰3通、あわせて5通[iii]の内容をよく読んで考え、良い対応策を上申せよとの指示であった。

 

 これについての回答の要旨は次のとおりである。

 

1.アメリカの国書は通信・通商を願い出ている。しかし、よく読むと、文中にわが日本を軽蔑している文言もある。それを可能にしているのは、アメリカには頼りになるものがあるからである。頼りになるものとは、他でもない、大軍艦・大砲ならびにそれらを自由自在に操縦する技術が、日本よりも優れていることである。

 

2.来春、回答を受け取りに来る。その時、要望の6ヶ条(通信・通商・南の一港・石炭・食料・漂流民救助の6点)をすべて拒絶するなら、アメリカ艦隊は次の手をうつだろう。

(1)伊豆七島を奪略

(2)浦賀経由の海運妨害

(3)その結果、江戸市中に群盗蜂起

 

3.米国国書にも、わが国が唐蘭(中国とオランダ)以外交易を禁じていることを良く知っていると書かれている。かつ、今まで旧法律のとおり、通商を各国に断ってきている。よって、アメリカにも断るべきであるが、戦争になっても困るので、要望6ヶ条の内、3ヶ条(石炭、食料、漂流民)を受け入れてはどうか。3ヶ条を受け入れれば、ペリー提督もその他の3ヶ条を強く要望することはないだろう。

 

4.しかし、ペリー提督はなにをするかわからないから、江戸の蔵々に米を備蓄せよ。また、富津観音崎に大筏を多数(数千万組)組み立てておく。その他、わが国には、大軍艦はないから、中小の軍用船を江戸湾に集結させておく。

 さて、米国国書にも5ヶ年間通商を試みてほしいというくだりもある。5年後に交易を中止するのも勝手次第である。

 むかし、漢の賢君文帝は、匈奴と和親を結び、毎年金と絹を贈った。また、宗の賢君は、契丹と通交させ、金と絹を莫大に貢納し、平和を保った。これらに引き比べれば、互市・交易は、お互いに有無を通じあうことであり、両国間に優劣・上下の関係はない。よって、国威を損じるということにはならないだろう。匈奴・契丹は、中国北方の蛮族であり、勇武・壮健であり、一方、漢・宗は文若華奢である。対抗力を身に着けるには、数十年かかるだろう。しかし、わが国は、天性勇武・壮健であり、ただ、大軍艦・大砲・操練が不足しているのみである。アメリカに対抗力をつけること、追いつくことは、短期間で可能である。

 

5.通商の方針について検討したい。家康公、秀忠公の時代、わが国はイギリス・イスパニア等西洋諸国その他十ヶ国余に通商を許可していたという事例がある。よって、上記のとおり、通商を一時的に、権宜の為に5ヶ年間許容するべきである。さして、国体を失うことにはならない。加えて、最近、将軍の逝去もあり、大軍艦・大砲の操練も不十分、士民は太平に慣れている現状から、にわかに戦争するとなると、兵術家といえども、勝利できるとは断言できない。

 

6.歴史に学びたい。元寇の時、万が一、敗れても、九州から鎌倉までは遠い。途中で2度3度再戦することができる。しかし、浦賀へ来たアメリカ艦隊に敗戦すれば、江戸は目と鼻の先であり、江戸は大変な騒擾になる。また、一旦戦争になれば、年々数十万人の兵士を戦場に出すことになり、大小名も幕府も財政的に破綻する。私が提案している5年の間通商を許すというのは、大軍艦・大砲・操練が行き届くまでのことであり、取るに足らぬ犠牲である。心配することはない。

7.最近の事例では、清国のアヘン戦争を見て考えたい。そもそも、アヘンは、清国で禁じられていた。これを、イギリスが清国に持ち込もうとしたので、清国はアヘン3万箱を焼き捨てたのである。道理はあきらかであり、清国の方が正しい。しかし、イギリスはこれを口実に戦争を始めたのである。清国は大敗北を喫した。ずる賢い夷人たち(イギリス人、アメリカ人ら)は、このような手段をとることがある。対応はよく考えるべきである。

 

8.日本は、海に囲まれている。この点を活用したい。

 5-60年前、フランスにナポレオン[iv]という君主が出現し、その軍事力は盛大であり、ヨーロッパ諸国の大半を併呑した。しかし、イギリスだけは征服できなかった。それは、イギリスとフランスは、わずか巾13里[v]ばかりのドーバー海峡によって隔てられていたからである。海上戦争の武備を固めていたので、フランスは手を下すことが出来なかったのである。アメリカと日本の間には13里[vi]以上の海、万里の海がある。日本が武備を固めておれば、アメリカは畏縮するだろう。その遠い補給路を考えれば、日本に戦争を仕掛けてくることはないだろう。

以上


[i] 『逷蛮彙議』は、その奥付によると、もと水戸徳川家の第十三代当主、徳川圀順侯爵が所蔵していた原本を維新史料編纂會が大正九年から五年間かけて筆写したものである。現在、その筆写本が東京大学史料編纂所にあり、そのホームぺージにアップされているので、だれでも自宅のパソコンで見ることができるし、自宅のプリンタで印刷することもできる。全部で6,562頁ある。他の史料(たとえば、鈴木大雑集)に採録されたものと比較すると、文章は同一である。所蔵来歴やこれらの比較からみて、信頼できる史料だと考える。なお、この史料に収録されている大名は、ほぼ全員であり、同じ時期に、同じテーマで、歯簿是認の意見書がまとまっているという、きわめてまれな、史料でありこの時期の研究には欠かせないものである。なお、拙稿「ペリー来航対策の大名上申書」『開国史研究第十九号』2019 を参照ください。

[ii]水野土佐守は幕府から管理のために幕府から家老として派遣されたいわゆる「付家老」であり、幕末の家老の中では怪物といわれるやり手の家老であったという。特に重要な業績は、当時幼少であった紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を、井伊掃部頭と手を組んで推挙し、成功したことである。なお、紀伊徳川家には、16人の家老がおり、その内、4人が「付家老」であった。水野、安藤、三浦、久野の4人であるが、その内水野と三浦の2人は定府(参勤交代せず江戸に勤務した)であった。『大武鑑』によると、水野土佐守忠央(ただなか)は、紀伊新宮に3.5万石の領地を持ち、江戸に上(市ヶ谷)、中(深川)、下(市ヶ谷)の3か所に屋敷を与えられていた。また、水野土佐守自身は、藩主に代わって、上申書を書いており、『逷蛮彙議』に収録されている。

[iii] この5通を明確に示した史料が少ないが、『俚巷風話 巻之三』によれば、次の5通である。(1)フィルモア大統領あらの米国国書、(2)ペリーの信任状、(3)ペリー提督自身の書翰、(4)ペリー提督の口上書(大統領からの命令で条約を結びに来たこと)、(5)ペリー提督の口上書(来春回答を受け取りに再び江戸湾口に来る)以上5通。

[iv] 「ボナバルテ」と表記している。

[v] 「ガライス」と表記している。ドーバー海峡は、イギリスのケント州フォーランドとフランスのカレー県カレーの間が最も狭く、34kmである。13里(52km)より狭い。

 


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